悪夢みたいな幸福
今の状況は果たして現実か? 夢か?
和歌が強硬に及んで、藍色の片目を傷つけた。藍色の瞳が、ののかに映らないようにという願いで。
けれど、和歌の自発的な迷走は、ののかが誘導したことだった。
和歌が大好きな、ののかは、和歌の愛を一生縛るつもりで画策して、藍色の瞳を好きな演技をした。和歌が罪を犯すように、と。
通報や復讐を恐れた和歌は、藍色を監禁する提案を俺に持ち出し、俺は藍色がいない時間をみずと過ごせるという誘惑に抗えず、和歌に手を貸して藍色を閉じ込めた。
――悪夢みたいな幸福を選んだ。
そうして今は、和歌に残りを任せて、一人暮らしをしている自宅へ戻ろうと横断歩道で青信号に切り替わるのを待っていた。呆然と空を見上げる。
感情が追い付いていないのに、心はみずと一緒に入れると浮かれている。
どうかしていると理解しているのに、引き返して藍色に土下座することもできない。
いつの間にか、玄関の前に到着していた。身体は勝手に自宅の場所を覚えているようだ。
鏡がなくて良かった。俺の顔が泣いているのか、笑っているのか、見なくて済む。
玄関の鍵をかけて、リビングへ戻ると、みずがベッドの端に座って読書をしていた。
黄色のカバーがかかった積読の文庫は、何の本だったか覚えていない。
「おかえり、いろ」
「ただいま」
平静を装って、答えると、みずが足を軽く揺らした。
象牙色の淡く、柔らかな髪。暖かな瞳が、此方を見ていると思うと、胸が痛んで、心が安らいだ。
ゆっくり歩いて、みずの頬に手を触れた。
「ちょっと手を先に洗いなよ」
当たり前の言葉に、それもそうだと気が抜けて笑い返した。
みずは、俺たちに何が起きたのかを知らないまま、いつも通りの柔和な微笑みを向けてくれる。
「いーろー? 返事がないけど?」
桜のように切なく散り落ちそうな儚さで、目の前に、みずはいてくれる。
「ねえ、みず。暫くの間、うちで暮らしてほしいんだ」
願った欲望は、あっさり言葉になって出てきた。
和歌に呼ばれる前に、ルームシェアを持ち出して断られたばかりだというのに。
でも、これはルームシェアではない。
「え?」
「藍色が、暫く色々あって手が離せないみたいだから、その間うちにいてほしいんだ」
小首を傾げて困惑するみずに、俺はいつも通りの嘘を並べた。
優等生の佐京色葉が窮屈で、嘘をつかないで過ごせる相手を渇望して、出会ったのがみずだったのに、いつの間にか、みずには知られたくないことが増えて嘘を積み重ねていった。
気軽で気楽で思ったことを何でも話せる親友を望んだのに、偽りの仮面を重ねていく。
「……なんで嘘をつくの?」
普段と変わらないはずの偽りは、看破された。
いや違うか。和歌の元へ向かったのに、藍色の話をしたらおかしいと気づく。
「ああ、和歌と会って母さんに謝りなよって諭した後、藍色から連絡があってさ」
ちゃんと辻褄を合わせないと駄目だよな。
「……違うでしょ。どうして嘘をつくの」
それでもみずは、信じてくれなかった。何がいけなかったのだろう。
「どうして嘘だと思うのさ」
「どうして嘘をついてばれないと思ったの」
逆に、問い返されてしまった。
答えは簡単だ。
嘘をつくのが得意だから。真実は話したくないから。みずに知られたくないから。
「あいに何かあったの?」
人の顔色を伺って生きてきたみずは、本来人の嘘に敏感だ。それは他人に恐怖を抱いているからだ。
だから、親友という枠組みに収まった俺や、保護者的立ち位置にいる藍色に対しては、怯えがないので疑うことをせず、言葉を信じ切っていた――はずだった。
「……藍色が、みずに告げる時間がなかっただけだよ」
嘘だとばれているのに、その嘘を貫きとおそうとするのは滑稽だ。
けれど、真実を話して嫌われたくない。素の佐京色葉を見せられる安心の感情は、何処へ消えたのか。
「そうかもね。だとしてもおかしいでしょ。何が起きたのか、説明して」
藍色は所業的に問題が起きても不思議ではない。
けれど、トラブルが発生したのならば、もっと理にかなった説明をするとみずは理解しているのだ。
曖昧模糊にした言葉は、藍色らしくないのだと気づかれた。
ならばどんな物語を作れば良かったというのか。
だから、階段を踏み外していくように、ずれていくしかない。
「――じゃあさ、みず。親友やめようか」
出てきた言葉は、みずを傷つけるためのものであり、俺が選びたかったものだ。
みずは親友に拘っている。親友は親友から変化しない。それ以外の価値には転化しない。
覆らない。変わらない。不変だ。
でも、佐京色葉は、親友だけじゃない『なにか』が欲しかった。
言葉で当てはめることのできない関係がずっと欲しかった。親友なんて、他の数多に適応されない、唯一性を手にしたい。
みずの目が驚愕に見開かれ、沈んでいく。
悲しい顔をさせたくないけど、悲しい顔をさせないと、手を伸ばしたものには触れられない。
「どうして、いろはそんなことを言うの……?」
「だって、みずが俺を信じてくれないから。信じてくれないなら、違う『なにか』になるしかないじゃないか、そう思わない?」
親友とは無条件で相手を信じるものじゃないの? と。
俺の求める形ではないが、親友から変質する『なにか』になれるならば、それはそれでありだ。
「いろ……な、なんで……」
「大丈夫だよ、みず。藍色とは俺が連絡を取れる。だから、此処から出ないで、俺と一緒にいて。お願い。親友でしょ?」
親友じゃない『なにか』を求めている心で、口では親友でしょ? と告げる都合の良さは滑稽だ。
これは親友を逸脱している? それともまだ親友のまま?
みずは、どちらに転がってくれる? なにか、に変質してくれる? してほしい。
「ねぇ、みず。どうする? 俺たちは親友? それとも親友じゃない『なにか』?」
「親友だよ」
間髪入れない答えに、少しだけ残念さを覚えながら、親友を選んだ以上押し切れるという確信に笑みが零れる。
藍色に何かが起きたのだと思わせて、みずを縛ってしまえばいい。
そうしよう。それが正解だ。
みずは俺を親友だと言ってくれるように、みずは困ったことに、藍色も大切なのだから。
「あいは、大丈夫なの?」
「うん。大丈夫だよ、生きているから」
嘘で並べられた言葉に、真実を混ぜた。
大丈夫かと問われれば、多分大丈夫じゃないけれど、死んでないことは、事実だ。
どうせ、仮初だ。
仮初の楽園ならば、全ての時間を満たしたい。
嘘に嘘を並べて、出来上がった砂の城は、果たして風で倒れない程度の強度はあるだろうか。
嘘は真実へと塗り替えることを出来るのだろうか。
みずは、親友じゃないなにか、も認めてくれるだろうか。
「この部屋にいて。外に出ないで。大学にもいかないで。ただ、俺と一緒に過ごして」
「何言ってんのさ、授業をさぼるわけにはいかないよ」
生真面目なみずらしい言葉に、俺は笑った。
「大丈夫だ。少し休んだ程度じゃ、俺もみずも単位は問題ない。授業の範囲だって、俺が仕入れるから」
優等生の佐京色葉を利用して。必要なものは過不足なく手に入れる。普段はサボタージュをしないから、出席回数で単位を落とすこともない。大丈夫。
授業の六割七割は最終的には出席になるし、出席を取らない講義もある。みずのも、把握している。俺もみずも、一二年の時に真面目に授業を詰め込んでいるので、仮に単位を落としたところで留年することもない。
だから――だから、一時間でも多くいたい。
だって、俺と和歌は、あの殺人鬼に対して、犯罪に手を染めたのだ。
「単位は問題ないとかそういう話じゃ」
「駄目」
「さっきからどうして、何が起きたのかを教えてくれないの? 詳細を説明してくれたら、僕だって大学を休んでって言葉を頭から否定しないよ」
普段は気弱で人見知りをするのに、こういう時のみずは気が強いし、頑固だ。
「教えられない。教えない」
教えたくない。
いずれ知られるのだとしても、崩壊しない間だけでも、考えない至福でいさせて。
親友じゃない『なにか』を模索させて。
みずと一緒に暮らしてみたかった。みずと親友じゃない枠組みになりたかった。
このチャンスを逃したら、ずっと親友でしかいられない気がする。それは苦しい。
何より、藍色の邪魔も入らない夢のような時間が訪れるのだ。無駄にしたくない。大学の講義なんていらない。大学に通う時間も必要ない。
ただ部屋にいて他愛ないお喋りをし続ければいい。
俺が首を横に振って伝えない意思を明確にすると、渋々だがみずが承諾してくれた。
折れたというよりも、藍色に何かが起きているのならば、藍色に迷惑をかけたくないという感情が上回ったような気がするが、それでも、構わなかった。
翌日。大学をサボった。
昨夜はみずより遅く寝て、朝はみずより早く起きて、みずが変わず寝ていることに胸を撫でおろす。
深夜のうちに消えていたら、どうしようかと不安だった。かといって精神的に疲労困憊で寝ないわけにもいかなかった。
ベッドはみずに使ってもらって、俺は弟が泊まりに来たようとして親が準備していた布団――和歌は泊まりにきたことがないので新品の――を押し入れから出して使った。
朝起きたみずは、自分の部屋じゃないことにちょっと寝ぼけて混乱していたので、みずに見られないように少しだけ笑う。
俺は心待ちにしていたように、おはようとみずに声をかけた。
「おはよう」
みずの、その言葉に心が躍った。望んでいたものが、手に入った気分で幸せだ。
外に出たら、みずがいなくなるんじゃないかと心配で、食材や日用品で必要なものは、宅配で全て頼んだ。便利な時代で助かった。着替えは俺のを貸したけど、上はともかくズボンはウエストがあわなかったので、新調した。細くて心配になる。
「いろ、卵買いすぎ。健康に悪い」
段ボールの中身を整理しながら、三パック買った卵を見たみずに怒られた。
「卵焼き作ってほしくて」
「二人で三パックもどうするつもりなの、不健康で体調崩すよ」
どちらかといえば、不健康生活真っ只中なのは藍色だ。卵三パックくらい許してほしい。
数日が経過して、普段はメロンパンとかの菓子パンで済ませていた朝食や昼食が健康的なものに変わった。
みずは度々藍色のことを訪ねてくる。
俺は内心は藍色のことなんてどうでもいいのにと思いつつ、今日も笑顔で嘘をつく。
見抜かれていても、どうでも良かった。みずの感情は読まないようにした。俺が楽しければそれでいい。
一週間が経過した。部屋に引きこもる日々は、快適だった。外の空気が吸いたければ窓を開ければいい。風が運んできてくれる。
必要なものは宅配で届く。勉強も、俺の教材があるから困らない。
みずが暇にならないように通販で本を何冊か買った。多分みずは好きだと思うものをチョイスした。喜んでくれたかはわからないけど、みずは本を読んでくれた。新しいゲームも始めた。麻雀ゲームでNPCを混ぜてやったけど、何故かNPCにすら勝てなかった。
「いろって実はゲーム弱い?」
弱くない。断じて。
数日に一度は藍色の様子を見に行った。
基本的には和歌に任せているけど――和歌がしでかしたことだし、俺はみずと一緒にいたいからなるべく足を運びたくはなかったが、一人で任せて死なれたら困るので、そうもいっていられない。
だから外出する時間は深夜で、出かける前には必ずみずにお酒を飲ませて深い眠りにつかせた。
酒に弱いみずは、少しの量でもすぐに寝入ってしまう。
だから、お酒の度数を高くすれば、朝まで目を覚まさない。ビールは苦いといってみずは好まないので、カクテルの作り方を覚えた。
生クリームをたっぷりのせたホワイトルシアンは、みずにぴったりだった。ロングアイランドアイスティーはケーキと一緒に食べた。誕生日パーティーみたいで楽しい。アイスティーみたいな見た目を裏切らない味は美味しかった。
見た目が綺麗なカクテルは、みずととても似合う。以前より、みずに似合うと思っていたエメラルド・ミストも作った。
お蔭でビールの出番は暫くなくて、キッチンにはカクテルを作るための酒の瓶が沢山増えた。楽しく作ってプチパーティーにしているから、みずに眠ってもらうためにアルコールを摂取させているとは気づかれていないはずだ。断られたら、無理やり飲ませるつもりだけど。
酒に顔が赤く染まり、静かに船をこいでから寝るみずにタオルケットをかけてあげるのは幸せだった。
二週間が過ぎた。何事もなく過ぎる日々は、充足している。
大学の友人からは最近講義をサボっているのがバレたので北海道へ旅行していることにした。お土産を強請られたので北海道の名物を通販で用意しよう。
藍色は監禁されているとは思えない程、普通に元気だった。
いや、別に元気ですと返答があったわけじゃないし、怖いから聞いてもいないんだけど。
少なくとも、素人に監禁されて不自由を送っているとは思えない程に衰弱はしていなかった。
藍色じゃなきゃ死んでた気がする。藍色で良かった。
拘束されている藍色は安堵できるが、自由になった藍色を想像すると恐ろしい。
その時が、謳歌の終わる瞬間――暗澹な気持ちになるので、考えるのを止めた。
みずと楽しい思い出を作ろう。
正直、いまは藍色が怖いので必要以上にお喋りを楽しみたいわけじゃないんだけど、でも偶にみずのことを自慢したくなる。お酒を飲んだ時のみずとか。卵焼きが美味しかったとか。他愛のないことを語る俺に、藍色は短く言った。
「愚かだな」
知っているさ。でも、俺は幸せだよ?
「でも、藍色だってみずの話は知りたいでしょ?」
「それとお前の愚かは別だ」
それも知っている。
朝が怖くて夜が怖い。昼間は安心できる。
目を離してもみずがいなくならないとわかっているけど、ふとした拍子に藍色の元へいってしまいそうで嫌だった。知られたくない。見られたくない。
元々夜はみずの方が寝るのが早いけど、俺はどれだけ眠くてもみずより先には寝なかった。みずが寝たのを確認してから、寝た。朝はみずの方が起きるのが早いから、みずより先に早起きをした。結果として睡眠時間が短くなって、日中は眠気に襲われたけれど、昼寝はしなかった。
鎖でつないでいるわけではない。言葉でどこにもいかないでと懇願しているだけだから、零れ落としたくなかった。
「いろ。最近コーヒー飲みすぎ。少しはカフェイン摂取抑えたほうがいいよ」
「今コーヒーブームなんだ。ブラック無糖が恋しくてやめられない」
飲みすぎて気持ち悪くなることもあった。でも気持ち悪いと、眠気が吐き気に負けるからそれでも良かった。だって、みずが寝ていることに安心できるのだ。藍色を閉じ込めることでできたこの時が続けばいい。
どうか逃げないで。どうか転がり落ちないで。
今日も明日も明後日もこの日々が続いて。続いてくれるなら、優等生じゃなくてもいい。
優等生の佐京色葉は大学の講義をサボらないし単位を落とさない真面目な学生だけれど、それを過去にしてもいい。留年だって最悪しても構わない――。
けれど。所詮、ひとときの夢。夢はいずれ現実に還っていく。
三週間が経過しようとしていたその日、部屋のインターホンが鳴った。
宅配便は明日配達予定だったはずだが。
至福が崩れる予感がして、心音が早くなる。
チェーンのかかった扉が壊れる音がして、リビングに入ってきたのは――自由を奪われたはずの藍色だった。
「あ、藍色……どうして」
声が、震えた。
「どうしても何も、理由が必要か?」




