魔女の欠如
古くなった紙の匂いと、それに混じるほのかな異臭。
魔女と名乗った少女は招待の言葉を発してから何も言わない。呑気に欠伸をして久しぶりの客を無遠慮に見つめる。
「キミ、名前は?」
やっと発せられた言葉には何の感情も篭ってない。きっと客が来る度に同じ事を言っているのだろう。
「…彩です。」
「彩くんね。」
魔女はにこりと笑って指輪だらけの指を振る。
「綴れ。踊れ。愛しき妖精たちよ。」
囁くような言葉は魔女が使う古の呪文。
彼女が振った指先からは現れたのは「彩」という字。
「ふーん、彩るなのね。いい名だわ。」
だけどね、と魔女は笑った。
「魔女に名前を教えるってことは、名前を差し出すことなのよ。」
知らなかった?と魔女は聞いた。口元は笑っているのに目は笑っていない。
彩は躊躇いながら魔女の目を見た。
綺麗な、琥珀色の猫目。
「知ってました。」
琥珀色が細まる。その目は無言で疑問を問いかけている。
「魔女に名前を盗られると離れられなくなることも。」
これは常識だ。魔法ですべてをまかなわれる古都。その魔法を操るのは誰か。
答えは、魔女だ。
この都市には魔女が多くいるのだ。ある者は人間と共生し、ある者は隠れながら。
「だけど、貴女には名前を盗られないといけない気がしたんです。」
彩の言葉に魔女は首を傾げた。なんとも不思議な男だ。18歳頃だろうか。幼さが抜けかけた顔は少年とも青年とも言える。
好きで魔女に名前を差し出す人間がいるとは。
「…キミ、面白いね。」
魔女は呟きながら立ち上がる。軋む床にブーツをゴツゴツ言わせながら彩の目の前に立つ。
彩の顔が僅かに歪んだ。そして自分の胸あたりにある魔女の頭を見る。
「…失礼ですが、風呂には…」
「ん?ああ…」
魔女は何かを思い出したように自分の身なりを見た。そしててへっと笑う。
「1週間くらい入ってないや!」
彩は目眩を覚えそうになりながら途方にくれた。魔女は何かしら欠如しているところがあると言うがこんなところが欠如している魔女は勘弁して欲しい。
早くも彩はこの魔女には生活能力が欠如しているのではないかと感じ始めた。
「すぐ、入ってください…」
魔女は一瞬不服そうな顔をした後彩から一歩離れた。
「こんなこと言われるのも久しぶりねえ…」
しみじみと呟き魔女は回れ右をする。またブーツをゴツゴツ言わせながら奥にある扉を開けた。
「可愛い坊やの言う事を聞きましょうかね。」
そう言うだけ言って魔女は片手を振り、扉の奥に入っていった。
残された彩はどうしたもんかと立ち尽くしていたが、コトコトと家具が動き始めたことに気がついた。部屋を出て行くときに手を振ったのは何かの合図だったのかもしれない。
彩の前に机と椅子が現れ、さらに紅茶とお菓子が用意された。まるで目に見えない使用人がいるかのようだ。
同時に幾つかある窓が次々に開いていく。換気の為だろうか。
「…魔法ってどんだけ便利なんだ…」
呆れながら彩は椅子に座り紅茶を飲む。
熱い紅茶はアップルティーだった。