11.悪夢を見る猫(25)アイドル編3
「味はよく分からないけどきゅうりの存在自体がちょっと苦手なんだ…ごめんうまく説明出来ない」
「あれなの?生理的に受け付けないってやつ?もったいないなぁ…」
「ごめんって。もうこの話題はやめよう、ね?」
「嫌なら仕方ないね。それじゃあ曲いってみようか…えぇと今からかける曲は…」
そんな感じでこの場はうまく切り抜けた。
その後の収録も順調に進んで初めてのラジオ番組の収録はこうして終わった。
この時はこの話題はそこで終わったものだと、そう思っていたんだ。
時は流れてそのラジオの放送が始まった。反響もそんなに悪くはなくて僕らはほっと胸を撫で下ろした。
このラジオ番組、最初は半年の予定だったけど延長が決まるほどには人気が出たんだ。
やっぱりマロの軽快な語り口が良かったんだろうな。喋りに関して言えば僕はいつだってマロの添え物だった。
ライブのMCでも各種の取材でも…。僕はそこに不満はなかったしマロの安定した喋りにずっと頼っていた。
そんなある日、仕事が終わって自宅に戻った時に異変は始まった。
「ただいま~」
僕はメジャーデビューしてからは一人暮らしをしていた。
この方が何かと都合がいいからね。
まだ一人暮らしには慣れていないのでつい帰った時にただいまって言ってしまう。
この日も癖でそう言いながら玄関で靴を脱いでいた。部屋の中の違和感に気付かずに…。
ムニュ。
その時、靴を脱いだ僕の足が何かを踏みつけた。
こんな場所に何かがあるなんてそれは有り得ない話だった。
一人暮らしだしそれなりに片付けには気を使っていたからだ。
僕は恐る恐るその踏みつけた物の正体を確認した。
「うわああ~っ!」
僕が踏みつけていたものはきゅうりだった。
な、何でこんな所にきゅうりがっ?
僕はきゅうりが苦手なせいもあって家にきゅうりを持ち帰った事はない。
だからこのきゅうりが僕のズボラでここに転がって来たと言う事は有り得ない。
と、言う事は…誰かがこのきゅうりをここに…。
怖い怖い怖い!何これ超怖い!
今住んでいるこのマンションはセキュリティそんなに高い方じゃないけどそんなに低い訳でもない。
もしかしてもしなくてもこれは悪意を持った誰かの仕業に違いなかった。悪意じゃない可能性もあるけど…。
すぐに引っ越しは出来ないから取り敢えず鍵をどうとかしなくっちゃ。
僕はすぐに大家さんに相談して鍵を交換してもらった。ふぅ、これで一安心かな。
「家に謎のきゅうりがあった?ご褒美じゃんか」
「いやいやいや!そんな訳ないでしょ!」
「ごめんごめん、それで?きゅうりがあっただけ?他に何か、例えばメッセージみたいなのは?」
「それが何故かきゅうりだけなんだ」
僕はこの謎の事件についてマロに相談していた。身近な相談相手として最適だったからね。
最初こそマロは面白おかしく反応していたけど僕が真剣なのを知って親身になってくれた。
きゅうりと言って思いつくのはあの放送くらいしかないので話はやっぱりそこに辿り着いた。
「やっぱあの放送が原因かなぁ…思い当たる節って」
「ああ…あんな事言うんじゃなかった」
「でも鍵変えてもらったんだろ?きっとそれで終わりだよ」
「だといいんだけど…」
鍵を変えたお陰でそれからしばらくはきゅうり被害は収まった。だから僕は安心してまた仕事に打ち込んだ。
でもそれはただの気休めだった事をその後に知る事になるんだ。
それはサードシングルの話が来てその為の歌とダンスの練習に励んでいた頃だった。
いつもの様に家に帰ると…最近は警戒して部屋全体を見渡して安全を確認してから靴を脱ぐようにしているんだけど…。
またきゅうりが置いてあった。今回も置かれたのはきゅうりだけ…しかも廊下に転々ときゅうりは置かれていた。
そう、今回はきゅうりがひとつじゃない!明らかに前回より悪質になっていた。
こうして僕はこの見えない犯人との戦いを余儀なくされてしまったんだ。
鍵を変えてもダメって事で最初は大家さんを疑ったけど大家さんがそんな事をする訳はないし…。
またすぐに鍵を変えてもらったけどいずれまた同じ事が起こるだろうなってその時はもう覚悟していたんだ。
「次またきゅうりを置かれるような事があったら引っ越しを真剣に考えよう…」
それからまたしばらくして郵便受けを覗くと謎の手紙が入っていた。勿論送り主の名前はなし。
嫌な予感はするものの一応中身を確認すると…中には謎の領収書が一枚。
その領収書にはいくらかの金額とその明細が書かれている。
但し書きにはこんな言葉が書かれていた…。"きゅうり代として"。
このきゅうりの文字を見て僕は戦慄を覚えた。これは見えない相手からの宣戦布告だと…。
だけど僕はこの犯人に対して全く心当たりはなかった。
どこかで発表して注意を促しても良かったけどそのせいで愉快犯が出て来るのも避けたかった。
だからこの事は身の周りの極一分の関係者にしか伝えなかった。
この事を話すとマロはまた僕を茶化すんだ。
「ふうん、謎のストーカーかぁ。フクも一端の有名人になったじゃないか!」
「冗談じゃないよ!本当に困ってるんだ」
この事件を面白がるなんて本来は不謹慎なはずなんだけどマロが言うとあんまりそうは聞こえない。
相談をしながらもつくづくマロのこの得な性分が羨ましかった。
大体マロだってあのラジオの時自分の苦手なものを発表していたのに彼の方には特に被害はないらしい。
僕にだけ攻撃をしてくる謎の誰か…きゅうりに特別な思い入れがあるのかそれとも僕に対してなのか…とにかく謎は深まるばかりだった。
最初のきゅうり事件から僕は貯金を始めていた。そう、引っ越し予算を貯めていたんだ。
自宅が狙われている以上、一番確実な解決策は引っ越ししかない。
事件が起こってから今まで色々親切に対応してくれた大家さんには悪いけど事件が収束しない以上これは仕方のない話なんだ。
そんな訳で引っ越し予算が貯まったのは時が過ぎて僕らのファーストアルバムの話が出た辺りだった。
サードシングルの売上もそんなに悪くなく、いよいよアルバム制作の話が持ち上がった。
それからの日々は新しい曲とそれに付随するダンスの振付と、とにかく色々覚える事が多くててんてこ舞いだった。
そんな忙しいスケジュールの間をを縫って極一部の関係者以外には誰にも知らせずに強行スケジュールで引っ越しは実行された。
念の為に今度の新居は前の新居とは全く違う場所を選んだ。これでもう大丈夫なはず。
引っ越しが終わって僕は久しぶりに安心してぐっすりと眠る事が出来たんだ。
新し家、新しい部屋、ダンボールばかりの荷物、そして最低限の家具…。
そう言えば御近所にも挨拶に行かなくちゃなぁ…。
無事引っ越しが済んだその夜、明日以降の事を考えながら僕は眠りについた。
夢の中で眠るって言うのも変な感覚だけど…。
次の日もまたハードスケジュールだった。くたくたになって帰ると新居はとても静かで少し淋しくなった。
まだ部屋に思い入れが殆どないからだろうけどこれから沢山の思い出をこの家で作って行かないとな…。
そんな事を考えながら僕は部屋の電気を付けてくつろいだ。テレビを見たりPCをいじったり…。
お風呂に入って一日の疲れを癒やしたらいい時間になったので寝室へ。
あくびをしながら上機嫌で寝室のドアを開けたその時だった。
部屋に…寝室の部屋全体にきゅうりがディスプレイされていた…。
壁に…机に…床に…ベッドに…カーテンに…天井にまで…。
あっちにもこっちにもきゅうり、きゅうり、きゅうり!
え?ちょっと…あの…僕、引っ越ししたばかりなんだけど?
引っ越しの事は限られた数人しか知らないはずなんだけど…?
寝室の様子が目に入った瞬間、僕の中できゅうりと言う存在がゲシュタルト崩壊していく。
もう何をしても無駄な気がして気が遠くなった僕はその場で卒倒してしまった…。
バタッ。