幸せ
「は?」
この弟は今なんていった? 助けて? 嫌いな兄に救いを求めただと。
ののかちゃんに振られたのか? 困惑しながらも、食器棚を背もたれにして何が起きたのかを尋ねる。耳越しに聞こえる息があらい。
『お兄ちゃん、オレ。どうしよう、ねぇお兄ちゃん、どうしたらいいの。オレは、ただ……ただ、ただ。ののかが好きなんだ……だから…………オレは』
要領を得ないが、失恋したわけではなさそうだ。それより、もっと悪い方に坂道を転がっているような声だ。
「……和歌。お兄ちゃんに何をいいたいのか、言葉を纏めておくんだ。わかったね? かけ直すから、その間に落ち着いておきなさい」
流石に、弟を無視はできない。
一旦通話を切ってから、ベッドの端っこにお行儀よく座っているみずの元へ戻る。心地よい空気を惜しみながら、両手を合わせて、謝る。
「ごめん。和歌がテンパっているみたいだから迎えに行って慰めてくる。悪いけど部屋で待っていてくれないか? 本とか好きに読んでいていいから」
「いいよ。気にしないで。弟さん、大丈夫?」
みずは、和歌を心配した柔らかい表情で尋ねてきた。
「うん……なんか、母さんの大事にしていたものを壊したみたいでさ、咄嗟に怒られるのが嫌で部屋に隠していたんだけど、それがバレて。謝ればいいものを、口論になって思わず家を飛び出しちゃったみたいだ」
「それは駄目だ。いろ、早く迎えに行ってあげて」
「うん」
いつもなら平気な嘘が、少し心苦しい。
みずが和歌を心配してくれているからだ。
でも、言葉は嘘で構成された。和歌の声は、それだけ俺の胸を掻きむしらされそうな不安定さがあった。
鞄に財布とスマホを詰めて、外に出る。閑静な住宅街を少し進んだところで、電話をかけた。暫く通じないで、ただコール音だけが伝わる。辛抱して待つと、ようやっと和歌が出た。声は相変わらず震えているが、先ほどより少しばかりはマシだ。
「和歌。何をしたんだ? ちゃんと、通じる言葉で伝えろ」
『お兄ちゃん…………』
「ちゃんと伝えなさい。何があったんだ」
『……お兄ちゃん…………オレ、オレは――』
「――――は?」
そうして、弟が告げた言葉に、頭は真っ白になった。
息も絶え絶えでたどり着いたのは、藍色の家だ。ドアノブに手を回す。鍵は開いていた。辛うじて靴を脱いだのは、なけなしの平静を装いたいからか。
短い廊下を走り、リビングへ飛び込むと――ソファーの手前で蹲っている藍色と、困り果てている和歌がいた。鮮やかに、彩り絨毯を染みつかせる赤、が目に入った。
「っ――。藍色! おい、大丈夫か!?」
藍色の手は、片目を抑えていた。指の間から赤が零れ落ちている。
身体は変に絡まったソファーの布が巻かれて、白髪と重なり合い、乱れていた。血の気が引くような光景は、続く。
和歌の右手には、果物ナイフが握られていた。ナイフの刃先も、赤い。
「わ……」
「この……クソガキ……が」
俺の声を重なった、藍色の怒気に、俺も和歌も怯んだ。
身を固くして、果物ナイフを手にしている和歌の姿は、狩られる前の動物のようだ。
「一体何があったんだ、どうしてこんなことになっている!」
俺の怒鳴り声に、和歌は首を激しく振った。
「だって、だって! ののかが、の、ののかが! 藍色さんのことばっか気にするから! だから!! だから……! だったら! 綺麗な瞳なんて! なくなってしまえばいいと思ったんだ!」
「だからって強硬手段すぎるだろ!! 大体どうしてお前この場所を」
「お兄ちゃんの家で年賀状を見た!」
ののかちゃんが、藍色の瞳ばかりを褒めると、場違いな苦情を言いに俺の家へやってきたときか。確かに、和歌は、俺が藍色との会話を終えて部屋へ戻ると、呑気にアルバムを捲って――つまり部屋を物色していた。アルバムを眺めていたのは単なる偽装で、本当は年賀状を探して見つけていたのだ。
みずが藍色との連盟で送ってきた年賀状を。
藍色は人に住所を教えるのは渋るが、みずが親友の俺に送りたがっていれば話は別だ。
そして、藍色が俺に年賀状を送らなくとも、俺は当然だと思うが――俺としても送る義理はないし――けど、みずは不信に思う。
お互いがお互いアリバイ工作のように年賀状は送った。
多少の危機管理は一応俺にもあったから、情報の詰まったスマホは手放さなかったが、そこまで気は回らない。
来年からは紙のやり取りは控えるべきか。
「藍色さんは、オレがきたことを不思議に思っていたけど。でも、でもオレはお兄ちゃんの弟だから、部屋にあげて……あげてくれたんだ……」
断ってくれれば、こんなことをしなくて済んだのに、と和歌は過去に甘えている。
歪んだ笑顔をみせながら、引きつった顔で泣きながら、和歌は両手に包丁を構えた。
「だから、だから、だから!」
藍色は、普段、油断なんてしない。
本来なら、部屋に招いたところで起こらない不具合だ。
でも、みずに甘くなってぬるま湯に浸ってしまった藍色は、同業者を殺害するときに左腕を怪我してしまう程に鈍くなっていた。
それでも、見知らぬ相手なら不意を突かれることなんてなかったのだろう。
そこまで警戒心が泡になってしまってはいないはずだ。
相手が、俺の弟だから。
佐京和歌に、藍色は油断して、強硬を許してしまった。
とはいっても、本来ならば対処は出来たのだろう。一瞬の油断くらい、充分に無傷で巻き返せたはずだ。殺人鬼と高校生だ。比べるまでもない。踏んだ場数が違う。
でも、藍色は怪我が完治していなかったから、遅れて――違う。
それは俺がそう思いたいだけの言い訳だ。
俺の弟だから、みずの親友の弟だから、躊躇や迷いが生じたのだ。
馬鹿じゃないの。
和歌には迷いがなかったから、藍色を傷つけることができた。
馬鹿じゃないの。
ぬるま湯に浸っていていいけど、余計な気遣いを回さないでよ。余計な気遣いに有難うなんて気持ちを俺に宿さないでよ。
「だから! もう――片方の目も、駄目にしないと。そうじゃないと、オレは」
和歌の悲痛な叫びが響く。
「待て!」
咄嗟に、藍色と和歌の間に立った。和歌は包丁を向けながら、どうしてと首を傾げている。泣きはらした瞳で、兄を見ている。
「お兄ちゃん、どうして邪魔するのねぇ!!」
「駄目だろ、和歌。そんなことはしちゃ駄目だ。そこまでは、駄目だ」
「お得意の猫被り?」
苦しみを吐き出すように、和歌は言う。
「お前らの前で被ってない! 普通に、道徳的に、駄目だって話だ!」
「もっと早く言ってよ、それ。だって――もう手遅れじゃん。もう遅いじゃん。もう、戻れないじゃん。なら、最後まで完遂しないと、駄目でしょ。一つ終わったら、二つ終わらせようとも終わらせなくとも一緒だよ」
「……それ、は」
「警察呼ばれたら終わりだよ、オレはただ、ののかと一緒にいたいだけなんだ」
「ののかちゃんと一緒にいたいやつが、一緒にいれないような行動をするな!」
「しちゃったんだよ! しちゃったから最後までちゃんと――ののかに映る色を、なくさないと駄目なんだよ、お兄ちゃん邪魔しないでよ! お願いだから……」
「お前はどうして行動が極端なんだ! 大体邪魔をするも何も、お前が俺を呼んだんだろ!」
いきなり刃物を持ち出してくるとは思わなかった! どうしろっていうんだこの展開!
大体、俺がくるまでに時間はあった。その間に恐らく藍色を傷つけていない時点で、和歌が求めているのは助けだろう。
助けを求めている癖に、強硬に走ろうとするな。支離滅裂な行動をとるな。
藍色は犯罪者だから、何が起きても警察は呼ばないとは思うけど、それを和歌に告げるわけにもいかない。
かといって、包丁を向けてくる相手を押さえつける術なんて持ち合わせていないし。今の和歌に何を言っても通じるとは思えない。自分のした行動が矛盾だらけなことにすら気づいていない。和歌の愚行を見捨てるわけにもいかない。
藍色は、動かない。痛みか、それとも待っていてくれるのか。
和歌はどうしていいかわからずに途方に暮れている、かと思ったら、和歌は笑い出した。
「そうだ。いいこと思いついた! ねえお兄ちゃん! 協力してよ!」
「は――?」
俺は目玉を抉ったりしないぞ。
「藍色さんを閉じ込めちゃえばいいんだ。お兄ちゃんは、だから何も見なかったことにしてよ。そうすれば、何事もなかったことになるじゃない。そうだよ、そうすれば、オレはののかと一緒にいられるし、何も問題ないじゃない」
「何をいっているんだ、和歌?」
「お兄ちゃんだって。みずゆきさんと一緒にいられるじゃない」
「は? …………和歌、お前」
「お兄ちゃん、みずゆきさんと一緒にいたいんでしょ? アルバム見れば一目瞭然だったよ! なら、ここで藍色さんがいなくなったら都合がいいのは――お兄ちゃんもでしょ? さっきは、思わず電話しちゃったけど、このままにしておこうよ。この部屋、この状態で保存しようよ、ねぇ!」
「…………」
和歌の言葉は間違っているのに、一部は正しいせいで、誘惑されてしまった。
頷いてはいけない。協力してはいけない。
俺がとるべき道は、和歌を説得して、藍色に和歌を殺さないでくれと懇願することだ。
だって、和歌の言葉に頷いたところで、藍色が状況を打破してしまったら一瞬で崩れるんだ。
藍色は、殺人鬼だ。殺していい理由を与えなくても人を殺す相手に、殺したい感情を与えてはいけない。
それこそ、和歌が望む永遠を実現するには、藍色を殺すしか選択がないんだ。
でも、人の瞳を切りつけた和歌だって人殺しは出来ない。できないから、助けを俺に求めたんだ。
命を奪うことまでは、和歌は出来ないけれども、警察も怖い弟は、監禁しようと持ち掛けてきた。
事件の発覚を延滞しようとした。明るみに出なければ、闇に葬れると思っている。愚かの極みだ。
「ねえお兄ちゃん。そうしようよ、ねえ!」
それなのに、どうして。
頷いてしまったら地獄だとわかっているのに、誘惑に抗えない気持ちが出てしまうのだ。
この状況を作れたのが奇跡のような重なりだから? 二度目は二度と通じないから? この機会を逃したらもう訪れないから?
でも、それは永遠なのか? 破滅は? 砂上の楼閣よりも脆い城に住んでどうする? それなのに。
「お兄ちゃん。藍色さんを、監禁しよう」
どうして、その言葉に魔力があるのだろうか。
踏み入れた先に、救いはないのに。
◇
俺は一足先に藍色のマンションを出た。すると、見覚えのある少女がいた。桜が舞い散るような既視感に、反射的に身体が強張った。彼女は詩ではないというのに。
「君は……ののかちゃん」
大人しいを辞書で引いたら、彼女の名前が載っていそうな和歌の彼女が、空を見上げるように佇んでいた。
和歌が強硬に及ぶほどに愛している少女だ。
おさげにした髪型も、赤いベレー帽をかぶっているのも、ハの字にたれ目の瞳も。彼女を紅葉のように引き立てている。
「あ、色葉お兄さん。今日は」
俺へ視線を向けたののかちゃんは、ぺこり、お辞儀をした。
どうしてこの場に、この子がいるのか。
和歌は確かに藍色の部屋にいるけれども、それでも、ののかちゃんが、ここにいるのはおかしい。
「私、嬉しいんです」
俺の当惑をよそに、ののかちゃんは、恍惚としながら告げた。全てを見透かすような瞳で。
「どういうこと?」
「これで、和歌くんとずっと一緒にいられるからですよ」
屈託のない顔は、天国にいるかのような、優しさで。
「……ののかちゃん。君は」
「具体的にまではわかりませんが、和歌くんが、わたしのために罪を犯してくれた。お兄さん、そうでしょう? 和歌くんが思いつめた顔でこのマンションに入っていくのも、お兄さんが血相変えて入っていって、死人のような顔で今いるのも、全部。わたし見ていましたから。ふふ」
彼女が滑らかに紡ぎだす言葉を塞ぎたかった。
「わたし、和歌くんが大好きなんです。本当に、好きで。好きで。でも、わたしは何のとりえもなくて。本来、わたしと、和歌くんは不釣り合いなのです」
胸に手を当てて静かにののかちゃんは綴る。
「和歌くんは、わたしのために罪を犯してくれた。和歌くんは、わたしのために罪を抱えた。わたしが目移りをしないために。わたしが、青い瞳に興味を持たないために。なら、道を踏み外してしまった和歌くんは、もうずっと私と一緒にいるしかないでしょう」
「ののかちゃん、君は、弟をたぶらかしたのか?」
和歌は愛する人が、藍色の瞳を綺麗だと褒めたから、罪を犯した。
大好きな人が、惚れてしまった瞳を奪うために。彼女を他の男に取られないために。
けれど、それは全て。偽りだった。彼女は目移りなんて最初からしていなかった。
ああ、それはそうだろう。和歌の口から出てきた藍色を気にする言葉は不自然なほどに全て瞳に関してのみだった。
「わたし、不安だったんです」
ののかちゃんは空を見上げる。いや、和歌がいるであろう場所を見上げた。
「和歌くんはいい人だから。いつか、わたしなんかよりもずっといい人を見つけて、和歌くんはわたしを見捨ててしまうんじゃないかって」
和歌は俺の弟だ。猫を被ることにたけている和歌は、人前では愛想よく振舞う人気者でも不思議ではない。血のつながりを感じる程度に、和歌と俺は似ている。
なら、和歌が色んな人から告白されていたって、不思議じゃない。和歌が告白に心揺れることはなくても、ののかちゃんはどうだ? ののかちゃんは和歌が告白されるたびに不安に思っていたのではないか? ののかちゃんが藍色の瞳を褒めるたびに、和歌が不安を抱いていたように。
「今は、和歌くんがわたしのことを好きでいてくれても。いつか、わたしの元から離れてしまうと思うと、とてもとても嫌だったんです。嫌なんです。だから、わたしには和歌くんがずっとそばにいてくれる理由が欲しかった」
「だから、ののか……は、藍色を選んだの?」
ののかは頷いた。
「わたしを好きでいてくれるうちに、わたしのために和歌くんが動いてくれる機会が欲しかったんです。ちょっと見てくれがいい人じゃ駄目です。和歌くんもカッコイイですからね。アイドルとか手が届かないのも駄目です。現実感がありませんし、ファンとして許容されそうですからね。だから、身近で変わっていて、そうそう存在しない貴重な人じゃないと。そうはいっても、現実。そんな不思議な人は現れませんでした――あの日までは。お兄さんには感謝しています。あの日、あの時。わたしの前に現れてくれてありがとうございます。お蔭で、藍色さんという、とても素敵な方と出会えました。あの人は、色葉お兄さんの知り合いで、髪の毛が白くて、長くて、瞳が藍色で、ほかの人とは違いました。あの人しかいないと思ったんです。私は、あの人を褒めました。綺麗な瞳だと。折に触れて。云い続けました」
そんな理由で選ばれたと藍色は夢にも思わないだろう。
和歌がののかから離れない恐怖のために利用された。
きっと藍色は思っていたはずだ。
自分の人生が終わるとしたら、それは同業者か、自分が殺した人間による報復だろうと。
けれど、片目を抉ったのは恋に愛した高校生だった。
それこそ、縁もゆかりも殆どないような、人間だった。
「和歌くんは、わたしのために罪を犯してくれた。これでわたしと和歌くんが離れることはありません。だって、そうでしょう? わたしから離れたら一体何のために和歌くんは罪を犯したということになるのか、理由が消えてしまいます。それに、わたしのために和歌くんが罪を犯してくれたという事実は消えません。わたしのことを、好きでいてくれているんです――好きでい続けるしか、なくなった」
藍色にはいっぺんの罪悪感も抱いていない表情で、むしろ藍色のことを人間として認識しているかもわからない顔で、ののかはいった。
「わたしは、とっても幸せです」
本当に、本当に、幸せな満ち足りた笑顔で。




