第8話 都市
アンヘルの毎日は、竜のアルファを斃しても何も変わらなかった。
獣を狩り、竜を狩る。
血の匂いを洗い流し、適当な木に登り眠りにつく。
夜露が肌を冷やし、風が枝を揺らす。
その繰り返しが、アンヘルの生活だった。
時折、アンヘルは竜人の里に出入りをする。エドワードに逆鱗を加工してもらうためだ。通りを歩くと、何人かの竜人と視線が交わる。だがほとんどの竜人は、その瞬間、目の奥に怯えを滲ませ、そっと視線を逸らした。誰もが、なるべくアンヘルと目を合わせないようにしていた。
誰もが、もうアンヘルと関わりたくないと思っている。そういうことであるようだった。
———あなたは大丈夫よ。
幻のように、母の声が天上から差し込んだ。
陽は夕方から夜へ差し掛かろうとしていた。石と木で組まれた家々の軒先に、小さなランタンが一つずつ吊るされていた。足元を照らすように淡い橙の光が道を縁取っている。風が吹くたび、灯はわずかに揺れた。
広場では、子供たちが線香花火を手に輪を作っていた。白い火花がぱちぱちと弾け、短い命を惜しむように輝いては消える。そのたびに、小さな歓声が上がる。竜人の子供たちは体を震わせ、どちらの線香花火が長く命を保つか競争していた。
アンヘルは遠くから歩きながらその光景を見ていた。
通りの端に行商人の荷車が止まり、甘い匂いが漂っている。蜜を絡めた飴を差し出すと、子供たちは遠慮も忘れて駆け寄り、両手で受け取った。舌に触れた瞬間、目を見開いて声にならない喜びを洩らす。その様子に、大人たちは肩を揺らして笑った。
そうした光景を見ながら、アンヘルはエドワードの工房へと辿り着いた。
アンヘルが戸を叩くと、戸の奥から低い返事があった。
木扉をひらく。エドワードは振り向かずに剣の鞘を作っていた。
食事用の机に、美しい品々が置かれていた。
淡く青白い光を宿す盾。
燐光を放つラメラ―アーマー。
面頬と額当て、首当てやのど当てを備えた兜。
「すべて逆鱗を含む鋼、竜鱗鋼を用いた作品だ。」
エドワードがようやく、アンヘルと視線を交えた。
アンヘルは、しばらくそれらを見つめていた。
「全部君のものだよ。」
エドワードがそう言った。祝福の言葉はない。英雄と呼ぶわけでもない。
ただ、次も生き残れ、という実務的な意志だけが、そこにあった。
「ありがとう。」
アンヘルはそれだけを言った。
ラメラーアーマーを着込む。金属片が擦れ合い、低い音を立てる。
兜を被り、盾を左腕に固定する。革が締まり、体が一回り重くなる。
エドワードが与えてくれた剣の鞘とホルダーを身に着けると、
アンヘルの身体は、完全に“戦う者”の形になっていた。
その重さだけが、確かだった。
「行商人が手紙を運んできたよ。近く、飛竜狩りを行うらしい。君が参加するつもりなら、僕が竜狩りギルドに推薦状を書くよ。」
エドワードがアンヘルをまっすぐに見てそう言った。
「…やはり、ここにいては、駄目なのか。」
アンヘルは、エドワードに向かって問う声を発した。エドワードは目を瞬いて、息をついた。
「言いにくいけど。もうここに君が出入りする理由がない。もう、無いと思う。」
エドワードが肩を落としてそう言った。
「すまない。」
エドワードが、かすれた声で呟いた。
アンヘルは夜明け前に里を出た。他にどうすることもできなかった。
霧は川面に薄くたなびき、湿った空気が肺に沈む。エドワードから渡された革袋には、乾燥肉と堅焼きのパン、水袋、銀貨が数枚。そして簡素な地図だけだった。
装備はすでに身体の一部のように馴染んでいた。腰元に吊り下げた魔剣はいつでも引き抜ける。円楯はいつでも構えられる。寂しさは感じなかった。わずかな頭痛があるだけだった。
川沿いに西へ向かえば、三日ほどで都に着く。
エドワードはそれだけをアンヘルに伝えた。
最初の一日は、ほとんど道とは呼べない獣道を進んだ。夏の原生林は濃密な命に溢れていた。陽光が高い梢で遮られていた。道をふさぐ倒木には苔が厚く張り付き、無数の虫たちが騒がしく羽音を重ねる。腐葉土は柔らかく、踏み込むたびに足が軽くめり込む。夜になると、原生林は深く険しかったが、行商人たちの踏みしめた足跡があった。木の幹に刻まれた矢印がいくつもあった。それだけが唯一の救いだった。
二日目、森は緩やかに姿を変えた。
梢の隙間が増え、下草が刈り払われている。石を積んだ小さな祠や、放置された畑の跡がある。川が穏やかに蛇行し、その縁に果樹の若木が並んでいる。アンヘルはいつの間にか、人の生活する場所に辿り着いていた。鳥の声に混じって、遠くで斧の音が響いた。風は土と木煙の匂いを運んでいた。
三日目の朝、霧の向こうに都市の影が立ち上がった。
霧の中で、塔の輪郭が一本ずつ現れた。最初はただの影だったものが、やがて石の稜線となり、城壁となり、堀の縁となって連なっていく。風に乗って、金属が触れ合う微かな音が届いた。
角笛のような低い響きが、遠くで一度だけ鳴った。
それは森には存在しない音だった。
鳥の声でも、獣の唸りでも、竜の咆哮でもない。
人が集まり、働き、生き延びることで生まれる、文明の音だった。
徐々に都市の輪郭が明らかになっていく。幾重にも重ねられた土嚢と、深い堀が輪を描いていた。その中心に、灰色の城塞都市が屹立していた。城壁は分厚い石と混凝土が用いられていた。塔は川の流れを睨むように屹立していた。おびただしい住居が城塞の周囲に溢れていた。
アンヘルは無意識に足を止めた。
胸の奥で、なにかがわずかに軋んだ。
アンヘルはその光景にしばし見入っていた。そうしてため息をついた。すべて正常だ。アンヘルはそう呟いて、都市を睨みつけた。
城塞都市の外縁に近づくにつれ、道は踏み固められ、川沿いには簡素な標柱が立ち始めた。
そのひとつの影から、すばやく人影が現れた。アンヘルは反射的に、剣の柄に指をかけた。
「都は初めてか。」
アンヘルの視界に日に焼けた顔の男が飛び込んできた。年は三十に届くかどうか。背には古びた地図筒と縄束を負い、腰には小さな鈴を下げている。歩くたび、ちり、と乾いた音がした。
「俺っちは町の案内を生業にしてんのよ。行きたい場所があるならどこでも案内する。この町の道は迷いやすい。盗賊も多い。旅人はよく堀の外で野宿して、何もかも失う。」
男はそう言って、アンヘルの装備を一瞥した。盾と兜、魔剣。
その目に一瞬だけ、警戒と、別種の敬意が浮かんだ。
「あんた、竜狩りか。なら、なおさらだ。都は広い。噛みつく場所を、間違えないほうがいい。」
アンヘルがどうしようかと迷う間もなく、男は自分を“ガイド”と名乗った。ガイド男はすでにアンヘルを客とみなしているようだった。川を渡る浅瀬、門兵に渡す通行札、荷車を避ける裏路地、そのすべてを、歩きながら淡々と教えてくれた。
城門をくぐると、世界は一変した。
石畳が靴底に硬く響き、四方から人の声が押し寄せる。
魚を焼く煙、革を鞣す匂い、鉄を打つ火花の匂い。屋台が並び、果実が山と積まれ、布商が色布を翻す。水桶を運ぶ女、荷を担ぐ少年、甲冑を着た兵士、祈りを捧げる老人。
誰もが急ぎ、誰もが生きている。
「ここでは、竜も人も、同じ“資源”だ」
ガイドは半ば冗談のように言った。
「命を賭ける者がいて、命を売る者がいて、命で稼ぐ者がいる。都は、それを束ねる場所だ」
石畳の先に、異質な建物が現れた。城壁に沿うように建つ巨大な施設。灰白色の外壁は竜鱗を模した装飾で覆われ、門柱には交差した槍と翼の紋章が刻まれている。
竜狩りギルド。
門前には、すでに多くの者が集っていた。
人間の剣士、重装の傭兵、軽装の弓手。
そして、竜人たち。
翼を畳んで佇む者、尾を巻いて座る者、逆鱗を削った武具を誇る者。
肌の色も、角の形も、瞳の輝きもまちまちだが、共通しているのは、その身に刻まれた“戦う者”の気配だった。
扉をくぐると、内部は広大な広間だった。
天井は高く、床には地図が描かれていた。壁には何かの記録書が山のようにファイルされ綴られている。
低く抑えた声が起こった。
「咆撃で三人やられた。うん。モーティーのヤツはもういねえよ。」
「でも報酬は銀貨百。逆鱗込みだ。あいつはそれでツキを使い切ったんだ。教訓だよな。ツキはとっておかないとな。」
ここでは、恐れられることはない。
ここでは、疎まれることもない。
アンヘルは、その場に立ち尽くした。
森を歩き続けてきた身体が、“居場所の形”を目にした。
そのような気がした。




