中庭
「原田卓也の分は苦いな、やっぱり」
「うん」
「帰ろう」
「…原田卓也は放置でいいの」
「そのうち起きるでしょ」
幸兵はさっさと立ち上がり、すたすたと公園を出て行った。原田卓也はブランコの横に倒れていた。思い人は、記憶を食べられたあと、こうして眠りに落ちる。対象者の記憶を、ありとあらゆる人から引き出す扉となるのだ。相当エネルギーを使うのだろう。
食事は、終わった。
今現在、高木優子のことを知っている人間は、幸兵と、迷砂の二人だけである。
高木優子の部屋は、もうもぬけの殻である。高木優子に関するものは、全て幸兵たちが処分した。もちろん、高木家以外で保管されている写真、アルバム等、そのすべてを消すことは不可能であるが、できる範囲で、対象者の記憶にまつわるものは廃棄しなければならない。後で、この人間は誰だろう、どうしてだれも知らないんだ、そういった話が大きくなるのを防ぐためだ。しかし結局のところ、だれも覚えていないのだから、どうしようもないのだが。テレビの上の写真も廃棄した。
依頼人である高木優子の父親ももう、彼女のことを覚えていない。
強い風が吹いて、迷砂は目を閉じた。
原田卓也は、高木優子のことを殺したのだろうか。それとも単なる事故だったのだろうか。わからないけれど。あどけない寝顔には、よく見ると染みついたような隈が浮いていた。目じりには涙が溜まっていて、今にも落ちていきそうだった。
「さようなら」
迷砂は立ち上がると、コートの前をかきあわせた。風がずいぶんと冷たい。日は暮れかけていた。
「幸兵?」
公園を出たところに、幸兵は居なかった。このあたりは大分開けた土地であり、原田卓也の通う高校もここから広い大通りで一本道だ。来た道を戻ってみるが、部活帰りの高校生が、にぎやかに騒ぎながら通り過ぎていくだけで、幸兵は見つからなかった。
おかしいな
迷砂は首をかしげた。
幸兵はいつも先にさっさと歩いてはいくけれど、それでも必ずすぐに見つけられる位置で待っていた。
「幸兵?」
「………!」
幸兵は頭をおさえていた。一目で分かった。この場所がどこなのか。どうして自分がここにいるのか。腕をおろすと、スーツのひじが緩んだ。急に息苦しさを感じて、ふと見ると、やはり黒いネクタイがきつくしめられていた。幸兵はそれを力なくゆるめた。
あたりをぐるりと見回す。そこにはいつもの風景が見えた。
ここはどこかの中庭であった。2階建ての茶色いレンガの建物に、四方を囲まれている。中には均等に低木が植えられ、異様に濃い緑色の芝生が引かれている。そしていつ来ても、上から覗いているのは、雲ひとつない、真っ青な空だ。
行くべき場所は分かっている。彼女の部屋だ。
暑い。けれど寒い。呼吸がどんどん荒くなっていき、自分の呼吸音だけが、あたりに響いている。風の音ひとつしない。ぽっかりあいた入り口から、壁に手をついて、ゆっくりと階段を上っていく。
奥の部屋
一番奥の部屋
いつ初めてきたのか分からない
分からないほど
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
幸兵はこの場所に来ていた。
208号室
ドアは深い青色で、金属部分はさびている。
「入りますよ、入っちゃいますよ」
軽口を、叩いてみた。けれどまったく、余裕なんていなかった。それは悲しいくらい、自分の荒々しい息遣いが、証明していた。ドアの向こうでは、どんどん沈黙が膨張していき、ドアがそのうちはじけ飛ぶんじゃないかと思われるほどだ。
頭をかいて、うなだれて、意味のない声を出して、
それから仕方なく、ドアを開けた。
まず目に入るのは、正面にならんだ、小さな窓。青すぎる空が、外から覗いている。部屋の中は、ほとんどが暗い影になっていた。足元には、無機質なタイルが並んでいる。大きく、靴音が響いた。
「……来ましたよ」
奥の部屋へと進む。暗闇に目が慣れてくると、いつもの緋色の壁紙が、いつものくすんだガラスのランプが、ぼんやり浮かび上がってきた。
かつん、かつん、かつん
靴音がいやに気に障る。もういやだ。スニーカーを履いていたい。スーツは息苦しくて嫌いなんだ。冷や汗をぬぐいながら、幸兵は進む。もういやだ。帰りたい。気持ち悪い。怖い。助けて。助けて。助けて。今日助兄さん。助けて。助けて。助けて。
壁をつかむと、ぎぃと軋んだ。
奥の部屋には、いつも通り彼女がいた。
年は、8~10歳くらいだろうか。瞳は大きく見開かれ、どれだけ待っても、勇気を持って正面に立っても、視線が合うことはないし、まばたきひとつもしない。古ぼけた椅子に座っていて、病的に細い腕は肘掛にだらりと垂れている。そして黒い髪には埃がかぶり、まったくもって動かない。
この人が誰かは分からない。
生きているのか死んでいるのかも分からない。
分かるのは、いつも彼女がここにいること。
それだけだ。
「来ましたよ」
沈黙
「帰してください」
沈黙
「ちゃんと、来たから、帰してください」
沈黙
この部屋に来ると、浮かび上がる記憶がひとつある。兄弟全員で、かぼちゃ畑に行った記憶だ。記憶のパターンは6種類。兄弟が車に乗り込むところ、車の中で笑っているところ、かぼちゃ畑についたところ、いっせいにあちらこちらへ走り出すところ、かぼちゃを掘り出している手、それだけだ。どれもが断片的で、映像というよりは、画像に近い。
そして不思議なことに、兄弟だれひとりとして、この記憶を持っている人はいない。
幸兵は、この部屋が、このぴくりともしない女の子が怖くて、どうしてもここに来たくなくてかぼちゃ畑の記憶を取り戻そうとした。何度も何度も考え、そこに居たであろう兄弟に何度も何度も尋ねた。かぼちゃ畑のことを覚えているか、と。けれど、兄弟の答えはすべてノーであった。
もし、そんな記憶など妄想で、この部屋から抜け出す鍵をなんとかして作り出したい幸兵が、逃避的に作った記憶であったのなら、それでいい。それがいい。けれど怖いのは
その記憶が事実で
兄弟のだれかが
うそをついているのだとしたら
みんなの記憶を食べていたとしたら
頭をふる。ふってふって、それでも足りずに掻き毟る。
そ れ だ け は だ め だ
あ っ て は な ら な い
幸兵は食べた。何度も何度も食べた。
この、女の子に関する記憶を。ここに来てしまう自分を。
かぼちゃ畑に関する薄れた記憶も。
すべて忘れてしまいたかった。
自分の口から無理やり記憶を引っ張り出し、気持ち悪くなりながら、自分でそれを食べた。食べた本人は、対象者のことを忘れない。そんなことは知っていた。けれどどれだけその記憶が苦く、腐っていても、食べているその瞬間は、その記憶を消しているような気分になれた。
けれどいくら食べても現実は揺るがない。
この架空のような現実は、
記憶の曖昧さをあざ笑うかのように
不動




