第25話 継承3
朝靄の残る里外れで、クルスは子供たちと向かい合っていた。湿った土の匂いと、昨夜の焚き火の残り香が混じる空気の中で、子供たちはそれぞれ細い縄と木杭を手にしている。
「罠は正しい場所に必要なだけ設置すればいい。」
クルスはそう言って、地面にしゃがみ込んだ。指先で土を掘り、獣道の縁に小さな溝を作る。
「害獣以外を仕留める必要はないからな。」
子供の一人が首を傾げた。
「じゃあ、竜がかかったらどうするの」
クルスは一瞬だけ黙り、それから目を瞬いた。
「逃げるのが正解だ。俺の経験だと、罠にかかったふりをして徒党を組んで襲ってきた。だから、逃げて仲間を呼ぶのが正解だ。」
朝日が雲の切れ間から差し込み、露を帯びた草が淡く光った。子供たちは静かにその言葉を受け取り、土に膝をついた。
あの竜狩りから一年が経過していた。竜狩りは魔法の武器防具があっても命がけの戦いだった。クルスは心のどこかで、自分がいなくなった後のことを考えねばならない、と思い始めていた。害獣狩りも、竜狩りも、次の世代に残しておかねばならない。
それがこの場所に辿り着いた意味かもしれない。
「足跡だ。ウサギかな。リスかな。」
屈んだ子供が声を発した。クルスは腰をかがめた。
「形で判別できないときは、歩幅を見るんだ。刻みの細かさから見てリスだろうな。」
「ねえ、クルスはずっとこの里にいるよね。」
「ああ。」
クルスは頷いて答えた。
夕暮れが里を包むころ、宿屋の囲炉裏には火が入り、梁に吊るされた鍋から、濃い肉の香りが立ちのぼっていた。鹿と猪の肉を刻み、根菜とともに煮込んだそれは、脂の甘さと土の匂いを孕み、空腹を刺激する。卓の周りには子供たちが集まり、椀を両手で抱えたまま、待ちきれずに足を揺らしていた。
「熱いぞ」
老人が低い声で告げると、子供たちは一斉に息を吹きかける。湯気が頬に当たり、笑い声が弾けた。クルスは配膳を手伝いながら、その輪の外縁に腰を下ろした。木椀に盛られた肉は多めだった。今日の狩りの成果だ。
「クルス、これ柔らかい」
「圧力釜で煮込んだ。よく噛んで食べるといい。」
老人は無言で頷き、ゆっくりと匙を運ぶ。クルスも匙を口に運んだ。噛むたびに、肉の繊維がほどけ、脂が舌に広がる。子供たちは夢中で食べ、時折、今日見た足跡や罠の話を挟む。火はぱちりと鳴り、影が壁に揺れた。
クルスはその光景を眺めながら、胸の奥が静かに満ちていくのを感じていた。命を奪った肉が、今はこの場を温め、笑いを生んでいる。老人はそれを当然のように受け止め、子供たちは未来のように明るい。ここに座る自分の居場所が、ようやく形を持った気がした。
その後、子供たちを各家庭に送り届ける。それが済むとすっかり夜になっていた。
初めてこの里に来てから一年が経過していた。
夜。クルスは与えられた自室に籠り、世情の移り変わりを考えた。この里では竜より人間が恐れられている。過酷な税によって飢饉を経験した老人たちがまだ生きていた。クルスも元兵士であったから、税の取り立ての厳しさは知っている。なにしろ、収穫量の5割近くを奪っていくのだ。
クルスは干し肉と引き換えに、情報を生業にする行商人から新しい情報を得ることを忘れなかった。新しく国王となった人物は公平だが冷酷な人物、というのが世の評判であるようだった。彼がどのような政治を行うのか。誰もがそれを計りかねていた。
そしてある日、騎士官が里を訪れた。騎士官は騎乗した草食竜から降りもせず「村の代表者と話がしたい」と声を発した。
里の最長老は宿屋のマスターだった。足元がおぼつかなくなっていたから、クルスがマスターの手を引かねばならなかった。騎士官は宿屋のマスターを見下ろし、手元から書面を取り出した。
「ひとつ。米をよく生産しその収穫量の七割を納めること。二つ、新たな民法に従い生活を律すること。三つ、新たな刑法に従って生活を律すること…」
信じられないような言葉だった。収穫量の七割。実質死ねというに等しいほどの高い税率。震える老人を、クルスは両手で支えた。
騎士官は書面を読み終えると、声を低く落とした。
「難儀だろうが、皆を納得させよ。世は変わったのだ。」
そう言い放って、騎士官は村を去った。
竜人の大人たちは宿屋に寄り集まり、老人から事の次第を聞いた。
「無茶な話だ。」
若い竜人が声を荒げた。だれもがやり場のない不満を、独りごとと怒声で紛らわす。女たちが泣き声を上げて「どう生活すればいいの」と悲痛な声を上げた。
老人だけが落ち着いていた。
「皆、聞け。このような治世が長く続くはずはない。村が保てないからな。初めに強い仕打ちを出し、徐々に緩めていく。そのようにして民を懐柔する。その典型であると儂はみている。とにかく、今は様子を見よう。」
老人の言葉には説得力があった。その言葉によって、里の者たちはようやく平静を取り戻した気配があった。竜人たちは一人、また一人と宿を退出した。
「さて、困ったことになった。」
全員が退出したのち、老人は肩の力を抜き、初めてため息を零した。壁にもたれていたクルスは空になった座席に座り、老人に視線を向けた。
「マスター。養蚕を盛んにするという手はどうだ。」
「悪くはない。二、三年のうちはな。だが食用カイコは大量に葉を喰らうものなのだ。それこそ、里山のすべての葉を与えるほどの量を与えねばならない。病気にならんように管理してやることも必要になる。判断には相当の準備と知恵が必要だな。」
「オレも兵隊だったからよく知っている。奴らの言う七割とは“豊作時の収穫量の七割”の意味だ。不作だろうが飢饉だろうが、奴らは食料をむしり取るはずだ。」
「マスター。俺は山に籠り、保存食を隠しおける拠点を作ろうと思う。いざとなったら、そこに全員で逃げ込めるような頑丈な隠れ家をつくるのだ。どうだろうか。」
「悪くはないように思える。だが可能なのか。」
「正直、わからない。だが、何もしなければ、確実に奪われる。山の深部を散策してみるよ。木のうろ穴でも見つければ、食料でも隠しおけるかもしれない。」
その言葉に、老人は静かに頷いた。
前を向けば、光は苔と蔓に絡め取られ、闇が層を成して広がっている。クルスが里山から森の深部に踏み込む瞬間、空気の質が変わった。
風は止み、葉擦れの音も遠のく。代わりに、湿った土と腐葉、甘く発酵した果実の匂いが鼻腔を満たした。肌に触れる空気は冷たく、じっとりと重い。額に浮いた汗が、動かなくとも滲み続ける。
足元では、落ち葉が水を含んで柔らかく沈み、踏みしめるたび、ぬちりと鈍い音を立てた。どこかで水が滴り、遠くで鳥が甲高く鳴く。その声は里で聞くものよりも鋭く、警告のように響いた。
クルスは一歩踏み出し、原生林に踏み込んだ。
里山の深部はまさに原生林だった。天を覆うほどの樹冠が幾層にも重なり、昼でさえ薄暗い。湿った空気は重く、呼吸するたびに肺の奥へと絡みつく。巨木の幹は苔と蔓に覆われ、根は地表を裂くように這い、踏み外せばそのまま闇に飲み込まれそうになる。鳥の声は高く鋭い。水は腐葉土に染まり、鉄のような匂いを帯びていた。
セイバやマホガニーが林冠を貫き、すべてが蔓と霧に包まれた世界。その異様な場所を、クルスはただ一人歩いていた。藪は深く勾配は急だった。わずか五メートルも移動すると後ろの目印が見えなくなるのだ。わずか百メートル移動するために一日を費やさねばならなかった。
途中見つけた食料を隠せそうな場所を見つけるたびに太い枝を折り、紐を木の根に巻き付け目印にしておく。食料の隠し場所に困ることはなかった。
次に来るときは、甕を作り、保存できるものはなんでもため込まねばならない。この辺りに隠れ拠点を作ろう、と思った。キャッサバやシダの若葉、ナッツやアーモンドを拾い集めておかねばならない。獣の肉を燻製にして保管せねばならない。長雨で腐る可能性もあるから、本格的な建物と乾燥剤だって必要になるだろう。
かつては、敵を倒すことだけを考えて歩いていた。
いまは、誰も死なせない道を探して、この闇を進んでいる。
全員を生かすこと。それがクルスの新しい戦いだった。




