9.魔女との約束(5)
「…気は済んだか」
その時、魂が空っぽのはずのネコが突然口を開きました。
そう、これはネコの夢に取り憑いていた夢魔が喋っているのです。
「後はあんたがその体から出て行けば成功だよ」
「お前は愚かな選択をしたな」
「何だって?」
夢魔の言葉に魔女は少しカチンと来ました。
しかしここで怒りに任せると冷静な判断が出来なくなります。
魔女は呼吸を整えてすぐに冷静さを取り戻しました。
「宿主の魂を抜けば私がこの体を自由に出来る…猫になどなっても余り利点はないが、利用価値はある」
「だから今から私がその体からあんたを追い出すんだよ」
この魔女の言葉に夢魔は笑いました。
そして見下すように魔女に向かって言い放ちます。
「この程度の呪縛が私に通じるとでも?」
「やってごらんよ」
夢魔の挑発に魔女も一歩も引きません。
杖をかざして臨戦態勢を守ったまま様子を伺います。
するとネコの体はすっくと起き上がりました。
それからキョロキョロと儀式の部屋を見渡します。
「さあ、起き上がったぞ」
「そうだね」
「こんなカビ臭い部屋に用はない」
ネコが横たわっていた魔法陣には結界が張られています。
けれど夢魔はそれをまるで部屋に張った蜘蛛の巣を払うように軽い仕草で破り、その足で部屋の外に出ようと歩き出しました。
結界が破られた事で魔法陣の周辺に置いていたろうそくの火が次々に消えていきます。
「この程度他愛もない」
「流石だねぇ」
夢魔にあっさり結界を破られた魔女ですがその割にその事を当然の事のように受け止めています。
きっと彼女にとってこれは想定内の出来事だったのでしょう。
そして何故か魔女は部屋を出ようとする夢魔を止めるでもなく平然と見送っています。
これにも何か戦略的な意味があると言うのでしょうか?
カチャ…カチャカチャ
夢魔は外に出る為に部屋のドアを開けようとします。
けれど何度ひねってもドアは開きません。
「何だ?これは…?」
苛ついた夢魔はドアを破壊しようとします。
けれどもどんな方法を使ってもドアは開きませんでした。
「あははは、間抜けだねぇ」
その様子を見た魔女は笑って夢魔を挑発しました。
夢魔は振り返ると魔女をにらみます。
「貴様、この部屋に何をした!」
「魔法陣の結界はブラフだよ。今この儀式の部屋は外界と完全に遮断されているのさ」
「次元断絶か…味な真似を」
「悪いけど私はあんたをここから出す気はないんだ」
次元断絶とはこの儀式の部屋ごと違う次元に移転させる事で外界と完璧に隔離する魔法です。
この魔法は仕掛けた者しか解く事は出来ません。
魔女は二度目に儀式の部屋に入った時に密かにこの魔法を使って誰も部屋から出せないようにしていたのです。
「観念するんだねぇ」
「この程度で勝利宣言か?笑わせる」
夢魔はネコの体を使い魔女に向かって手をかざします。
次の瞬間、ネコの手から無数の闇の波動が放たれました。
闇の波動はまっすぐに魔女に向かっていきます。
攻撃を受けた魔女はすぐさま杖を振り防御結界を張ります。
夢魔から放たれた闇の波動は魔女の防御結界に沿って拡散されていきます。
夢魔の攻撃を無効化した魔女は次の攻撃に備えます。
「やっぱりこうなるねぇ」
「どちらが格上かその体に刻み込ませるしかないようだな」
「それで?どっちが格上かしらねぇ」
この状況で魔女は夢魔を挑発します。
魔女の挑発を受けて夢魔もまた不敵に笑います。
夢魔の正体は魔王の分霊…並の人物では全く歯が立たない存在です。
過去の魔王との戦いの生き残りとは言え、この魔女の余裕は少し不自然なくらいでした。
ネコを説得した時はあんなに自信なさげな事を言っていたのに。
「それじゃあ今度はこっちから行くよ!」
魔女はそう言うと杖を振ります。
まるでオーケストラの指揮棒のようにある法則に従って独自のリズムに沿って空中に絵を描くように杖を振ると杖の先から無数の光の粒子が生み出されました。
光の粒子は夢魔が操るネコに向かって狙いすましたかのように向かっていきます。
その様子はまさにゲームやアニメでよく見るホーミングレーザーのようでした。
「子供騙しだな…」
夢魔は魔女の攻撃を避けるでもなくその体に受けます。
それはこの程度の攻撃は全くダメージにすらならないと言う事を言葉だけでなく態度でも示したものでした。
「流石に衰えちゃいないね…」
攻撃を受けて無傷な夢魔の態度を見て魔女は慎重な反応をしました。
しかし魔女もまだ本気を見せてはいないと言う事を夢魔は見抜いていました。
「どうした?まだ様子見のつもりか?」
「あんただって同じじゃないか…お互い様だよ」
お互い力の探りあいの様相を見せて場の緊張感だけが高まっていきます。
夢魔は魔王の分霊とは言え操る体がネコなので本気の力を出しきれません。
対する魔女もまた後でネコの魂を戻さなければならないので無闇にネコの体を傷つけられません。
ただ、このまま戦いが長引くと不利になるのは魔女の方でした。
何故ならネコの魂をあまり長く分離させていると後で元の体に戻しづらくなるからです。
果たして魔女は夢魔に対して決定的な一撃を繰り出す事が出来るのでしょうか。
「どうした?得意の悪魔召喚は使わないのか?」
「グリムル呼んで分かったんだよ…今のあんたにそれは無効だってね。逆に利用されるのがオチだ」
「流石だな…700年経っても衰えちゃいない」
夢魔はそう言うと何やら呪文を唱え始めます。
その呪文の詠唱と共に儀式の部屋が地震の微震のような振動を始めました。
対する魔女は夢魔のこの行動に只身構えるだけです。
夢魔の魔法攻撃の種類が分からない為、適切な対処が取れないでいたのです。
「参ったね…」
呪文を唱える夢魔の周りには空間の歪みが生まれていました。
これはかなり規模の大きな攻撃が来ると魔女は覚悟しました。
魔女はやがて来る夢魔の攻撃に備え構える杖に意識を集中します。
「…紅炎龍爪多段撃・改!」
夢魔がそう叫ぶとネコの周りに生まれた無数の空間の歪みから魔女に向かって熱を帯びた見えない大気の爪の攻撃が襲います。
灼熱の空気の爪は容赦なく魔女の防御結界を削り取ります。
「くっ!」
この夢魔の攻撃で魔女の自身に張った防御結界は無残にも引き裂かれてしまいました。
魔女の無様なその様子を見て夢魔は不敵に笑います。
「早く本気を見せるんだな…今度は無事じゃ済まないぞ」
「仕方ないねぇ」
今のところこの状況を見る限り、この勝負は夢魔の方が一枚上手のようです。
魔女が本気を見せれば逆転へと導けるのか…夢魔の実力がその魔女の本気すら上回るのか…。
全く予断を許さないまま戦いは続きます。
(うわぁ…大変な事になっちゃったにゃ…)
魔女によってきゅうりに魂を移されたネコでしたが魔女と夢魔の戦いを実はしっかりと見ていました。
え?きゅうりには目も鼻も耳も口もないですって?でもね、しっかり周りの状況を感じる事が出来たんです。
流石魔女が魂を移すために用意した特別なきゅうりだけあって収穫されていると言うのにその感覚も全く死んでいませんでした。
なのでネコ(の魂)はしっかり戦況を見ていました。
ただ、魂が宿ったとは言えきゅうりの体のままでは動く事は全く出来ません。
だから二人の戦いの余波がどうかこのきゅうりの体に当たりませんようにとネコは願うばかりでした。
多分このきゅうりが破壊されたらネコ(の魂)は昇天してしまう事でしょう。
また、それとは別に夢魔が操っているネコ本体の体の方も心配になります。
どうかこの戦闘で本体の体が余り傷つけられないようにと願うばかりでした。
(元の体の方は傷ついても魔女さんが治してくれるって話にゃけど…それは彼女が上手く夢魔を倒せたらの話だからにゃぁ…)
戦いはまだまだ序盤です。
二人共まだ自分の手の内を相手にほとんど見せてはいません。
これから徐々にヒートアップであろうこの白熱のバトルをネコは自分の身を案じつつもワクワクしながら観戦していました。
(でもここは魔女さんの力を信じて応援するしかないのにゃ!)
では話を魔女と夢魔の視点に戻しましょう。
夢魔の攻撃で防御結界が削られた魔女ですがその割にまだ余裕な態度を崩してはいません。
きっとこの程度の事は想定の範囲内って事なのでしょうね。
「防御結界なんてすぐに何度も張り替えらるよ…地の利がどちらにあるかお分かり?」
魔女はそう言うと杖をさっと振り払います。するとすぐに防御結界は張り替えられました。
まるで服についた誇りを払うような簡単な仕草であっけなく戦況は元通りです。
それを見た夢魔はこの状況をそれもまるで想定内とでも言うようにテンションを変えずにつぶやきます。
「流石第3階層魔女の始祖リエール。それとも今は別の名前か」
「惜しいね。それは私の3番目の名前だよ」
何と魔女の名前は幾つもあるようです。
それにどんな意味があってその事がこの戦いにどう影響するのか…。
もしかしたらこの2人には何か大きな因縁があるのかも知れません。