幕間:和歌と藍色
◇
和歌は藍色が怖かった。
犯罪に手を染めたからだけが、原因ではない。
藍色が、酷く大人しかったからだ。
その沈黙を、最初は楽でいいと思った。
怒鳴られたら怖いし。暴れられも困る。人を殴ったことなんてないのだ。
片目を傷つけて監禁して何をと笑われそうだけれども、嫌いな兄にだって殴りかかったことはない。
藍色は余計なことは何一つ言わない。その静寂さは、日に日に恐怖として積み重なっていた。
今は、その姿を見るだけで恐ろしくてたまらない。
例え、自分より年上の人間だったとして、自由を奪われて、片目を傷つけられても淡々としているなんてあり得ない。
ののかの瞳に藍色の色が映るのが嫌だったから勢いよく切り付けた。
医者でもない素人の治療では、もう片目は光を写すこともないだろう――仮に医者の治療を受けても治ったのかは、わからない。
応急処置に関しては、医療箱の場所を示して、ああしろこうしろと命令してきたのは藍色だった。
細菌に感染して死なれても困るし、知識もないのでそこは藍色の指示に従った。生々しい血に、気絶しそうになった。
痛みだって、鎮痛剤を飲んだだけで終わらせている。切った当初はともかく、今はうめき声も漏らしていない。
そんなの怖すぎる。痛みに耐えられる人間なんて、おかしい。
この家自体が、不気味でもあった。
最初は便利だ、と思ったけれど、冷静になって考えるとどうしてこの家に人を拘束する鎖とかがあるのだ? どうして兄は普通にそれらを持ってきたのだ? 疑問が出てくる。
もはや怖くて問えない。ホラーハウスより不気味だ。
和歌にとって藍色は得体のしれない化け物にしか見えなかった。
どうしてこの男は、自室で監禁されても、抵抗しないのか。
抵抗されたら怖いから縛っていても、藍の瞳で見つめられるのが怖いから目隠ししても、此方が優位に立っているとしても――抵抗されたかったわけではないけど――無抵抗は心がざわつく。
何を考えているのか理解できない。真意を知りたいけど、知りたくない。
暴言を吐かれるのは嫌だが、食事や水を飲んでもらうときに手を伸ばして噛みつかれたくないから、口を塞がず、床に皿を置いたのに、藍色は無言で食べた。
本当なら風呂にだって入ってもらいたかったけど、一時でも拘束を緩めたら逃げられそうで寒心する。警察に駆け込まれたくない。白く綺麗な髪には罪がないから、整えたかったが、手を伸ばして触れられない。
夜中にやってきている兄が、藍色の髪を三つ編みに変えたようなので目立った絡まりはないことに、少し安堵する。
瞳の包帯とかも兄が取り換えているようだった。怪我をして血の付いた包帯なんて見たくないから助かった。
藍色が時折少し身じろぎするだけで、和歌は身体が跳ねた。
動けないようにしているから、襲ってくることなんてないと分かっているのに、身が竦む。
藍色が言葉を発するのを恐れた。一分一秒だって藍色と顔を合わせたくないが、死なせるわけにもいかない。仕出かしてしまった罪が大きすぎて解放することもできない。
だって、この罪が暴かれてしまったら――ののかに会えなくなるだけじゃなく、両親にも迷惑が掛かる。周囲の反応だって怖い。
監禁を続けたくないけど、藍色を傷つけた手前、なかったことにはできない。警察に捕まりたくはない。藍色に死んでほしくないから、逃げ出すこともできない。
毎日が生きた心地がしなくて、涙すら零れる。
「どうして、こんなことになっちゃったんだろ」
高校生に成人男性を監禁するなんて、無理な話だった。
◇
藍色は、気配で日に日に和歌がやつれているのが手に取るように分かった。
本来、何の知識もなく覚悟もない状態の、ただの高校生が監禁を成功させるなどありえない。
現状が成り立っているのは、みずと色葉を除けば藍色の家への訪問者など、絶無に等しいからだ。藍色を知っている綾瀬だって滅多に足を運ばない。
そういう意味では、この家の中は監禁に適している。他人に発見される恐れがない。
和歌の素人考えの監禁方法では上手くいくはずもない。
それ以前に、普通、監禁など成功しない。
成り立っているのは相手が藍色だからこそだ。皮肉なことに、成功しない犯罪が成功してしまった苦痛を和歌は味わっている。
藍色が基本的に無言で無抵抗な態度をとっているのも、和歌からすれば恐怖を招いている一因だ。だからこそ、何も言わない。
監禁者の方が立場は上であるはずなのに、命すら取れる状況であるのに、藍色の動きに一喜一憂しているのは、愚かだ。
人を殴ったことのないような人間が、勢いだけで刃物を持ち出して傷つけるべきではない。
故に、和歌の心が衰弱するのを待っていた。一日、二日、一週間、二週間、と和歌が来るたびに曜日を忘れないように数える。
三週間が近づこうとしていたその日、和歌が学校帰りに日課となっている藍色の世話をしに来たのを見て、久しぶりに口を開いた。
「和歌。私をそろそろ出せ。お前に他人の監禁は向かない」
絨毯に上に物が落ちて、藍色の膝が濡れた。和歌が持ってきたボールを落としてあとずさりしたのが分かった。
微かに悲鳴を上げている。
どっちが監禁しているのかわかったものじゃない状況に藍色は少しだけ笑った。
それが空恐ろしかったようで、和歌が壁にぶつかる音がする。
「これ以上は、続かないぞ。止め時を見失っている。潮時だ」
「ど、どうして、あなたにそんなことを、言われないと……」
「和歌。今、私を自由にさせるのならば約束してやる」
「やくそく?」
「そうだ。私はお前を殺さないでおいてやる」
「えっ――」
和歌の顔が恐怖で引きつる気配がした。色葉と違って弟は自分の正体を知らないことをうっかりしていた。
しかし、正体を知らなくとも、藍色の部屋にあった人を監禁するのに適している道具や、監禁される側の態度をとっていない藍色を見れば、真っ当な人間ではないだろうことは予想がついているだろうに、驚かれるとは思わなかった。
大体、監禁した相手の復讐に怯えている癖に、殺される可能性を視野に入れていないところがまた、愚かしい。
「私はお前を殴ったりもしない。蹴りもしない。私がお前を傷つけることはしない。警察に駆け込むこともしない。お前が、私を今ここで自由にするのであれば、私は和歌に何もしないことを約束してやる」
「それって」
冷静に考えれば、解放すれば警察にはいかない条件は、おかしなことだとわかるが、冷静ではない和歌にはその不可解な部分まで思い至れない。
精神が摩耗して、監禁することに疲れ切っている和歌にとって、犯罪者にならないし、この得体のしれない男に復讐をされないという約束の安らぎは、心を揺れ動かすのに十分だ。
ののかを失わず、家族に迷惑をかけずに済む、最良な手段。
和歌は疲れている。到底なしえないはずの監禁生活に。心が限界と悲鳴を上げるこの時を――藍色は、大人しくして待っていた。
あとは、藍色から救いの手を伸ばしてやるだけだった。
本当は、自分をこんな目に合わせた輩を生かしておきたくはないが、色葉の弟を殺すわけにもいかない。殺せないまでも、痛めつけて骨くらいは折りたかったが、感情を飲み込み、何もしないことを蜜にして、傷つけずに状況を打破する方が重要であった。
これ以上は、和歌の心が持たない。
余力があれば、解放しないだろうし、限界を超えてしまえば、藍色が死ぬ可能性が出てくる。殺人鬼とて放置されれば死ぬ。最適で最良な時期は、今日だった。
「私を解放すれば、これ以上、私に対して時間を使わなくていいということだ。お前の彼女の――ののかと、有意義な時間を過ごした方がいいだろう。お前は、ののかと幸せになりたいのだろう? そのために、私の瞳を切りつけたのだろう?」
「…………」
「なら、もう監禁はやめろ。そうすれば、私はお前に何もしないことを約束するし、お前は私を監禁しなくて済む。ののかと一緒にいる時間が増える。無為なことに時間を使って幸せをなくすのか? 監禁を止めれば、損することなんて、何一つない」
「で、でも! でも、ちょ、ちょっと待って!」
「待たない。次はない。今ここで決めろ。監禁を続けてやっぱ止めたくなりました、ってなったときは、今のような約束はしない。さて、どうする?」
待つ時間は与えない。藍色の言葉に、和歌は――それが唯一の救いであるように、助けられたのだと勘違いするように頷いたのが、伝わってきた。
久方ぶりに自由を得た藍色は、和歌が逃げるように部屋を出て行ったのを見て、体を伸ばした。
「たく、クソガキが……」
本当にどっちが監禁者かわかったものじゃないなと思った。
このまま、色葉の元へ向かいたかったが、流石にと、洗面台へ向かい鏡を見る。
色葉が結んだ三つ編みを解けば、髪の毛はパサついているし、顔色も悪い。
この状態でみずの元へ行けば、みずが心配してしまう。片目はどうしようもないが、それ以外は普段通りを演じる必要がある。尤も、仮にみずの元へ行かなくとも、流石に風呂にはいって身なりは整えたかった。
「どのみち、あいつはみずを傷つけることはしないしな」
色葉のことだから、みずに対して、藍色と会えていない状況に関して適切な嘘を並べているはずだ。
藍色はお湯を張る間に、冷蔵庫を開けて軽食を取った。腹が減っていた。
和歌は普通の料理を出すが、栄養バランスもなく、監禁させている相手に食べさせるには向かないものが多く、しかも和歌は学校終わりにだけくるから色葉が来ない日は一日一食だった。食事に関して言えば、色葉が夜中に持ってくるゼリーや栄養が詰められた固形物の方が味はともかく食べやすくて良かった。濡れたタオルも渡してきたし、傷の手当もしてきた。兄の方がまだ監禁には向いている。
湯船にゆっくりつかると、体が癒された。久しぶりの湯は気持ちがいい。
精神上問題はないと判断して、機が熟すのを待っていたが、疲労は確実にたまっていた。
風呂から上がり、トリートメントで髪に艶を与えてドライヤーで乾かし終わってから、鏡を見て、瞼の上をなぞるように指を這わせた。視界は不便になった。
距離間隔が若干つかみにくい。
あの時、和歌を殺すかもしれないと思って、反撃しなかったことに悔いがないかと聞かれたら、答えにくい。
けれど、殺すことが趣味だったから、刃物を持った相手に対して、殺さないように加減できる自信がなかった。故に、避けようとしたが、判断が遅れて、片目を失った。
流石に眼帯の常備はないので、包帯を片目に巻いた。
藍色は綾瀬へ電話をかける。最初は電話に出なかったが、何回かかけると通じた。
『おい、どうしたんだ、何度も』
「綾瀬。これからすぐにうちへ車でこい」
『は――? オレはまだ仕事中なんだけど、これから夕食時で一番いそが』
「早退してこい」
『ちょっと!』
「理由は後では話してやる。今すぐ私の家へ車でこい。もしお前が、それで仕事を続けられなくなったら、その時は再就職するまで養ってやる。だから……今日は、私を助けてくれ」
『わかった』
綾瀬は直向かうと言って電話を切った。
それまでの時間、仮眠をとろうと藍色はソファーに横になる。心地よかった。