第4話 竜狩
傷は癒えた。だが、身体は元には戻らなかった。左手の薬指と小指が失われていた。掌の端に空白があり、握ろうとすると、その空白が先に痛んだ。右手の人差し指と中指にも後遺症が残った。曲げると、関節の奥に鈍い違和感がある。寒い朝には痺れが遅れて追いかけてきた。
アンヘルはリザに案内され、村までたどり着くことができた。
頭痛。
幻聴。
幻覚。
アンヘルは結局、リザにさよならを言うことができなかった。それでもアンヘルは、村に戻ることができた。
だが、養蚕小屋の主人は明確にアンヘルを拒絶した。主人はアンヘルを一瞥したが、何も言わずに戸板を閉めた。その音が乾いていて、言葉よりも強かった。鼻に馴染んだはずの桑の葉の匂いも、カイコの甘い匂いも、門の外からは遠かった。アンヘルは何も言うことができなかった。
頭痛。
———大丈夫よ(be all right)。
母の声が内側で弾けた。
———悪魔憑きだ。
医者の低い声が、耳の奥で擦れた。
アンヘルは村の近辺を徘徊しながら、村の様子を遠巻きにじっと眺めた。村は夏至の祭りに備えて活気づいていた。乾いた笑い声が風に混じり、木槌で何かを打つ音が断続的に響いた。香草を揉む匂い、炭の匂い、煮込みの脂の匂い。そのすべてが、アンヘルの立つ場所まで届く前に薄まって消えた。祭りの色だけが、遠くで眩しかった。
アンヘルは森の中を漂流し、食べられそうな野草や木の実を探した。
アンヘルは、しばらく村の境界に立ち尽くしていた。
背後には、森の湿った闇があり、目の前には人の暮らしとその匂いがある。
村の中からは、笑い声が聞こえた。木皿が触れ合う乾いた音、子供の甲高い声、鍋をかき混ぜる木杓子の音。それらは、かつてアンヘルが毎日聞いていたはずの音だった。だが今は、遠くの出来事のようだった。
アンヘルは、ゆっくりと踵を返した。
足裏に伝わる土の感触が、村のものとは違っていた。
土は柔らかく、湿り、踏み込むたびに沈む。
森は、何も問わない。額の刺青を見て、戸を閉めることもない。
名を尋ねることも、過去を知ろうともしない。
そのかわり、森にはなにもない。火も、屋根も、寝床も、言葉も。人のぬくもりもない。
アンヘルは、自分の影が次第に薄れていくのを感じた。村で「ペロ」と呼ばれていた存在すら、ここでは意味を持たない。アンヘルは自分がただの、肉と呼吸の塊になってしまったような気がした。
それでも、歩いた。
歩かなければ、生きられないからだ。
指先の欠けた左手で、幹に触れる。
震える右手で、枝を払う。
そうする瞬間だけ、自分がまだ生きていることが分かる。
アンヘルは森の奥へと踏み込んでいった。
指先が以前よりずっと不器用になっていた。草をちぎる動作だけで、汗が滲むことがあった。ヨモギ草を口に含むと、すこし土の味がした。それから苦みがあり、かすかな甘みが舌の奥に残った。
アンヘルは森の中にいくつも括り罠を仕掛けた。頑丈な樹の枝とロープを用いて動物の足を捕らえる仕掛けだ。縄は樹皮の匂いを吸い、湿り気を帯びて手のひらにざらついた。結び目を締めるたび、右手の指が痛んだ。括り罠は太い縄紐で獲物を空中方向に吊り上げるので、大型動物でさえ身動きができなくなる。優れた、伝統的な罠だった。そうしてアンヘルは、シロオジカや野生化したヤギを捕らえた。血を抜き、皮を剥ぎ、黙って食べた。
そうした日々が一カ月続いた。
そのあいだ、アンヘルは一度も人の声を聞かなかった。自分の足音、葉を踏みしめる音、獲物が暴れる音、風が枝を揺らす音。それだけが世界だった。
言葉は、内側で摩耗していった。名を呼ばれない日が続くと、自分の名すら曖昧になる。
アンヘルは、ときどき声を出してみた。だが、その音は森に吸い込まれ、返ってこなかった。
それでも、心臓は打ち続けていた。
息は続き、手は獲物を捌き、肉を噛めば歯の感覚がある。
生きている。その事実だけは確かだった。
そうしたある日、罠にかかったのは普通の動物ではなかった。小型肉食竜だった。
竜は、まったく無駄な動きをしなかった。硬質で規則正しい呼吸を繰り返していたが、その呼吸には興奮や怒りの荒々しさがなかった。ただ、力強く呼吸して存在しているだけだった。
そこは木々の樹冠が日光を遮る薄暗い場所で、湿った葉の匂いが濃い。竜は罠に後ろ趾を捕られ、逆さ吊りの状態で地面をじっと見ていた。唾液が落ちるたび、土に小さな濡れ跡が増えた。
その竜はオオカミほどの体格で、獣脚の後ろ趾を備えていた。
その竜は物を掴むための前趾を備えていた。
その竜は肉体と同じだけの長さの尾をしならせていた。
規則的に動く腹の動きがあった。
赤銅色で艶をもつ鱗がわずかに波打っていた。
琥珀色で大きな両眼があった。
頭部全体が硬質化した鱗に覆われていた。
はっきりとした鶏冠が隆起していた。
鋭く硬い嘴があった。
嘴の先端から地面に向けて唾液が垂れ、そこにはたくさんの血液が混じっていた。鉄錆の匂いが、湿った森の匂いを押しのけて鼻に刺さった。
アンヘルは、じっとそれを見ていた。
心臓の鼓動が、自分の耳の内側で大きい。だが竜は静かだった。静かすぎた。
アンヘルは咆撃に注意しつつ、黒曜石の刃を持つ槍を構えた。柄を握る掌が汗で滑り、指の欠けた左手が頼りなく添えるだけになった。
小型竜に向かって槍を突き出した。
槍は竜の鱗を貫き、肉の深い部分に呑みこまれた。刃が入った瞬間、骨に当たるような硬い感触が手首に返ってきた。
竜は声ひとつ上げなかった。
再び槍を突き出す。
それから何度も、槍で小型竜を貫いた。血が流れ、葉に落ち、土に染みていった。だが竜は生きていた。だからアンヘルは、竜が行動不能に陥る瞬間を待つことにした。
竜は普通の動物とはまったく違っていた。命が尽きる気配がない。琥珀色の両眼はずっと綺麗なままで、その目がアンヘルを凝視していた。呼吸は深く規則的だった。竜は大量の血液を失っている。それなのに、絶命の兆候を示さなかった。血の匂いだけが濃くなっていく。
アンヘルは思い切った行動に出た。竜に接近し、その首筋をつかんだ。縄で吊られた体がわずかに揺れ、鱗が擦れる乾いた音がした。アンヘルは黒曜石のナイフを圧し当て、竜の首筋をすっと鋭く切り裂いた。
竜の首筋からわずかに血液が零れた。だが竜の血は絶えなかった。半日以上、竜は逆さ吊りになって絶命しなかった。槍で貫かれても絶命せず、ナイフで血の管を切られても絶命しない。竜はまさに不死身だった。竜は絶え間なく体内で血を作り続け、その心臓は力強く脈動を続けていた。森の静けさの中で、竜の心臓音がアンヘルの鼓膜に響いた。
竜が奇妙な動作をした。
竜はアンヘルに向けて首をかしげるような動きをした。まるで、観察しているように。
それから嘔吐するように嘴を開き——、
咆撃だ。
想定していたから、アンヘルの行動は素早かった。巨木の幹に身を潜めた瞬間、空気を裂く衝撃音が響いた。爆ぜるような圧が肌を叩き、耳が一瞬、真っ白になった。葉が裏返り、枝が折れ、地面の落ち葉が舞い上がった。
アンヘルが身を起こして、竜の様子を確認した。
竜も無事ではなかった。
竜は逆さ吊りの状態で死の吐息を放ち、瞬間、反対方向に吹き飛んでいた。その衝撃は烈しく、括り縄の絡みつく竜の右後ろ趾を引きちぎって、竜の肉体を吹き飛ばすほどだった。縄が弾け、木が軋み、どこかで乾いた破裂音がした。
竜の肉体は逆さ吊りから解放され、同時に右後ろ趾を失っていた。木の根が隆起する地面に二度叩きつけられ、竜は全身をうねらせた。土が跳ね、血が散り、湿った匂いに鉄が混じる。
烈しい頭痛。アンヘルの全身は痙攣していた。幻聴。あらゆる妄言が聞こえた。地面に膝をついているはずなのに、体重の感覚が失われていた。
大丈夫よ。正常なのよ。正常、正常、正常、正常。
竜は、力強く全身の筋肉を隆起させ、片脚で立ち上がろうとしていた。アンヘルは石を両手でもち、背後から竜に襲い掛かった。竜にまたがるような姿勢で竜を体重で抑えこみ、竜の頭部に何度も石を打ち当てた。何度も石を竜の頭部に振り下ろした。眼球が飛び出て千切れていた。嘴が砕けていた。突き出した舌が伸びきっていた。
逆鱗がある限り、竜は何度でも復活する。アンヘルは損壊した竜の頭部と胴体を切断し、胴体に手で触れた。どこに逆鱗があるのか、分からない。
幻覚。視界にあり得ない人影が写り込んでいた。
アンヘルは両腕で小型竜の死骸を抱きかかえ、竜人の里へ向かった。




