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ヌルリとした生臭い風が横切っていく。それは、何かが腐った臭いだった。恐らく、いたる所に置いてあるゴミの臭いだろう。
空に浮かんでいる月は、二日月と呼ばれる細い月。新月のように暗くはないが、三日月のように地面を明るく照らしはしない。中途半端、とも言える明るさの月だった。まるで、自分のように思えた。
舗装もされず、大通りのように踏み固められてもいないその道を歩いている。
夜だというのに、この区域だけは明るくない。それは、当たり前である。なぜならここは貧民街と呼ばれている。もしくは、スラムと。
男がここを歩いているのは、帰る家が無いからではない。もう少し言えば、この男かなりの金持ちである。
吐く息が、白い靄のように後ろに流れていく。生臭い風には鼻が慣れたのか、なにも感じなくなった。
目は暗闇に慣れ、ぼんやりと全貌を写し出す。そこら辺に横になっているものや、こちらをじぃっ、と見張っている者もいた。
男がここに来た理由は、特にはない。いや、街の光が嫌になったのだ。ただ明るく光っているペラッとした薄い町並みに。
まだ、ここの方が分厚いように見えてしまう。ここにはここの規律があり、それを守りながらも争って生きている。
そんな人間の方が、もしかしたら人間らしいのかも知れない。
しかし、自由を知ることは不自由を知ることと同じでありここに居ない人間達がここと同じ生活をすることは殆ど無理に等しい。もっとも、時折居るのだが。
この貧民街を抜けた先にはちょっとした森がある。木々が生い茂り、人の手の加わっていない自然がある。
男はそこを目指していた。
落ち葉を踏みしめる。森特有の、先程とは違う匂いがした。
そして、もう一つ。鉄の臭いもした。それは、とても濃厚な鉄の臭いだった。いや、血の臭いがした。
その臭いに、少し興味を持って臭いが濃くなっている方へと歩き出した。男は、耳と鼻と目が良い。その五感を最大に使って進んでいった。
そこには、目を疑う光景があった。
恐らく、七つぐらいの子供の耳が切られていたのだ。それも、両耳とも。その近くには血で染まったナイフまで落ちていた。
男は自嘲ぎみに笑った。見なければ良かった、そう呟いた。森が風に煽られザワザワと音を立てる。
男の姿が突如歪み出した。雲に隠れていた月がまた顔を出し、男を移した。
そこには、先程の男ではなく竜が座っていた。月の光を反射するほどの黒い鱗に、蛇のような金の瞳があった。
荘厳な声が辺りに響き渡った。それは、祝音のようにも聞こえるが呪いのようにも聞こえた。
「我は忘れぬ。人の罪を。人が我らにした仕打ちを」
チラリと男の脳裏をよぎったのは、もう何百年も前の記憶だった。家族を、友を焼かれ、誇りを踏みにじられたドロドロとした人への憎悪を。
「我は忘れぬ。人への恩を。人が我にした恩義を」
それと同時に、何十年か前の記憶も思い出した。男を大切に匿い治療を施してくれた女の顔を。
偏見に囚われず、しっかりと瞳を見てくれた女に最後の別れの際に言われた言葉を口に出した。
「ただ過去に感情に囚われ、獣に成り果てるのか?」
「それとも、まだ理性を保ち、竜でいるのか?」
「選択せよ。己は竜か?それとも獣か?」
もしも、獣に成り果てたならここでこの子供を握りつぶし噛み砕こう。少しは人への復讐になるだろう。
「我は竜。闇と茨の竜」
だが男は、竜はまだ成り果ててなどいない。れっきとした、最古の竜である。
子供の顔を見て驚愕した。この死に体の子の顔はあの時の女の顔にそっくりだった。
だがもう、肉体が持たないだろう。止めどなく流れる血は子供の命など直ぐに押し流してしまう。
子供に、灰色の茨が巻き付いていく。竜が出した茨である。
竜の目から血が垂れる。それは、古より不老不死の薬と言われる霊薬の素。
しかし、本当は違う。この血は、生き物を作り替える呪い。人を竜に、獣を竜へと替えてしまう。
しかし、竜の強靭な肉体であればこの子供は助かる。
自らの気持ちだけで、エゴで、子供を助ける。自己満足と言われれば反論できないが、竜にとってそれが最善だと思った。
だからやった。
それだけである。
しかし、効果は劇的だった。
切り取られた耳は、男の耳と同じように細長い耳に変わり青白い顔は血色が良くなった。助かったのだ。
男は子供を丁寧に掴むと、元来た道へと戻っていった。