第6話 剣士
アンヘルは魔剣を得た。
何処に行くという当てもなかった。村を囲む低い柵、崩れかけた家々、踏み固められた土の道。生まれ育った場所を一周しても、胸の内に残るのは空虚だけだった。乾いた風が頬を撫で、遠くで犬が吠える音がした。
アンヘルは魔剣を腰に帯び、村の外れを歩いた。剣は重くない。だが、そこに在るという事実だけが、歩調を変えた。土を踏む感触が、昨日までと微妙に違う。風が頬を撫でるたび、誰かに見られているような気がした。
まだ抜いてもいない剣が、人を遠ざけている。そんな錯覚があった。養蚕小屋の前を通り過ぎるとき、戸板の向こうに主人の気配を感じた。だが、声はかからなかった。アンヘルは立ち止まらなかった。振り返ることもしなかった。
この剣を得た瞬間から、何かが終わったのだと、身体の奥が知っていた。
もう「ペロ」と呼ばれる存在には戻れない。
かといって、「人」に戻れるわけでもない。
剣の鼓動が、微かに掌へと伝わった。
それは、生き物のようだった。
アンヘルは森の中を徘徊した。湿った地面が靴底に絡みついた。枯葉がかさりと音を立てる。魔剣の柄が、掌の中でぬめるように重かった。
アンヘルは魔剣を振り回し、枝を断ち切り、捕らえたウサギを切った。
刃を振るった瞬間、獣の温い血が飛び散った。湿った毛皮の匂いと生臭さが一気に立ち上る。血の匂いが鼻腔全体に広がった。
頭痛。誰かが鼓動と同じ間隔で頭蓋の内側を金づちで叩いている。痛みはこめかみの奥で脈打ち、アンヘルは叫んだ。
幻聴。
名を呼ぶ声、責める声、懐かしい笑い声。過去の亡霊を振り払うため、アンヘルは魔剣をでたらめに振り回した。
森は夏へと傾きつつあった。高く伸びた広葉樹の梢が、陽光を遮っていた。湿った土からは濃い腐葉の匂いが立ちのぼり、甘く熟れかけた果実の香りがそこに混じっている。羽虫が光の柱の中を漂っていた。遠くでは鳥の甲高い声が響いていた。葉の裏に溜まった水滴が、アンヘルの歩みに合わせてぽたりと落ち、肌に冷たく触れた。
アンヘルは森の中を徘徊して歩いた。イノシシが括り罠にかかっていた。罠によって空中に吊り上げられたイノシシは罠を引きちぎって地面に落下し、肉体をうねらせて態勢を整えた。次の瞬間、イノシシは熱い息を吐いてアンヘルに突進した。筋肉を脈動させたその姿は素早く、大きかった。
アンヘルは全霊を込めてイノシシの頭蓋に魔剣を振り下ろした。魔剣の刃はイノシシの表皮を裂き肉に沈み、頭蓋骨を切断して顎へと抜けた。
イノシシは斬撃の衝撃によって地面に叩き伏せられ、痙攣していた。荒い呼吸が喉で泡立ち、蹄が土を掻く音だけが続く。アンヘルがイノシシに触れても、イノシシは痙攣し天上を睨んでいるだけだった。
アンヘルはイノシシの骸を力づくで引きずりながら、広い湖へ到着した。湖面が鈍く光り、水の匂いを含んだ風が頬を撫でる。美しい場所だった。竜人リザが言うには、湖はかつて、天使を自称する移民の憩いの場所だったという。その前はアメリンド族という古い時代の人間が住んでいた。でも今や入植の時代は終わっていた。天使たちはアメリンド族と混血し、その歴史的役割を終えていた。
アンヘルは半ば無意識にイノシシを捌いた。それから竜人たちの圧気点火器という筒を取り出した。点火器を用いて火を熾し、イノシシの肉を炙る。十分な熱を加えてから、アンヘルは肉を齧った。滋養分が染み出し、塩気が喉に流し込まれる。アンヘルは満足のため息をついた。
夜、アンヘルは森の浅い窪地に身を横たえた。枯葉を寄せ集め、背中に敷く。焚き火はしなかった。竜は炎を恐れない。その知識があった。
魔剣は胸の上に置かれていた。闇の中でも、剣は微かに脈打っている。鼓動のような律動が、肋骨の内側へと伝わってくる。
眠りに落ちる直前、母の声がした。
——あなたは大丈夫よ。
その声に重なるように、剣が応えた。
まるで、別の心臓が胸の上で動いているようだった。
アンヘルは目を閉じた。だが、眠りは浅く、夢は剣の色をしていた。血の匂い、鉄の光、砕ける骨の感触。
目を覚ますと、喉が乾いていた。
剣が強く脈打っていた。
何かが異常だった。
魔剣が拍動していた。
アンヘルに何かを伝えようとしていた。
藪が擦れ、鱗がこすれる乾いた音がした。
アンヘルは本能的に直立した。
次の瞬間、三匹の小型竜が姿を現した。先頭の竜が牙を剥き、瞬間、アンヘルは跳ね飛び、魔剣を振るった。剣先が竜の肉を裂き、その衝撃が竜の頭部を切り飛ばした。
二匹目がすでに襲ってきていた。尾を鞭のように用いてアンヘルの足の骨を砕こうとしていた。アンヘルは後ろに跳ね飛び、瞬間、回り込んできた三匹目がアンヘルを襲った。
アンヘルは何度も後退を繰り返し、竜達と距離をとった。
首だけになった一匹目が頭部を失ったまま立ち上がり、そして吼えた。
好機だった。瞬間、アンヘルは前転して一匹目の足を切り飛ばした。
頭痛。蹲ったアンヘルにむけて二匹目が咆撃を放っていた。瞬間、三匹目がアンヘルに体当たりをした。偶然だった。咆撃の射線上に入ってしまった三匹目は二匹目の放った咆撃をまともに受ける形になった。三匹目は衝撃からアンヘルを守る盾の役割を果たしていた。アンヘルは衝撃で吹き飛んだ三匹目の体当たりをうけて弾き飛ばされていた。
頭痛。アンヘルは圧し潰される衝撃を腹部に感じ、胃の内容物を吐き出した。吐き出しながらでたらめに剣を振るった。魔剣の先端が三匹目の顎を裂き、その奥にある頸椎に触れた。浅い。アンヘルは素早く魔剣を切り返した。刃は竜の頸椎を深く貫き、三匹目を行動不能にしていた。
戦意の高まりにまかせて、アンヘルは走り出した。再び咆撃を放とうとした二匹目に突進した。全体重を乗せたアンヘルの刺突が二匹目の頭部を貫き胴体に沈んでいた。そうして二匹目が地面に沈んだ。
アンヘルを襲った竜達は全員が行動不能に陥っていた。頭部と後ろ趾を失った一匹目が地面をのたうっていた。脊椎を砕かれた二匹目が痙攣していた。頸椎を切断された三匹目が衝撃で失神していた。
アンヘルは間を置かず竜の逆鱗を引き剥がす作業に移った。のたうつ一匹目の表皮に触れる。一匹目の逆鱗は竜鱗に紛れて存在していた。ナイフを用いて力づくで逆鱗をもぎ取る。一匹目が人形のように動かなくなった。
二匹目にも同じことをした。表面には逆鱗が無かった。ナイフで腹を裂く。痙攣を繰り返して二匹目はアンヘルから逃れようとしていた。筋肉を骨から引き剥がす。骨を魔剣で切断する。心臓、肺、肝臓、脾臓、胆のう。胆のうに固い異物感があった。胆のうごと切断すると、二匹目も急激に力を失って断末魔を上げた。
復活した三匹目が咆撃を吐く瞬間より、アンヘルがそれを察知して魔剣を投げ飛ばす方が一瞬早かった。咆撃はあらぬ方向へ逸れ、アンヘルは魔剣を拾い上げて三匹目の胴体を完全に切断した。凄まじい血煙が上がった。竜鱗の表面を素早く探る。頸部に竜鱗があった。ナイフでえぐり取ると、三匹目も完全に動きを止めた。
アンヘルは三つの逆鱗を湖畔で洗い流し、小さな背嚢にそれらをしまい込んだ。冷たい水が生き延びた実感を与えてくれた。指先にはまだ血と熱が残っていた。竜の血を浴びた魔剣が烈しく伸縮を繰り返していた。
水面は風を受けて揺れ、鈍い光を返している。しゃがみ込み、そっと覗き込むと、自分の顔が浮かび上がった。
痩せた頬。土と血に汚れた肌。
額の刺青は、波に歪みながらも、はっきりとそこにあった。
それは、人間の顔ではなかった。
少なくとも、母が抱いてくれたころの自分ではなかった。
アンヘルは、欠けた左手を水に浸した。冷たい感触が、指の無い場所にまで広がる。
そこに、魔剣の影が重なった。
剣の脈動が、水面の揺れと同調している。
烈しい拍動ではなかった。
魔剣はアンヘルの心音に同調するようにゆっくりと脈動していた。
胸の奥で、かつての記憶が一瞬だけ息を吹き返した。
母の匂い。乾いた風。抱きしめられたときの体温。
アンヘルは、水をすくい、顔を洗った。
滴が頬を伝い落ち、湖へ戻っていく。
「僕を呼んでくれる人はいない。僕は誰なんだ。」
答えは返らなかった。
深い森のもつ美しい光景だけがあった。
アンヘルは、ゆっくりと立ち上がった。
風が湖畔を撫でる。
湖面の自分は、すでに揺れて崩れていた。




