9.魔女との約束(3)
「あれ?…そう言えば見なかったにゃ」
「ま、一時的なものさね」
魔女はそう言ってため息を付きました。
それはまるで諦めにも似た雰囲気のつぶやきでした。
ネコは改めて自分が気を失ってからの事を魔女に尋ねました。
「どう言う事にゃ?夢魔は倒せたのにゃ?」
「あんたの中の夢魔はピンピンしているよ。今は聖水の効果が出ているだけ」
あの時魔女がネコに掛けたのはどうやら聖水のようです。
聖水の効果で夢魔はネコの夢にちょっかいを出せないでいると言う事のようです。
ネコはてっきりその聖水のおかげでもう問題は解決したのかと思いました。
「その聖水があればもう悪夢には悩まされないのにゃ?」
「一時的なものだと言ったろ。すぐに効果は切れるよ」
「そんにゃ…」
魔女はネコの淡い期待を一言で打ち切りました。
確かにそんな簡単な話なら最初に聖水を掛けてこの問題は解決しているはずですよね。
中々世の中そんなにうまい話はありません。
魔女はそんな落ち込むネコを見て言いました。
「そんなに落ち込むんじゃないよ。手がない訳じゃない」
「本当かにゃ!」
「ああ。グリムルを使ったおかげであんたの中にいる奴の正体も分かったしね」
魔女がグリムルを召喚したのはどうも夢魔を倒すのが目的ではなく夢魔の正体を探る為だったようです。
この事から魔女自身ネコの中の夢魔の正体に最初から目星をつけていた事が伺えます。
魔女がグリムルについて話していたのでネコは彼の事にちょっと興味を持ちました。
「グリムルってどの程度の悪魔なのにゃ?」
「そんなの知ってどうするんだい?」
悪魔に興味を持ったネコに魔女はツッコミを入れます。
この魔女の反応にネコは思わずこれは聞いてはいけない事かと思い言い繕いました。
「ちょ、ちょっと知りたくなっただけにゃ…」
さっきの反応から魔女は何も話してくれないのかと思いきや、意外にもすらすらと彼女はグリムルについて話し始めました。
ネコはその話を興味津々で聞き入りました。実はネコはこの手の話が大好きだったのです。
「そうだね…ああ見えてあいつも魔界貴族だからね…魔王を第1階級とすると上から5番目位かねぇ」
「へぇぇ、結構な上級悪魔なんにゃね」
「そりゃそうだよ。あたしの人脈なめんじゃないよ」
魔女はそう言って自画自賛しました。
その話を聞いてネコは魔女の人脈の幅広さに関心しました。
しかしこの話を知って逆にネコの頭の中にひとつの疑問が浮かびます。
「でもそんな上級悪魔より強いって僕の中の夢魔ってどれだけにゃ…」
「あんたの中にいるのは魔王だよ…分霊だけどね」
「魔王にゃ!?」
魔女がサラッと口にした夢魔の正体は衝撃的なものでした。
きっと魔女は最初からネコの中の夢魔の正体を確信していたのでしょう。
ネコはあまりにあっさりと答えたこの魔女の言葉が信じられないでいました。
「第8階層の魔王ジグ…多分間違いない」
「どうしてそんな魔王が夢魔に?」
「話してあげようか…ちょっと長いよ」
そうして魔女は昔あった戦争の話を語り始めました。
それは今から何百年も前の話です。
私達のいる世界は幾つもの階層に分かれていてその第8階層の魔界にその日新しい悪魔が生まれました。
その悪魔は特異的な力を持ち、やがては第8階層の悪魔全てを支配下に置き自らを魔王と名乗りました。
「それがあんたに取り憑いている夢魔の正体さ。間違いない」
「グリムルは第何階層の悪魔にゃ?」
階層の話が出たのでネコはついグリムルの話を口にしました。
って言うかやっぱり普通そこも気になりますよね。
魔女はその事についても即答です。
「あいつの所属は第4階層だよ。ちなみにこの世界は第3階層」
「階層が少ない方がすごいにゃ?」
「逆だよ。階層が大きい程力も強い」
「マジかにゃ…」
魔女の語る真実にネコは絶句します。
そんなネコにお構いなしに魔女は話を続けました。
「それから魔王ジグは階層制覇に乗り出した…魔王ってのは征服するのが好きなんだねぇ」
第7階層、第6階層と次々に支配下に置きながらついにはこの第3階層を支配下に置こうとジグは動き出します。
そうして階層を守りきれなかった他の階層の神聖勢力とこの世界の住人が協力して魔王ジグとの戦いが始まったのです。
この世界を守る天使や神々、魔法使いや魔女、精霊や精霊使い、神霊剣士など多くの勢力がジグの勢力と激しい戦いを繰り広げました。
戦いは何十年と続き、互いの勢力もどんどん消耗していきました。
「で、どっちが勝ったにゃ?」
「魔王軍が勝ってたらこの世界も魔界に飲まれてるよ」
「そっか、魔王は倒されたんにゃね」
それはまさにギリギリの攻防でした。
ジグにとどめを刺したのは後に神々の英雄と呼ばれる神霊剣士アロワ。
彼はジグの攻撃に深手を負いながら最後の最後に神剣タイロンでジグの精神と肉体を切り裂きそれぞれ別々に封印したのです。
「ま、これも私ら魔女のサポートあっての勝利だけどねぇ」
魔女はそう言って自慢気に笑いました。自画自賛です。
まるでその戦いを見て来た事のように話す魔女にネコは尋ねます。
「シルムはその戦いに参加していたにゃ?」
「まぁね、私は当時の魔女の数少ない生き残りだよ…あの戦いで私の仲間は半分以上死んじまった」
「壮絶な戦いだったんにゃね…」
魔女がその戦いを生き延びたと知ってネコは言葉をなくしました。
その様子を見て魔女はネコを元気付けるようにこう言いました。
「でもそのおかげで色んな悪魔とのコネも出来たんだけどね。私しゃ転んでもただでは起きないよ」
そう言って魔女はちょっと下品な感じで笑いました。
そう言うしたたかさが運の強さとなって彼女を生き長らえさせているのかも知れません。
話が一段落ついたところでネコはさっきから頭に引っかかっている事をネコに尋ねました。
「さっきの魔王の分霊ってどう言う意味にゃ?」
「霊体の一部って事だよ。別々に封印されていた魂が何らかの理由で解き放たれたんだろうねぇ」
「それって大変な事にゃよね?」
「ああ、天地を揺るがすほどの大事件だよ」
この魔女の話を聞いてネコはぞおっとしました。
この世界を征服しようとした魔王の魂が今この世界で野放しになってしまっているだなんてとても恐ろしい話です。
けれどその割に魔女がこの状況に対してあまりにも平然としているのが不自然にも感じました。
「じゃあ何でそんなに落ち着いているのにゃ?」
「まだそんなに大事件になってないからだよ」
「それは…そうだけどにゃ」
魔女の答えは何だか納得出来るような出来ないような微妙なものでした。
けれど落ち着き払ったその言葉は有無を言わさない説得力がありました。
その為、ネコは魔女の言葉になし崩し的に納得させられてしまいました。
「いいかい?そんな大魔王の魂が夢魔に身をやつしている…そこが重要なんだ」
「そうなのにゃ?」
「おそらく奴は何らかの目的があって動いている…こんなただの猫にまで取り憑いて」
「ただのネコで悪かったにゃ!」
魔女のただの猫という言葉にネコはちょっとカチンと来てしまいました。
けれど考えて見れば妙な話です。
霊体とは言え魔王ともなれば絶大な力だってあるはずです。
魔女はこの魔王が夢魔となって活動している事にも既に見当がついている様子でした。
「まぁ話を聞きな。多分今夢魔が世界中で大発生しているのもこの事が原因なんだよ」
「もしかして今世界中で多発している夢魔の正体って」
「ああ…多分みんな魔王の分霊だろうね」
今世界で起こっている事…夢魔の大発生…それは魔王の魂の開放が原因だったのです。
この話の流れでネコは分霊について素朴な疑問を口にしました。
「分霊って何体もいるのにゃ?」
「いくらでも分裂出来るさ。奴は魔王だからね、魂の器の大きさも桁違いだよ」
魔女の話によれば夢魔はとんでもない数の分霊に分裂していると言う事でした。
世界中の人物の夢に取り憑いた魔王の分霊…ネコは魔王の意図が分かりません。
「魔王が分霊になって夢魔になって世界中に散らばって…目的は何にゃ?」
「さぁね、見当は付いているけど…」
さすが魔王との厳しい戦いを生き延びた魔女だけあります。
この一見謎の行動を取っているように見える魔王の目的も既にお見通しのようでした。