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第27話 飢饉2

 里山は薄暗く、そして寒かった。雨を吸い込んだ腐葉土は踏みしめるたびにぬちりと音を立て、靴底から冷えが這い上がってくる。苔と樹皮の匂いが重く垂れこめ、霧を含んだ空気が肺の奥に絡みついた。鳥の声はなく、あるのは遠くで滴る水音と、自分の呼吸だけだった。


 自分を囮にして、竜を狩る。


 クルスが用いた戦法は最も典型的な竜狩りだった。


 ただひたすらに竜の足跡を追う。

 湿った土に刻まれた爪痕を辿る。

 遠くで枝が折れる音を拾う。

 樹皮に擦りつけられた、なわばりを示す竜鱗を確かめる。


 三日目、腐臭と鉄の匂いが混じる場所に辿り着いた。

 竜の排泄物だった。まだ温もりが残っている。


 それを調べようと、膝を折った瞬間――


 闇が動いた。


 巨人のような頭部が、霧の奥から浮かび上がった。その背後に、樹木を超える巨躯が続く。湿った鱗が鈍く光り、口の奥で熱い息が鳴った。


 中型竜は嘴を突き出し、幾度もクルスを捕えようとした。

 空気が裂け、腐葉土が舞い上がる。


 クルスも何度も刃を振るった。

 金属が鱗を打つ乾いた音。

 竜は反射神経だけで、クルスの攻撃をかわしていく


 クルスは無我夢中で刃を振るい、瞬間、中型竜が尾を振るった。


 竜は圧倒的な質量と速度で尾を振り回し、クルスはそれでも大樹を盾にして中型竜に接近し、竜は身をくねらせて再び巨大な尾を振り回した。大樹を幾本もへし折り、それでもクルスは生きて竜と対峙していた。


 瞬間、中型竜は咆撃を吐き、クルスは盾でそれを受け止めた。体勢が崩れる、その瞬間に圧し潰すように中型竜が跳ね、クルスは地面を蹴り跳ねて竜の攻撃をかわしていた。


 竜が跳ね飛んで体勢を崩した竜に対し、今度はクルスが魔剣を叩き込んでいた。頭部に魔剣の刃が沈む。その瞬間、嘴から頭蓋骨まで裂けた竜が、咆撃を放った。盾で受け止めることもできなかった。


 咆撃によって沈み込んだクルスに、竜は牙を剥き、瞬間、クルスは飛び跳ねて魔剣を中型竜に突き出した。剣は再び頭部を貫き、竜は脳漿のうしょうをまき散らしながら吼えた。クルスは剣を捻じって引き抜き、竜は地面に伏せて蛇のようにうねり、うねり狂っていた。クルスは満身創痍のまま、暴れる竜の肉体の脊椎に剣を振り下ろした。



 クルスは自分の防具に触れた。カイルがマスターに預けていた鎧。それがクルスを救っていた。クルスは疲れ切ったまま、竜の頭部を切断し、手足を切断した。竜の逆鱗は、その背びれに隠れていた。のろしを上げる。それによって村人たちが応援に来てくれる手はずだった。


 里の竜人たちが集まり、全員で中型竜の巨体を引きずって歩いた。

 血に濡れた鱗が地面を擦り、湿った土と腐葉が粘つく音を立てる。誰も声を上げなかった。ただ、荒い呼吸と、縄が軋む音だけが森に残った。


「重いな。」


 誰かが絞り出すように呟いた。

 それでも歩みは止まらない。痩せ細った腕、震える脚、それらが互いを支え合うように動いていた。腹の奥が空洞のように鳴っている。だれもが自分にまだ力が残っていたのか、と驚いた声を上げた。


 里に戻り、火を熾す。湿った薪は白い煙を吐き、鼻と喉を刺す。だがやがて炎が安定すると、肉の表面がじゅっと音を立て、脂が滴り落ちた。焦げる匂いが、雨に沈んでいた空気を塗り替えていく。


 可食部分を少しずつ削り、串に刺し、炙る。

 肉は淡く、筋が多く、歯に絡みついた。だが、噛むたびに体の奥へ熱が落ちていく。

 舌に広がるのは、鉄のような生臭さと、かすかな甘み。


 竜を食する間、誰も言葉を発さなかった。

 ただ、焚き火の爆ぜる音と、咀嚼の音だけがあった。


 数日ぶりの滋養分だった。

 胃に落ちた瞬間、内臓がゆっくりと目を覚ますのがわかる。指先に、ほんのわずかだが、力が戻ってくる。


 もし、この竜の肉に毒性がなければ。

 もし、何の代償もなく食べ続けられるのなら。

 飢饉は、ここで終わっていただろう。


 だが、誰もが知っていた。

 この肉は、命を繋ぐ代わりに、別の死を呼び込む。


 竜の肉は毒を含んでいる。

 食べ続ければ、確実に体内に蓄積し、いずれ臓腑を蝕む。


 四週間。

 それ以上は、踏み込んではならない。それが皆で決めたルールだった。


 クルスは焚き火の向こうで、皆が肉を噛みしめる様子を見つめていた。

 炎に照らされた顔は、どれも削げ落ち、頬骨が浮き、影が深く刻まれていた。串に刺された竜肉が、火の上でじゅっと音を立て、淡い脂が滴り落ちる。その匂いは、鉄と獣と雨に濡れた土が混じったような、重く、逃げ場のない匂いだった。


 三日目。

 指先の痺れに気づいたのは、朝の作業の最中だった。縄を結ぼうとした指が、思うように動かない。

「寒いだけだ」

 誰かが笑った。その笑いは乾いていて、すぐに咳に変わった。誰も深く追及しなかった。


 七日目。

 子供の一人が、夜半に吐いた。囲炉裏の灰に落ちたそれは、黒く、酸っぱい匂いを放った。

「食べ過ぎただけだ」

 老人はそう言ったが、椀を持つ手が微かに震えていた。誰も、その子の背に手を伸ばさなかった。


 十四日目。

 肉の匂いを嗅ぐだけで、喉の奥が粘つくようになった。唾が苦く、舌が重い。

 それでも、誰も箸を置かなかった。

 火の前に座り、黙って串を回し、焼けた肉を引き裂き、歯でちぎる。

 咀嚼の音が、焚き火の爆ぜる音と混じり、夜を満たした。


 クルス自身も、変調をきたしていた。


 夜、彼は誰にも見られぬよう外に出て、濡れた木の根元に膝をついた。

 胃が痙攣し、喉の奥から黒い胆汁のようなものがせり上がる。口の中に広がる苦味と鉄の味に、視界が一瞬白く弾けた。雨に濡れた土に手をつき、荒い息を吐く。森は何事もなかったかのように、虫の声を返してくる。


 それでも、翌朝になれば彼は焚き火の前に座り、皆と同じように肉を噛んだ。

 歯が繊維を断ち、舌に淡い甘みと生臭さが広がる。

 大丈夫な振りをせねばならない。

 それもクルスの“役割”だった。


 十五日目。全員が明らかに不調に陥っていた。歯ぐきから出血が止まらず、喉から血が湧きあがる。血尿がでても、だれも気にしなくなっていた。


 二十日目。犠牲者が出始めた。仰向けになり、天を睨みつけていた。壮絶な死だった。


 二十二日目。マスターが、倒れた。クルスは何度もマスターを呼び起こそうとした。そのたびに全身に悪寒が走り、汗がだらだらと出始める。毒の肉に全身が蝕まれていた。


 そうして、寿命を削り、同胞を失いながら毒の肉を喰らい続けた。


 そのようにして四週間が過ぎた。


 自身の命を削って、カイル達は養蚕で得た熟蚕を手に入れることができた。


 炙った熟蚕はこってりとしていて、すこし柔らかいナッツのような味がした。


 ミルクのような匂いがある。


 食べるたびに滋養分が体を巡る。


 クルスはようやく、本来の意味で食料を調達することが出来た。


 自分の役目を果たすことが出来た。


 子供たちがカイコをかじり、「これおいしい」と呟いた。


 クルスは、「そうだな」と答えるのが精いっぱいだった。





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