一章七 『血が滲んでも、前へ』
げほげほ、げほげほ。
聞くだけで不快になる音が、少女の喉から絶え間なく響く。
「────」
鉄の味がする。それは、少女の近くにいつもいて、忘れるなと肩を強く掴んでくる悪夢だった。
「──おかあさん」
呼んでも、ほしい声は返ってこない。あるのは、どこまでも広がる暗澹たる暗い海だけだった。
「──どうして?」
苦い薬をたくさん飲んでも、痛い手術を我慢しても、少女に平穏は訪れない。白くて冷たいベッドの上に横たわったまま、少女は羨望と嫉妬の眼差しを外の世界に向けることしか出来ない。
「わたし、ずっとこうなの?」
友達を作れることも無いまま、一人きりで生きていくのだろうか。
ただ、体が弱く生まれただけで?
「──いや。そんなの、ぜったい、いや」
少女の胸の内に、嫉妬と嫌悪と、怨恨が広がっていく。許さない。赦さない。私だけが一人になるなんて、許さない。
「──おともだちを、つくればいいのね」
冷たくて白くて、狭い空間からは出られない。なら──
「せんせいがおしえてくれたごほんにあった、じゅじゅつ? を、つかえばいいんだ」
棚にある本を手に取り、少女は知る。触媒を通じて、他者と接触する手段を。寂しさを埋めるための方法を。
「──おともだちに、なってね」
孤独な少女は知る由もない。それが、どれだけおぞましいものなのか。それをして、彼女が何を失うのかを。
▽△▽△▽△
「──おかあ、さん?」
刀から飛び散った血液が、弧を描くように地面に滲みゆく。
それを知ってか知らずか、少女は、無気力な顔のまま、血に溺れ、その瞳を閉じた。
「──先生って」
少女の、悲しい半生が、千秋の頭に流れ込んできた。
彼女は、生まれ持った病気のために、孤独を抱えながら生きてきたのだろう。
そして、呪術を知り、千秋に取ったのと同じ行動で、何人もの友だちを作ってきた。
「──許されることじゃない」
その言葉を口に出したとき、千秋は、自分の中に生まれた奇妙な感覚に、目を開いた。
だが、それを深く知ろうとはせず、
「──あの子に呪術を教えたのは、誰なんだ」
そう、頭に真っ先に浮かんだ疑問を、口にした。
と、
「おい」
「えっ」
「主が死んだから領域が崩れる。元の場所に戻るぞ」
ミツルギに大きな声で呼ばれ、千秋は思わず振り返る。
すると、言葉通り、千秋たちを取り囲んでいた空間が、崩壊していく。
殻を破るように、光が空間に滲んでいき──
「──眩しい⋯⋯!」
目を刺すような眩しさに、思わず千秋は強く瞳を閉じる。
すると、髪を引っ張られる感覚のあとに、身を放り投げられるような浮遊感があった。
そして、ゆっくりと落下し、
「痛い!」
背中から床へと落ちた。
瞬間、髪と目がもとに戻り、刀も色が消える。
痛む背中を擦りながら立ち上がれば、ミツルギが宙に浮きながらこちらを見下ろしていた。
「結界も解除されたの?」
「嗚呼。あの女が死んだのだ。結界は維持できず崩壊する」
「そっか⋯⋯」
言いながら、ふたりは階段を降りて旧校舎を出る。
すると、ふと、腹の底から、小さな疑問が湧いて出た。
「ミツルギはさ、白狐って呼ばれてるんだね」
それは、何故本名で呼ばれないのか、くらいの、軽い問いかけだった。
ただ、
「──だったらなんだ」
「え⋯⋯」
「あまり踏み込もうとするな。我は、貴様の友達でもなければ味方でもない」
ミツルギは、心底不愉快そうに、言葉を切った。
それに、背筋がなんとなく冷えて、うまく、言葉が出なかった。
それをミツルギは数秒見つめて、背を向けると、
「──覚えておけ。人間と妖とは友達にはなれん。近い存在などと思うな」
そう、残して、行ってしまった。
△▽△▽△▽
「もう、遅いよ千秋!」
教室に戻ったとき、既に授業は終わっており、休み時間だった。
「ごめん、ちょっと体調が悪くて」
「平気かよ? 早退したらどうだ」
「平気。それに、あと二時間で終わるし」
雷斗の言葉に無愛想に答え、そのまま席につく。
千秋の冷たい対応に萌奈と遥斗も驚いたような顔をしていたが、千秋の内心は、それどころではなかった。
「千秋くん、ほんとにしんどそうだね⋯⋯どうしたのかなぁ」
「うーん⋯⋯今日はそっとしとこ」
「──だな。あいつも人間なんだ、虫の居所が悪いときもあるだろ」
そう、小声で話す声は千秋には届いていない。
心中を占めるのは、先のミツルギの言葉であった。
『──人間と妖とは友達にはなれん。近い存在などと思うな』
そう、ミツルギは言った。
これまでに聞いたことのないくらい、感情的な声で。
「そんな言い方、しなくたって⋯⋯」
千秋だって、ミツルギを友人とは思っていない。
千秋とミツルギは、契約上の関係で、そもそも、出会って一日なのだ。
ただ、千秋は心を開くのが早いし、人との距離も近い。
それは、人との繋がりで存在を実感する千秋の、深い価値観に根付くもので。
「──刀奪おうとしたり、やっぱり、悪いやつなのかな」
硝子のように張り詰めていた心に、僅かな亀裂を走らせるには、十分すぎたのだった。
▽△▽△▽△
「帰るか、遥斗」
「うん⋯⋯千秋はどうするー⋯⋯?」
こちらの様子をうかがいながら、遥斗が聞きに来る。
その様子に、千秋は不意に我に返り、重たい罪悪感が胸に落ちる。
──また、迷惑をかけている。
「──一緒に帰ってもいい?」
「! うん! よし帰ろー!」
「うっるせぇ⋯⋯声落とせよ」
遥斗がその上がるテンションのままに騒ぐ隣で、雷斗が嫌そうな顔をする。
「千秋、体調良くなった?」
「──うん。もうばっちり」
表面にでかけた本心を奥へ押し込め、薄い笑みをそっと顔に浮かべた。
すると、遥斗がそれに対して、凍っていた空気を溶かすような笑みを唇に広げ、嬉しそうな声を漏らした。
「そうだ、さっき話してたんだけど、明日遊園地行かない? 体育祭始まったら忙しくなるし!」
「遊園地⋯⋯」
そう話す遥斗の顔は胸いっぱいの喜びを抱えた子供のようで、言葉が次々と溢れていく。
それを断る気にはなれず、千秋はかすかな笑みを口元にかすめ、
「いいんじゃない? 雷斗たちもいくんでしょ?」
「あ? ああ。断る理由がねぇからな」
「萌奈は⋯⋯」
委員会で不在の萌奈はどうするのかと聞けば、
「あいつは来るだろ。遥斗が来るんだからな」
「確かに⋯⋯」
と、わかりきった返答が返ってくる。
そんなことを話していれば、あっという間に帰路へついていた。
遥斗は話足りないのか寂しそうに眉を下げていたが、
「帰るぞ遥斗」
「千秋ーまた明日ねー」
雷斗に引っ張られ、諦めて帰っていった。
その後ろ姿を困ったような顔で千秋は見送り、
「──ただいま帰りましたー⋯⋯」
そう広い家に声を落とすが、声が僅かに反響するのみで、返答はなかった。
「──家に帰ってるかもなんて、都合が良すぎたかな」
倉橋が帰るまで、まだ時間がある。
それまでは、千秋はひとりだ。
「────」
あの時、ミツルギに聞いたことが、彼を傷つけたのだろうか。
でも、聞いてみなければ、それがだめだったかなんてわからないではないか。
「こういうところがだめなのかな⋯⋯」
後悔は、一度始まると、絶えず心を蝕み続ける。
そんなことをしても、意味なんてないのに。
「倉橋さん、帰ってこないかな⋯⋯」
不意に、指を見つめる。
ささくれが、傷を刺すように立っていた。
さっきまでは気づかなかったから、なかった傷。
それがなんとなく不快で、痛いのを我慢して、抜いた。




