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第26話 飢饉

 雨季の始まりは、いつもと同じように訪れた。海から吹き上げる湿った風が山にぶつかり、雲は厚みを増し、午後には必ず白い雨が落ちてくる。畑のキャッサバは葉を伸ばし、豆は蔓を絡め、川は澄んだ水をたたえる。人々は「今年は豊作だ」と口にする。


 だが、その年の雨は、止まなかった。


 最初の異変は、音だった。屋根を叩く雨音が、三日、五日、十日と途切れない。土が黒く膨れる。畑は水を含んで重く沈む。苗は根を張れず、葉は黄ばみ、やがて腐った匂いを放ちはじめる。


 川は濁り、魚が姿を消した。


 雨は、段階的に、人の力を削いでいった。


 納屋に積まれた穀袋は、触れれば指が沈むほど水を含み、穀粒は白い黴に覆われる。乾かそうと焚き火を起こしても、薪そのものが湿って煙を吐くだけだった。干し肉は酸味を帯び、果実は枝の上で割れて落ちる。


 それでも竜人の人々は楽観的だった。

「もうすぐ止む」「例年より少し長いだけだ」

 そう言い合いながら、蓄えを切り崩す。

 椀の底は浅くなり、肉は細く刻まれる。

 子供の皿から先に食料が消えていく。


 やがて、音が変わり始めた。

 雨の音に混じって、腹の鳴る音が聞こえるようになる。

 夜、囲炉裏の火が小さくなり、会話は途切れがちになる。

 誰かが咳をすれば、別の誰かが黙って視線を逸らす。


 森は、なおも濃く息づいている。

 だが、実をつける木は減り、根菜は腐り、獣の足跡も遠のく。

 原生林は豊穣であるはずなのに、その奥へ踏み込む力が、人々から失われていく。


 雨は夏の間。一切容赦なく降り続いていた。


 人々は山郷で葛の根を削り、糠や藁や豆殻も食べた。樹皮を粉にして食べ、雑草で飢えをしのいだ。


 それでも、足りなかった。


 もう完全に飢饉だった。


 そうしたときに、クルスが村に戻ってきた。


「遅くなってすまない。」


 そう言って、クルスは全員に野生カイコの粥を振舞った。


 粥の椀が配られると、まず匂いが立った。雨に濡れた里に満ちていた黴と土の匂いの底から、かすかに甘く、香ばしい香りが立ちのぼる。焦がした木の実に似た匂いだった。


 子供が恐る恐る匙を入れ、口に運ぶ。舌に触れた瞬間、その目が見開かれた。


「あったかい。」


 それだけで、周囲の大人たちの喉が鳴った。カイルも一口、カイコの粥に口をつけた。

 粥の中には、細かく刻まれた白い身が沈んでいる。野生カイコの肉だ。煮込まれて繊維はほどけ、噛めばほろりと崩れる。脂はほとんどなく、代わりに淡い甘みと、森の草を思わせる青い後味が残った。


 誰も言葉を発さなかった。ただ、椀を抱く手が、わずかに震えていた。


 肉だった。確かに、生き物の命だった。


 子供の一人が、ぽつりと呟いた。


「生きてる、って感じがする」


 その言葉に、クルスは何も返さなかった。

 暖炉の火が静かに鳴り、湯気が天井へと溶けていく。


 雨の音に覆われていた里に、久しぶりに、

「食べる」という営みの音が戻ってきていた。


 宿屋のマスターはゆっくりと匙を運び、目を閉じた。歯が弱くなった口でも、きちんと食べることが出来たようだ。クルスは老人の様子を眺めた。老人が胃に落ちていく熱で、冷え切った内臓を温める、その様子がきちんと確認できた。


 そうして粥が尽きた時に、クルスは全員を見渡した。


「みんな聞いてくれ。」


「これから少しずつ野生カイコの肉や木の実を持ってくる。密告があり得るから、どこから食料を持ってくるかは言えない。だけど約束する。誰も死なせない。」


 クルスは言葉を重ねた。


「誰も死なせないよ。」


 クルスの言葉に、全員が同意する気配があった。




 クルスが原生林で野生カイコたちを見つけたのは、本当に幸運以外の何物でもなかった。苔に覆われた岩陰で、白い蠢きが静かに苔を削っていたのだ。


 砂金の大粒を見つけたように、クルスは両手でカイコを包みこんで、隠れ拠点に帰還した。


 隠れ拠点は、原生林の中でクルスが作った地味な石室だった。基本的に石積みで、内面には漆喰を塗っている。雨漏りも無い。数カ月で作った割に、石室は良い性能を発揮してくれた。


 クルスはカイコのために室内に網を張った。その網の上に拾い集めた苔を敷いた。それが最も原始的なカイコの飼育法だった。炭を使って冷えた室内の温度を上げ、病気のカイコがいないか確認する。カイコたちは貪欲に苔をむしり食べていた。


 本来なら部屋を分けて飼育するべきだが、施設はまだ一つしかない。

 ひとつ咳き込むように身をよじる個体がいるたび、胸が締めつけられた。

 伝染病の不安に怯えながら、クルスは炭を足し、苔を替え、夜ごと数を数えた。

 カイコたちの小さな顎は、音もなく苔を削り続けていた。


 一齢幼虫が二齢幼虫になるまで三日。

 二齢幼虫が三齢幼虫になるまで三日。

 三齢幼虫が四齢幼虫になるまで三日。

 四齢幼虫が五齢幼虫になるまで三日。

 五齢幼虫が熟蚕じゅくさんになるまで六日。

 繭を作り終えるまで六日。

 繭から成虫が出てくるまで二週間。

 成虫が交尾し卵が孵化するまで二週間。


 四十八日間で最初のサイクルが終わり、ようやく最初の熟蚕を食べられるまで十八日間が必要になる。合計六十六日間。すでにカイコたちは繭を張る熟蚕の段階まで来ていたが、あと十八日間で卵が産まれ、その卵が熟蚕になるまで十二日間かかる。


 都合、三十日間。


 三十日間。いずれ役人が来る。村の食糧は全て薙ぐように奪われていくだろう。


 どうすればいい。


 それから三日後、ついに雨が止んだ。


 クルスはナッツを詰めたかめの一つを抱え、様子を見るために下山することにした。


 村の様子は散々たるものだった。


 竜人たちの集めたとちならの実を藁袋に集めて貯蔵していた。


 騎士官たちは嵐のように現れ、竜人たちの最後の食糧を奪い去っていった。


 村の養蚕小屋では長雨によって葉の発酵がうまくいかず、カイコたちが全滅していた。




 どうすればいい。宿屋に集まった全員の眼が、火の揺らぎ越しにクルスへと集まっていた。囲炉裏の炭は赤く脈打ち、湿った木の匂いと、人の体から立ちのぼる衰弱の匂いが混じり合う。誰かの喉が鳴る音が、やけに大きく響いた。


 どうすればいい。痩せ細った指が椀の縁を掴み、乾いた唇がわずかに震える。子供の腹が鳴り、すぐに母親がその口を塞ぐ。沈黙の中で、雨だれが屋根を叩く音だけが、規則正しく時を刻んでいた。


「ある。」


 クルスは重い声を発した。


「肉ならある。」


 そう言って、クルスは全員を見渡した。炎に照らされた顔は、どれも削られた石のように痩せていた。誰もが生きる気力だけで現世に留まっている。その全員にクルスは声を発していた。


「竜を狩るのだ。逆鱗がある限り竜は再生する。その肉を喰らうことはできる。」


 老人が何か言いかけて口を開いた。クルスは小さく首を振り、その言葉を押し止めるように、さらに声を重ねた。


「わかっている。竜の肉には毒がある。だけど速効性ではない。徐々に肉体に蓄積していくたぐいの毒だ。これは賭けだ。オレ達の肉体が勝つか。それとも竜の呪いによって滅ぼされるか。」


 それが、クルスの言葉だった。誰も何も言えずに沈黙していた。その痩せた顔の一つ一つに思い出がある。クルスはマスターに「カイコを任せる」と呟いた。


 そしてクルスは静かに全員を見渡し、言った。


「狩りに行ってくるよ。」


 湿った土と炭の匂いの中で、その言葉だけが、鋭く澄んでいた。

 

 それが、竜狩りに向かうクルスの言葉だった。



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