第5話 魔剣
アンヘルが竜の死骸を抱えたまま里に踏み入れた瞬間、空気がざわめいた。踏み固められた土を打つ足音が次々と止まり、低いざわめきが波のように広がる。血と鉄の混じった匂いが風に乗って流れ、焚き木と木脂の匂いに満ちていた里の静けさを押し退けた。
アンヘルは竜の死骸を担ぎ、エドワードを探して里を歩いた。
肩に食い込む重量が脈拍に合わせてずしりと揺れる。その後ろを、子供たちが恐る恐る、しかし抑えきれない好奇心に引かれるようについてきた。裸足が土を叩く乾いた音、衣擦れを殺す気配。やがて子供たちは耐えきれずに走り出し、大人たちを呼びに行った。
集まった竜人たちは、無言で竜の死骸を囲んだ。
アンヘルは、その輪のわずか外側に立っていた。
誰かに押しやられたわけではない。ただ、そこが自分の立つ場所なのだと、身体が先に理解していた。
竜人たちは竜の死骸を見ていたが、同時に、アンヘルも見ていた。
だがその視線は、村で向けられてきた拒絶とは違っていた。
恐れや警戒と共に、わずかな尊敬が混じっていた。
アンヘルは、自分が“人間”として見られていないことを感じた。
かといって、“竜人”として迎え入れられているわけでもない。
ここでも、どこにも属さない。
それでも、誰も戸を閉めなかった。
誰も「帰れ」と言わなかった。
その事実だけが、胸の奥で微かに熱を持った。
アンヘルは、竜の血に濡れた自分の手を見た。
欠けた指。震える関節。
それでも、この手で、竜を運んできた。
――まだ、役に立てる。
その思いだけが、彼をこの場につなぎとめていた。
竜人たちは視線を竜へ向け、誰もが息を浅くしていた。若い竜人が一歩前に出て、竜の死骸に触れた。
若い竜人は、表面の竜鱗をくまなく調べた。
指でなぞるたび、鱗の冷たさと硬さが伝わる。それから一度家に戻り、鋸を持ち出してきた。金属が皮膚に食い込む、ぎり、と鈍く粘る音が里に響く。皮が裂け、体液の生暖かい匂いが一気に立ちのぼった。アンヘルは鉄の臭みを感じて、喉の奥でうめいた。
骨から胸筋が引き剥がされる。
筋繊維が粘りをもって伸び、ぶつり、と湿った音を立てて離れた。胸の骨が外され、内臓が露出する。ぬらりと光る臓器の表面に朝の光が反射し、わずかに蒸気が立った。
大きな鋏が入れられた。
肉を裂くたび、鈍い破裂音がし、体液が地面に滴り落ちる。土に吸われる音が、やけに大きく感じられた。
「心臓。
肺。
脾臓。
胆のう。
肝臓——」
若い竜人は、確認するように名を口にしながら臓器を切断していった。その声は落ち着いていて、作業に迷いはなかった。刃の動きは正確で、躊躇がなかった。
やがて、胸腔の奥から、ひときわ異質なものが引き抜かれた。
体液に濡れた、黒い薄片。
黒曜石のように艶を帯びていたが、石とは違っていた。竜人の手にあるそれは、脈動していた。
若い竜人は、それをアンヘルに向かって掲げた。
「これが、竜の逆鱗だ。これさえ剥ぎ取れば、竜は死ぬ。」
逆鱗の表面に、里の光が映り込んだ。
もう一人の竜人が、低く唸るように言った。
「……だんだん、竜の数が増えてるな。」
逆鱗を持つ竜人が、短く頷いた。
「そうだな。」
そして、逆鱗から視線を外さずに続けた。
「こいつらは斥候だ。
群れの中型竜が、近くにいる。」
その言葉が落ちた瞬間、里の空気がわずかに張り詰めた。
遠くで風が木々を揺らし、葉擦れの音が、警告のように長く尾を引いた。
「アンヘル。」
名を呼ばれて振り向くと、エドワードが子供たちに囲まれて現れた。足音は軽かったが、表情は引き締まっていた。
「その逆鱗を、僕にくれないか。」
エドワードはそう言い、アンヘルをまっすぐに見つめた。
「これは契約だ。僕らは戦い慣れていない。
君が味方になってくれるなら、僕らは君を支援できる。」
頭痛。アンヘルのこめかみの奥で、鈍い痛みが響いた。「契約」という声を発していた。
エドワードが静かに頷いた。
「そう、契約だ。
僕らは君を支援できる。どうする。」
問いを受けて、アンヘルは一度、息を吸った。血と木と土の匂いを同時に感じた。
「僕は命を救われた。
もっと、この里の役に立ちたい。」
それが、アンヘルの答えだった。
「決まりだね。」
エドワードはそう言い、かすかに息を吐いた。
エドワードはアンヘルを自宅に案内してくれた。エドワードの家は、里の端にあった。石積みの低い建物で、屋根は黒く煤けていた。壁には長年の熱で生じた細かなひびが走っていた。
最初の作業は、家の裏庭で行われた。あちこちに炭殻が散らばっていた。風よけの板に囲まれた作業場の中央で、エドワードは逆鱗を無言で砕いた。
黒い薄片は、石で打たれるたび、乾いた高い音を立てて割れた。
エドワードは砕いた逆鱗に、砂鉄と炭を加えた。掌で混ぜ合わせ、水を含ませ、押し固めていく。そうしてエドワードは二十数個の炭団子を作った。
エドワードは手早く、小さなたたら炉を組んだ。粘土と石で囲った簡素な炉だが、空気の通り道を計算して作っているようだった。そうして炉の下部に火を入れ、一気に過熱する。
赤黒い闇の奥で、火が唸りはじめていた。
「風を送ってくれ。」
エドワードがアンヘルに短い指示を出した。
アンヘルは送風器を握り、必死で上下させた。腕が軋み、肩に痛みが走る。風を送るたび、炉の口から炎が脈打ち、白い光が弾けた。熱が顔を炙る。汗が目に流れ込む。呼吸をするたびに、喉が焼けた。
どれだけ時間が経過したのか。エドワードがアンヘルに手振りで、もういいよ、と示した。
そうしてエドワードは無言で炉を崩した。
中から現れたのは、円盤状の鋼だった。
それは、明らかにただの金属ではなかった。脈打つように伸縮していた。熱に応じて形を変え、まるで呼吸しているかのようだった。
アンヘルは、思わず一歩退いた。
エドワードは何も説明しなかった。火箸で鋼を掴み、そしてアンヘルを家の中へと案内した。
エドワードの家の中は、薄暗かった。正面の壁際には、低い炉が据えられていた。炉床は黒く焼け、縁には何層もの煤が固着している。炉の奥には、火の名残のような赤黒い影が沈んでいた。天井は低く、太い梁がそのまま露出していた。
梁には鉄の輪や鉤が打ち付けられ、そこから無数の道具が吊るされていた。槌、鏨、鋏、火箸。どれも使い込まれ、柄の木は黒く艶を帯びていた。
壁際には、石の作業台があった。表面は平らではなく、叩かれ、削られ、欠けた痕が重なっている。作業台の下には、半端な鋼材や炭の袋が無造作に積まれていた。
床は土と石が混じった固い地面だった。踏み出すたび、かすかな砂の音がした。
唯一の窓は小さく、壁の高い位置にあった。格子越しに差し込む光は細く、床に斜めの帯を落としていた。その光の中では、舞い上がる粉塵がきらきらと見えた。
部屋の隅には、簡素な寝台が置かれていた。木枠に厚手の布が敷かれているだけだ。枕元には水差しと、欠けた木杯がひとつ。生活の痕跡は最小限で、必要なものだけが残されていた。
エドワードは鋼を梃子皿に乗せ、かまどに似た炉へと投入した。
エドワードは鋼を再加熱し、頃合いを見て引き抜いた。それを金床に置き、槌を振り下ろす。鋼を加熱し叩いて、延ばし、折り曲げる。エドワードは何度も同じ作業を繰り返した。
つぎに鋼を棒状に打ち延ばす作業に入った。火花が飛び、床に散り、足元で消える。長く観察していたせいで、アンヘルの視界は熱気で揺れた。
エドワードは、持ち手となる茎と、刀身の境目に、慎重に区を付けた。
鎬を打ち出す。
鉄が鳴り、音が変わる。
サーベルの形へと叩きならしていく。
粗い砥石でサーベルの刃を研ぐ。
刃を再び加熱し、そして急冷する。
再加熱し、それから荒い砥石で研ぐ。細かな砥石で研ぐ。
音は次第に静かになり、刃は光を帯びていった。
エドワードは、最後まで一言も発しなかった。
ただ、熱した鋼と向き合い続けていた。
アンヘルは、茫然とエドワードの背中を見ていた。
エドワードは剣に持ち手を作る作業に没頭していた。
そうしてエドワードはようやく、アンヘルを振り返った。
「さあ、これだよ。」
エドワードが、完成したサーベルをアンヘルに差し出した。
アンヘルは無言でその剣を受け取った。
アンヘルの掌の中で、剣は脈動していた。心臓と同じように拍動していた。その鼓動をアンヘルは、恐ろしい、とは思わなかった。
血の通っていない鋼が、彼の体温に合わせるように微かに震えている。
それは、かつて森で抱き締めた竜の胴と同じ感触だった。
重く、硬く、そして生きている。
頭の奥で、母の声が一瞬だけ蘇った。
「あなたは、大丈夫よ。」
アンヘルは剣を強く握りしめた。
この鼓動を、今度こそ手放さないために。




