一夜 口上
「寄っていらっしゃい、見てもいらっしゃい。耳に聞くより、目で見るより、中に入るとなお面白い。蝶と遊ぶも楽しいが、今宵は百鬼夜行の百花繚乱。さぁさ、遊んでいらっしゃい……」
遠目より見ると、まるで闇にぽかりと浮かんだような花の行灯がある。大きな門が行灯で彩られる、そこは華の町、浮き世を離れた吉原である。
その片隅で、一人の男が口上を上げている。
しかしそれは、棒読みの情けの無い口上なものだから、通りかかる酔客は馬鹿にした顔。連れの女も袂で口を押さえてくすりと笑う。
しかし、彼が顔を上げると、酔った男は顔をそらし女は頬を染めた。
上げられたその顔は、まるで花のように美しい。
「さぁさ……」
女の熱い視線を浴びてなお、彼は相変わらず力なく口上を上げ続ける。
白い手を上下に動かし、まるで柳下の幽霊のごとく。
「春の今宵、出るは轆轤首にのっぺらぼう。この吉原で無残に殺された女の霊も……」
彼の顔に、ふと笑みが浮かんだ。
ちょうど行灯がふぅと消えた瞬間である。闇に覆われ女が悲鳴を上げる。男が闇夜に乗じて女に触れようとにやけ顔。
だから、誰も彼の笑みを目にしていないはずだ。
彼はいかにも楽しく、にぃと笑った。口から漏れた赤い舌先は、二本に分かれて宙を舐める。
「鬼も出るやもしれません、さぁさ。お寄りください、本物の幽霊もお目に見せましょう……」
吉原中、誰も男の名をしらない。名前どころか出自もしらない。
ただ吉原中の誰もが男の顔を、声を知っている。彼は吉原の片隅で幽霊屋敷を営む座長であった。
「アァ……相変わらず、あにぃの口上は力が無ねえなあ」
幽霊屋敷として作られた掘っ立て小屋の奥深く、少年が口を尖らせた。
立て付けの悪い小屋のこと、隙間から座長の声が漏れてくるのである。
ゆるゆると力ない口上が聞こえてくる。それは歯がゆいほどにやる気が無い。
「もっと上手くすりゃ、この幽霊屋敷は商売繁盛だってのに」
「まあそう言うんじゃないよ。座長の声はともかく、顔だけはいいのだから、綺麗な女が引っかかる。吉原の、活きの良い女が引っかかれば、ついでに連れの男も引っかかる。ここは肉欲の世界だからねえ。それに座長は、下手の横好き。ああいうのが好きだってんだから丁度いい。あたし等も楽だしね。それにお前さん、あんな風に一晩中働きたいかえ?」
少年の隣で、婀娜っぽく座る女は煙管を吸い込み、ゆっくりと息を吐く。
「姐さん、そう言ったってもう一週間も客なんざ来ちゃいない」
「そうねえ」
女は煙管の煙を目で追う。それは、古びた天井に吸い込まれる。天井が不意に、咳き込んだ。
「やめねえか、轆轤姐。煙は身体に悪い」
「身体っていったって、お前さんの身体なんざ、ただの木じゃないか」
女の首がぬうと伸びる。首が小さな頭を乗せたまま、ゆらゆら揺らめく。天井には人の顔に似た染みが持ち上がる。それは憤怒の表情の、血まみれ武士の顔である。
にらみ合う二人を止めたのは少年だ。
「姐さんそれは、客にとっときな」
袖を引く彼の指は少年にしては大振りである。稚児の着物から伸びた指には鋭い爪が光る。
それは、薄暗い中でも良くわかる。
「ほうら、1週間ぶりの獲物だ」
少年の唇がぬるりと光り、隙間から鋭い歯が漏れた。かちかちと、その歯はいかにも嬉しげに鳴り響く。よくよく見れば、彼の額には不気味に尖る角が二本。獣の如く瞳孔が縦に割れた。
「本当だ」
轆轤首の女も言い争いをやめ、にこりと笑う。赤い舌が、艶やかな唇をべろりとなめた。
「ひさびさに、お腹いっぱいになれるかねえ」
「なるさ。女の身体は柔らかいが脂が多い。男の身体は硬いが、いつまでもしゃぶっていられる。二人揃えば二度旨い」
二人の目線の先。
闇の帳の向こうにある小さな扉が、一週間ぶりに開いたのである。そこには、まだ年若い女と、太った男が立っていた。
吉原にある幽霊屋敷の噂を、男はちらりと聞いたことがある。
それは美しい男が座長を務める見世物小屋だという。中には轆轤首だの鬼の子だの、猫又だのそんな化け物が揃うという。もちろん作りものではあろうが、余興にはよい。と噂に聞いた。
特に、つれない女を連れ込んで、闇夜に乗じて遊ぶのに良いと聞く。
そのような下衆な遊びも花街での楽しみのひとつ。
大店の商人として生まれ、何不自由なく男は暮らしてきた。親の金や汚い金を使って、これまで非道な遊びも楽しんできた彼にとって、これもまた思い出の一つに加わるはずであった。
いくら誘っても乗ってこない、金を払ってもはね除ける、生意気な遊女を連れ出し無理矢理幽霊屋敷に押し込んだのは新月の夜。
月のない夜、噂通りの綺麗な男に案内されて辿りついたそこは想像以上の闇であった。
「恐くないよ」
震える女を宥めすかし、闇へ闇へと誘い込む。幽霊屋敷といってもほんの小さな家か小屋を改装したもので、あっという間に壁に辿りつく。そこに女を押し込んで、
「なんだ幽霊など出るわけもない。ならば私が幽霊となろうか」
囁き耳に噛みつき、悲鳴を上げる女の襟元を掴もうとした。
「旦那。そんな子より、あたしと遊ばないかえ?」
不意に身体が宙に浮かんだ。慌てて手を振り回せば、触れたのは冷たい皮膚。白い皮膚が男の身体を巻き取っている。それは、ひどく……そう、恐ろしく長い。
闇に浮かぶ白い膚がぬるりと光った。蛇のように男の身体をぐるりと取り巻く。悲鳴を上げるその口さえ、首の下。長い長い首の先を男は見た。そこには、行灯をくわえてにぃと笑う女の小顔。
その目は、猫のごとくぎらりと輝く。それが男の見た最期の風景である。
「ん。お待ちよ。女もいたよ」
轆轤が赤い唇の端を拭って、顔を上げた。
その横で骨をしゃぶる少年も、慌てて顔を上げる。
「ああ、女もいたか。いやしかし」
床に転がる肉片を喰う二人の背後に、するりと立つのは遊女である。彼女は美しい着物を纏うが、顔は純朴である。田舎娘のそれである。
遊女は化け物を見ても顔色一つ変えず、しずと頭を下げる。
「有難うございました……そこな座長さんのお陰で、私の恨みが果たせました」
女は語る。
純朴な顔に似合わない鋭い目線が、肉片を見る。
「私は、この男に手込めにされて殺された女の妹です……と言いましても、遊女として売られて知り合った娘と、姉妹の契りをしたのでございます」
行灯が音を立てた。それに合わせて女の髪がほろりと解ける。その首筋に、細い文字が刻まれている。それは女の名だ。固い契りを、女はここに隠している。
「姉が死んだ後、私も後を追い死にました。でも悔しくて、悔しくて気がつけば……」
見れば彼女の身体は、透けている。女は美しい笑顔を、部屋の奥に向けた。
そこには、先ほどからにこにこと嬉しそうに微笑む座長が立っているのである。
このような闇夜でも、座長の顔は蕩けるように美しい。その顔に見つめられ、幽霊女は頬を染めた。
「幽霊の身であっても、ここにお願いをすれば恨みを晴らせると……そう聞いて。伺いました。これでもう後悔はありません」
女の身体はすう、と光に溶けた。この闇の中、まるでそれは菩薩のように輝いて、鬼と轆轤は眉を寄せた。
「座長、そういうことかい」
ずい。と最初に声を上げたのは轆轤である。
「力もなく口上を上げてたのは、そもそもやる気などなかったんだね。幽霊の頼み事を聞くために。人間を誘いこんで、あたし達の腹を満たすことなんて、一欠片も考えちゃいなかったんだ」
鬼の少年も、座長に寄った。座長は困ったように微笑んで、行灯に化ける。轆轤がそれを掴むと、続いてウナギと姿を変えて彼女の手からぬるりと逃げる。
「だって。ただ人を食うだけじゃつまらんでしょう。我らが生まれて何年……何千年経つのか。たまにはこのように、思いを残した幽霊の恨みを果たしてあげれば、我らの功徳もあがるというもの」
「化け物が何が功徳だ。本当なら男と女の両方を食えたところを、あにぃのせいで男しか喰えなかったじゃぁないか」
「太った男で食べ甲斐があったでしょう」
「足りるもんかい。座長みたいに何千年もいきた年寄りじゃないんだよ、あたしたちは。一週間もおまんま食い上げじゃ、干からびて死んじまうってんだ」
ぎゃあぎゃあと囲まれ怒鳴られる座長は、招き猫に化け、そのあとようやく人の姿に戻った。
「……感謝もされるし、良いと思ったのですけどねえ……格好良いじゃないですか。たまにはこんな趣向も……」
「こちとら、あんたの遊びで付き合ってるんじゃないんだよ。さっさと働いてきな」
轆轤の腹がぐうと鳴り、鬼の腹もくうと鳴った。高みの見物で、けらけら笑うのは腹を持たない木の天井ばかり。
さんざん責められ座長は這々の体で外へと逃げ出した。
「じゃあ今夜頑張ってなんとか人の子を誘い込みますから……」
五人は食べないと気が済まない。そういって大騒ぎをする声を背に受けて、座長は肩を落とした。
「まったく、うちの子たちは餓鬼のようだ」
外はまだまだ宴もたけなわ。美しい女と太った男。どれも美味しそうな人間どもが、あっちへこっちへ大騒ぎ。
ぬるりと膚を滑る春の湿度を感じながら、座長はゆっくりと手を叩きはじめた。
寄っていらっしゃい、見てもいらっしゃい。耳に聞くより目で見るよりも、中に入るとなお面白い。蝶と遊ぶも楽しいが、今宵は百鬼夜行の百花繚乱。さぁさ、遊んでいらっしゃい……。