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第9話 所属

 アンヘルにとって、竜狩りギルド支局は、匂いの塊のような場所だった。

 入口は清潔だった。婦人たちが床を磨いたばかりなのだろう。だが一歩足を踏み入れると、広間はいつも騒然としている。血に染みた鎧をまとった戦士たちが往来し、金属が擦れる音と、靴底が石を打つ乾いた響きが絶えない。汗の熱気が天井の下に溜まっている。若い男女の精気と、彼らの身に染みついた血の臭いが空気を満たしていた。


 掲示板の前では、書記官たちが黙々と働いていた。

 木槌が鳴り、紙が木製の掲示板に打ち付けられるたび、乾いた音が広間に反響する。期限を過ぎた依頼書が無言で引き剥がされ、丸められて籠に投げ込まれる。かごから外れた紙片があちこちに散らばっていた。


 毎朝、戦士たちはその掲示板に群がる。肩をぶつけ、怒声を飛ばし、舌打ちし、笑い、そして拳を鳴らす。暴力沙汰は日常茶飯事だった。


 アンヘルは文字が読めない。誰かの仲間になるしかない。


 二日掛けて思いついた策は、たったそれだけだった。


「……もしもし」


 アンヘルが近くの戦士に声をかけると、その戦士はすぐに振り向いた。大きな栗色の瞳をした娘だった。


「なによ。」


 女戦士は怒ったようにアンヘルに声を発した。


「僕は字が読めないんだ。仕事を受領できない。だから、その、僕を君の仲間に入れてくれないか。」


 女戦士はアンヘルを一瞬で値踏みするように見つめ、それから、面白いものを見つけた子供のように口角を上げた。


「ついてきなさい。」


 それだけ言うと、彼女は掲示板のほうへ歩いていった。

 アンヘルは、その背中を見失わぬようについていく。


 掲示板の前で、皆が紙片を睨みつけている。

 鉛筆が擦れる音とともに、番号が小さな紙に書き留められていく。

 イネスも顎を引き締め、唇を噛み、必死に番号を書き写していた。


 やがて彼女は受付へと進み、番号を告げた。

 受付嬢は一度だけ顔を上げ、棚から木札を一枚取り出す。


「依頼番号、七四二。受任、確定。」


 木札を受け取ったイネスは、振り返ってアンヘルに掲げた。

 はじけるような笑顔だった。


 こんな人間も、いるのか。


 アンヘルの胸の奥に、熱が灯った。


「あんた、名前は何ていうの。私はイネス。」

「僕はアンヘル。」


 イネスは「ふうん」と声を発して、「来なさい」と言った。


 そうしてイネスは、アンヘルを仲間たちに紹介した。全員がアンヘルを一瞥いちべつし、それぞれに戦いに赴く準備を行っていた。


 イネスは地図と双眼鏡を腰に収め、拳銃を確かめた。

 そうして、年季の入った一振りの長刀を肩に吊り下げた。刀がわずかに伸縮している。その様子を、アンヘルは見逃さなかった。


 それからアンヘルは、異様に長い銃を担ぎ上げる青年を見た。アンヘルの視線に気が付いたらしい。青年は、「オレはラファエルだ」、と力強くうなづいた。

「この大型長銃は中型竜に使うんだ。」

 それだけ言って、ラファエルは弾薬袋に弾薬を詰める作業に戻っていた。


「あの、私はルシアです。よろしくお願いします。」

 背後からよく通る声が響いた。衛生兵のルシアは、そう言って小さく頭を下げた。

 ルシアは背中に重そうな鞄を背負っていた。中で薬瓶がかすかに鳴った。


「オレはマテオだ。よろしく頼む。」

 マテオと名乗った青年はため息をつきながら銃を肩に掛けた。


 そして、外では自動車両が待機していた。


 誰もかれもが、まだ他人でしかない。


 それでも、アンヘルは戦うための前段階に辿り着くことができた。

 それだけは事実だった。


 鋼鉄の車輪がきしむ音とともに、ギルドの中庭に自動車両が入ってきた。

 箱型の車体に、後部には幌の屋根をもつトレーラーが連結されている。蒸気と油の匂いが鼻を刺し、排気が白く空に溶けた。金属の熱が、近づくだけで肌に伝わってくる。


「さあ、行きましょう。」


 イネスの溌溂はつらつとした声が響いた。

 イネスが真っ先に荷台に飛び乗り、ラファエル、ルシア、マテオがそれに続く。アンヘルは剣の柄を握りしめ、トレーラーの木床へと跳び乗った。


 そうして、車両が動いた。


 木製の床部分が足裏に硬い現実を伝えてくる。

 ラファエルが荷台の床に長銃を横たえていた。振動が起こるたびに、重い金属を響かせる。ルシアは薬箱を膝に固定し、革紐を締める音が短く響く。マテオは小さくため息をつき、荷台の縁に背を預けていた。


 城塞都市の門を抜けると、石畳の振動がそのまま骨に伝わった。荷台では誰も喋らない。ただ風が唸り、鎧の金具がかすかに鳴る。

 城壁が遠ざかり、街路が畑に変わり、風景は草原へと変わっていく。乾いた土の匂いが混じり、風が頬を叩く。アンヘルは、流れていく景色を黙って見つめていた。


 やがて道は荒れ、わだちが泥に沈み始めた。

 車体が大きく揺れ、荷台に鈍い衝撃が走る。

 自動車両は森の縁で停止した。


「ここから先は徒歩ね。」


 イネスは地図を広げ、方位呪石(方位磁石)を指で弾いた。


「依頼書によると、この辺り一帯で家畜が消えているそうだ。」


 ラファエルが荷台から超長銃を引き下ろし、金属の重みを肩に載せながら言った。

「聞き込みをしよう。」


 頭痛。

 アンヘルは動けずに、自動車両の荷台に座り込んでいた。その間、イネスとラファエルは実に精力的に集落を駆け回っているようだった。


 ルシアは首を横に振り、黙って手を当て続けた。


 マテオは「襲われた家畜を調べる」と言って荷台から降り、まだ戻っていない。


 頭の奥で、針がきしむような痛みが続いていた。

 全員がそれぞれの役目に没頭するなか、アンヘルだけが何も出来なかった。

 ルシアがそっと横に座り、背中を撫でてくれた。

 アンヘルは何度も、「迷惑をかけてすまない」と繰り返した。

 本当に自分が情けなかった。胸の奥が縮こまるようだった。


 数日かけて、全員がトレーラーの荷台に再集合した。情報を総合すると、小型肉食竜の仕業でほぼ間違いなかった。

 マテオが「アルファの形跡はない。糞の量と形、足跡の大きさがそれを語っている。」と全員に断言した。

 ラファエルが「群れが密林へ戻っていった痕跡が、はっきりと残っている。」と簡潔に報告した。


 方針は、それで決まった。


「さあ。」


 イネスが全員を見渡した。


「密林へ侵入よ。」


 その声は、驚くほど明るかった。


 そうして踏み込んだ密林は、昼なのに驚くほど暗かった。

 一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。

 湿気が肌にまとわりつき、汗がにじむ。

 蔦が絡み、濡れた葉が足元で音を立てる。腐葉土の匂いが濃く、虫の羽音が耳の周りに響く。


 アンヘルは隊の先頭に立った。

 斥候として、気配を読む役目だ。


 一歩ごとに、世界が狭まっていく。

 陽光は細く薄くなり、木々が壁のように迫る。

 遠く前方で乾いた音がした。枝が折れる音だった。


 アンヘルは立ち止まり、片手を上げた。

 隊が即座に静止する。


 アンヘルは、闇に目を凝らした。


 森の奥で、何かが動いていた。

 魔剣が拍動していた。


 闇の中で、葉が震えた。

 規則性のない、ためらうような揺れ。


 アンヘルは呼吸を止めた。

 耳の奥で、自分の鼓動が大きく響く。

 魔剣の柄が、掌の中で烈しく脈打っていた。


 背後で誰かが息を呑む音がした。

 それでも誰も動かない。

 アンヘルが掲げた手は、まだ下がらなかった。


 闇の奥から、低い擦過音が届いた。

 爪が樹皮を引っ掻く音。湿った鼻息。


 ——小型竜だ。


 アンヘルはそう確信した。


「一匹じゃないわね。」


 イネスがはっきりと呟いた。


 その声は凛としていて、背後の仲間たちが感電したように目つきを変えた。


 イネスが、喉を鳴らすほど息を吸った。

 ラファエルは長銃を構え、銃口を闇に向ける。

 マテオは地面に膝をつき、足跡を目で追った。

 ルシアは、すでに包帯を片手に持っていた。


 アンヘルは、一歩だけ前へ出た。


 腐葉土が、かすかに沈む。

 その感触が、確かな現実として足裏に伝わる。


 闇が、動いた。


 枝を押し分け、赤銅色の鱗が姿を現す。

 オオカミほどの体躯。前趾と後趾。長い尾。

 琥珀色の眼が、光を反射して瞬いた。


 一匹。

 その奥で、もう一つの影が重なる。


 アンヘルは、剣を抜かなかった。

 代わりに、片手をわずかに上げ、静止の合図を保ったまま、ゆっくりと息を吐いた。


 竜は、こちらを見ていた。

 だが、まだ襲ってこない。


 ——迷っているのか。


 その微妙な間を、アンヘルは感じ取った。

 竜もまた、目の前に並ぶ異質な集団を測っている。


 人間。

 竜人。

 鉄と火と匂いを纏った存在。


 アンヘルは、一歩だけ、さらに踏み出した。


「来るなら、来い。」


 声は低く、森に溶けた。

 それは仲間に向けた言葉ではない。

 闇の奥の“それ”に向けた、挑発だった。


 竜の喉が、わずかに膨らんだ。


 イネスが歯を食いしばる。

 ラファエルの指が引き金にかかる。

 ルシアの目が、アンヘルの背中に縫い止められる。


 その瞬間、アンヘルは理解した。


 ここは、もう森ではない。

 ここは、戦場だ。


 そして。自分は、もうひとりではない。


 アンヘルの胸の奥で、なにかが確かに形を持った。


 それは、恐怖ではなかった。

 それは、狂気でもなかった。


“所属”という、初めての感覚だった。


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