第30話 漂流
ノエルは、ただ真っすぐ南へ歩いた。
それは強迫観念ではなかった。吹き抜ける風や、谷を下る水の流れのように、ただ導かれるままの歩みだった。草を踏む靴底の感触は軽く、背負った荷の重ささえ、今日はどこか遠い。朝露の匂いが鼻をくすぐり、冷えた空気が肺の奥まで染み込んでくる。
——お前は大丈夫だ。
クルス老の声が、胸の奥でまだ温もりを保っていた。
ノエルは歩きながら、詩編を紡いでいた。
胸の奥に溜まっていた何かが、歩調とともにほどけていく。視界が、これまでよりも広く感じられる。
人生はこんなにも自由なのか。それを初めて知ったような感覚があった。
ノエルの知る世界は、戦争に向かっていた。だがそれは、時代という大きな流れの、ほんの一切れに過ぎない。そんな理解が、胸の奥で静かに芽吹いていた。
いつの間にか、人里に辿り着いていた。焚き火の煙が甘く漂い、煮炊きの匂いが腹を刺激する。軒先で遊ぶ子どもたちが、手を止めてノエルを見つめた。視線に気づき、ノエルは軽く笑みを浮かべてみせた。子どもたちは一瞬たじろぎ、それから照れたように笑った。
道を進むと、老人と目が合った。
「こんにちは」
「……あんた、何者だね」
乾いた声だった。
ノエルは肩の力を抜き、穏やかに応えた。
「狩人かな。一人で生活したいんだ。どう思う」
逆に問いかけられ、老人は眉をひそめ、なにかを小さく呟きながら背を向けた。
人里では、さまざまな人とすれ違った。
干した布を抱える若い兄妹。仲間に囲まれた長老らしき人々。土埃にまみれた作業服の娘たち。親切そうな顔つきの婦人。
足音、笑い声、鍬のぶつかる金属音。暮らしの音が、空気に満ちていた。
里の果てに辿り着いたとき、天上はすでに月夜に変わっていた。冷えた夜気が肌を撫で、遠くで犬が吠える声が響く。
目を閉じていると、剣を帯びた青年たちが迫ってきた。
革靴が地面を踏み鳴らす音。金属のこすれる乾いた響き。
「あんた何者だ。何しにきた」
声には、はっきりとした殺気があった。
ノエルはわざと背伸びをし、凝りをほぐすように首を回してから立ち上がった。
「流れの狩人だ。里に迷惑はかけないよ」
だが、その言葉は届いていないようだった。
「出てけ」
的外れな怒声が飛ぶ。
ノエルはわざと肩をすくめた。
「話を聞けよ。明日には里を出る。それでいいだろ」
瞬間。
青年の一人が剣を振り上げた。動きは粗く、遅い。
ノエルは踏み込み、掌底で青年の顔を打った。
骨に当たる鈍い感触と、湿った音。青年の身体が弾かれ、地面に転がる。
反射的に伸ばした手が、鼻を砕いてしまったらしい。
ノエルは手に残る軟骨の感触を確かめ、青年たちに声を投げた。
「落ち着けよ。僕は明日には出ていく。話を聞けって」
別の青年が剣を抜きかけた。
その瞬間、ノエルは足元の石を拾い、手首に向けて投げた。乾いた衝撃音。青年の動きが止まり、呻き声が漏れた。
ノエルは、ついに大きな声を上げた。
「わかったよ。移動するよ」
「待ってくれ。本当にただの狩人なのか」
切迫した声だった。
「そうだ」
「頼みがあるんだ」
青年の必死さに、ノエルは思わず目を瞬いた。
「……どういうことだ」
青年たちは、事情を語り始めた。
彼らの悩みは簡潔だった。
革命軍崩れの連中が山賊となり、この周囲で強盗や強奪を繰り返している。何とかしたい——ただ、それだけだった。
ノエルは首を横に振った。
「悪いけど、無理だよ。僕は人なんて殺せない。無理だ」
青年は必死に手を振る。
「頼む、あんたの腕なら」
その声に覆いかぶせるように、ノエルは叫んだ。
「違う。そうじゃない。無理なんだ。僕は、人殺しなんてできない」
沈黙が場を満たした。
夜気が冷え込み、遠くの虫の声だけが響く。青年たちの間に、失望の色が広がっていくのが、肌でわかった。
ノエルは小さく、喉を鳴らすように言った。
「すまない。僕は里から離れて暮らすつもりだ。迷惑をかける気はない。言わずもがなだけど、傭兵たちを…雇うべきだと思うよ。」
ノエルはそう言って、その場をあとにした。
翌日、ノエルは里山を巡って植物や地形を確かめた。バナナがありパパイヤの樹があり、グアバやベリーが繁っている。豊かな里山だった。昆虫を捕えて炙り、少しずつ齧る。滋養分を腹に落とし込み、満足して眠った。
急に目が覚めた。里の方から濃い煙の臭いがした。炭焼きよりももっと雑多な藁や生き物の焼ける臭いが混じっている。
それは、かつて村で嗅いだことのある臭いだった。壊される弱者の臭いだった。
その瞬間。ひどい事実に気が付いた。
「死というのはむかつく。」
ノエルは独り呟いていた。
下山した瞬間、腹を撃たれた女性を見つけた。女性はわき腹を抑えていた。血が傷口から流れていた。顔は泥の中に沈み、その全身にハエがたかっていた。まだ娘と言っていい年齢だった。髪は艶のある黒髪だった。
ノエルはナイフを使って彼女の衣服を裂き、その傷口に当てた。
遠くで声がした。
「まずったな。美人だぜ。ジジイを撃てばよかった。」
そう言いながら三人の男が近づこうとしていた。選択の余地がなかった。一人の男がノエルに照準を合わせるのと、ノエルが飛び跳ねるのは同時だった。発射された弾丸が空気を裂いた。ノエルは藪の中を移動し、そして飛び出して男たちの一人に飛びかかっていた。ノエルの魔剣は銃を切断し、男の肉体までも切断していた。返す刃で距離を取ろうとした男の首を斬り飛ばしていた。最後の男は逃げようとしたが、その後ろ姿にノエルは剣を叩きつけた。刃は頭部に沈んでいた。
殺人、という気持ちは沸いてこなかった。どうしようもない、という諦めだけがあった。
娘が呻いて泣いていた。
ノエルは娘の傍らに座り、燃えて朽ちていく村の様子を見下ろしていた。
山賊と思しき連中が去るまで、ノエルはその場を動かなかった。夜気は冷え、焼け残った家屋からは灰の匂いが立ちのぼっていた。
夜の間、ノエルは娘に水を舐めさせ、布を絞って額に当てることをした。それ以上のことは、何もできなかった。
水が喉を伝うたび、娘の喉がかすかに鳴る。呼吸は浅く、胸が震えていた。
やがて、彼女の瞼がわずかに持ち上がった。意識が戻り始めたらしい。
娘は脇腹を押さえ、祈るように身体を丸めたまま、燃え残る村の方を見つめていた。
村は赤く燻る家々の輪郭だけが残っていた。
「みんな、燃えてしまったのね。」
声は乾いていて、風に消えそうだった。
「そうだね」
ノエルの声も、煙に溶けるように低かった。
「家に戻りたい。肩を、借りていいかな」
「ああ。いいよ」
ノエルはゆっくりと彼女を支え、二人で村へ入った。
踏み込むたび、灰が靴底で鳴った。
焦げた木材の匂い、焼け残った布の臭気。
あちこちに遺体が横たわり、夜露に濡れた肌が月光を鈍く反射している。
道には壊れた皿や椀が散らばり、陶片が靴に当たって乾いた音を立てた。
家という家は戸が叩き割られていた。梁が折れ、内部が完全に崩壊した家もあった。
娘に肩を貸しながら、ノエルは中を覗いた。
鍋は踏み潰され、寝具は引き裂かれ、床には穀物や衣類が泥と血にまみれて散乱している。
どの家も、足の踏み場もないほど荒らされていた。
娘の家も、ひどく荒らされていた。
中には、だれもいなかった。
娘はその場に立ち尽くし、喉の奥で何かを詰まらせるような音を立てた。
えずき、肩を震わせ、それから声を上げて泣き始めた。
泣き声は瓦礫に反響し、焼け跡の夜に空虚に広がっていった。
ノエルは、娘から少し離れ、崩れかけた壁にもたれて腰を下ろした。
近くで、猫が腐りかけた干し魚を噛んでいた。
ふと、ノエルは気が付いた。このまま去れば、この村は再び襲われることだろう。
そのとき、自分は耳をふさぎ、目を閉じて何もしないでいられるだろうか。
山賊が人々からすべてを奪い、命を踏みにじるその瞬間、
あの耐えがたい破壊の臭いに、耐えられるだろうか。
——無理だ。
絶望的な気持ちで、ノエルは自分の弱さを認めていた。




