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第29話 継承5

ノエルはクルス老人から多くの事を学んだ。

養蚕、罠猟、詩編。

桑の葉の青い匂い、蚕が葉を噛む微かな音、石室にこもる湿り気を帯びた空気。糸を紡ぐ季節になると、小屋の中には甘い繭の香りが満ち、壁に掛けられた籠が白く浮かび上がった。


クルス老が口ずさむ詩編が、ノエルは好きだった。

囲炉裏の火がぱちりと弾け、灰の匂いが立ちのぼる夕暮れ、老人の低い声は、煙とともに天井へ溶けていった。

 

——運命は人を選び取る

 高い魂は高い道を

 低い魂は低い道を


 高潔な魂よ 聖なる蒼空を見たか

 暗黒の魂よ 地獄の深淵を見たか

 奇蹟にも似た

 強く美しい旅の終わりに


 どちらにもなれない私は

 運命の指先からこぼれ落ちて

 ぼんやりとした平らな土地に 

 ちりとなって乾いていく


 そのように魂が降り積み 

 土に還る場所があるという

 届かなかった歌が響き

 風として巡る場所があるという


 そうして生命が溢れていく

 高い尾根に高い木々が

 低い渓谷に低い繁みが


 凡庸の私よ 芽吹く命を見たか

 凡庸の私よ 育つ命を見たか

 いびつに歪んだ

 価値なくさまよう旅の終わりに


 運命が人を選び取る

 高い魂は高い道を

 低い魂は低い道を


 やがて新しい子供たちの

 運命に満ちた旅が始まる

 ぼんやりとした平らな土地に

 幻想と真理が溢れていく


 どちらにもなれない君は

 運命の指先から零れ落ちて

 それでも降り積む塵を散らし

 剣を手に取り歩いていく


 そのように物語が始まり

 集う場所があるという

 祝福する歌が響き

 風として巡る場所があるという


 そうして生命が溢れていく

 高い尾根に高い木々が

 低い渓谷に低い繁みが


 凡庸の君よ うるおう井戸を見たか

 凡庸の君よ そよぐ麦畑を見たか

 終わらぬ日常

 朽ちない生存衝動の果てに


 求める安らぎの場所

 君の安らぎを祈っている

 私の魂が作り君に与えた

 この豊かな土と風の中で


「この詩編の続きを完成させたいものだ。」

煤に汚れた指で桑の枝を整えながら、クルス老はそう言った。その声には、長い年月を越えてなお残る、かすかな希望が滲んでいた。


ノエルはもともと戦争なんてしたくなかった。

圧政さえなければ、ノエルはただの農民でいられた。


だが村は圧政に苦しんでいた。時代はノエルに選択肢を用意してくれなかった。広場では、いつも乾いた土の匂いとともに、怒号や演説が飛び交っていた。二人の叔父や多くの隣人たちが独立のために戦っていた。そして愛郷的な革命家は伝統的な力をもっていた。その一部は伝説的な英雄や聖女であり、二つ名で呼ばれていた。


双槌の姉妹。

特大剣の聖者。


ノエルは彼らが体制側の軍隊を壊滅させた話を聞いて育った。炎の揺れが壁に影を踊らせ、その影がまるで英雄たちの姿のように見えた夜もあった。


ノエルは洗脳されて生きてきた。

里を救うことが男子たる者の最高の義務であり、最高の名誉なのだ、と。

圧政。弾圧。異論が入り込む余地など、最初からなかった。


しかし実を言えば、ノエルは怖くもあった。ノエルは戦士ではなかった。華奢で、読書を好んだ。紙の匂いと、指先に残るインクの感触が好きだった。いつかどこかの学院に入り、国語の教師になりたいと本気で思っていた。自分が剣を振るい、血と土にまみれる姿を、どうしても思い描けなかった。


父や、叔父や、英雄や聖女たちがやったことを、自分がまねできるとは思えなかった。


クルス老人はノエルを剣術の遊びに誘った。

竹刀は軽く、手に取るとしなやかにたわんだ。乾いた竹の感触が掌に心地よい。怪我の心配はないとのことだった。


クルス老人の剣術は、まさに変幻自在だった。

足音が土を打ち、衣が風を切る音が耳を掠める。ノエルの剣は、空を切るばかりで、老人の影にすら届かなかった。


圧政が自然と収まることを願った。

それも、なるべく早くそうなることを願っていた。

夜、藁布団に潜り込むと、外で鳴く虫の声を聞きながら、ノエルはいつも願った。夢の中でさえ、ノエルは願っていた。


クルス老人から剣術を学ぶうちに、だんだんと目が慣れてきた。

老人の踏み込み、肩の揺れ、呼吸の間。打ち込むことは出来なくても、その動きを追うことは出来るようになっていた。


ノエルは戦争なんかに行きたくなかった。

自分が醜態をさらすことを恐れた。喧嘩をすることを好まない人間が、どうして戦争で活躍できるというのだろう。


それでも父や叔父たちの前では、

「戦争で活躍し、名誉を得る日を願っています」

と口にした。その言葉は、喉の奥でいつも砂のようにざらついた。

夜になると、ノエルは母親と共に、ひそやかに戦争の終結を祈っていた。蝋燭の火が揺れ、影だけが壁を歩いていた。


クルス老人と剣を合わせられる時間が長くなった。

飛び跳ね、体を捻じり、切りつける。息が白くなり、汗が背中を伝う。時には老人の動きを、ほんの一瞬、なぞれることさえあった。

老人から習った詩編を、ノエルは口ずさむ。


「求める安らぎの場所。」

「君の安らぎを祈っている。」


偶然かもしれない。

ノエルの竹刀が、クルス老の服の袖を、ぱしりとはたいた。乾いた音が空気を震わせた。それは勝利ではなかった。

——届いた。

その感覚を、ノエルは確かに捕えていた。


クルス老は無学な男ではなかった。

行商人から情報を仕入れ、常に油断なく政治の状況に気を配っていた。クルス老が養蚕にいそしむ間、ノエルは罠を仕掛け、薪を割って一日を過ごした。斧が木に食い込む鈍い音、樹脂の匂い、掌に残る震え。ノエルはクルス老のもとで、剣とは異なる「生きる手応え」を感じて過ごしていた。


養蚕小屋で過ごした最後の一日、クルス老は真剣勝負をしよう、と言った。

ノエルは別にしたいとは思わなかったが、クルス老人の視線は、これまでになく鋭かった。


試合が始まるその瞬間、クルス老は刺突を放ってきた。

風を切る音。ノエルはそれをかわし、左から剣を打ち込んだ。クルス老はそれを竹刀で受け、左右から二連撃を放ってきた。

今度はノエルが竹刀で攻撃をしのぎ、下がろうとしたクルス老に素早く刺突を放った。

クルス老はそれを逸らし、前に踏み込んで縦横無尽に斬撃を打ち込んでくる。


息が荒くなり、胸が焼ける。

伸縮自在に間合いをとる老人に舌を巻きつつ、ノエルは距離をとって防戦に徹した。

そしてクルス老の息が上がった、その瞬間。

ノエルは、老人に刺突を打ち込んでいた。


「やれやれ。」


老人は額の汗を拭った。その指先には、蚕の世話で染みついた白い粉が残っていた。


「お前は、強い剣士になるぞ。」


そう言って、老人は養蚕に使っている石室から、一組の剣と盾を取り出した。

鉄の冷たさ。革の匂い。

剣の状態を確かめてから、老人はそれらをノエルに差し出した。


「それはないよ」

「とっておけ。お前はもう、大丈夫だ。」


そう言って、クルス老はふたたび養蚕の作業に戻っていった。

桑の葉を広げる音が、静かな小屋に戻る。


「ありがとう」


ノエルは、かすれた声で呟いた。

それが、二人の別れの挨拶だった。




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