第23話 継承1
——運命は人を選び取る
高い魂は高い道を
低い魂は低い道を
高潔な魂よ 聖なる蒼空を見たか
暗黒の魂よ 地獄の深淵を見たか
奇蹟にも似た
強く美しい旅の終わりに
どちらにもなれない私は
運命の指先からこぼれ落ちて
ぼんやりとした平らな土地に
塵となって乾いていく
そのように魂が降り積み
土に還る場所があるという
届かなかった歌が響き
風として巡る場所があるという
そうして生命が溢れていく
高い尾根に高い木々が
低い渓谷に低い繁みが
凡庸の私よ 芽吹く命を見たか
凡庸の私よ 育つ命を見たか
いびつに歪んだ
価値なくさまよう旅の終わりに
運命が人を選び取る
高い魂は高い道を
低い魂は低い道を
やがて新しい子供たちの
運命に満ちた旅が始まる
ぼんやりとした平らな土地に
幻想と真理が溢れていく
どちらにもなれない君は
運命の指先から零れ落ちて
それでも降り積む塵を散らし
剣を手に取り歩いていく
そのように物語が始まり
集う場所があるという
祝福する歌が響き
風として巡る場所があるという
そうして生命が溢れていく
高い尾根に高い木々が
低い渓谷に低い繁みが
凡庸の君よ 潤う井戸を見たか
凡庸の君よ そよぐ麦畑を見たか
終わらぬ日常
朽ちない生存衝動の果てに
求める安らぎの場所
君の安らぎを祈っている
私の魂が作り君に与えた
この豊かな土と風の中で
カイルの遺骨を一つ一つ拾い集めながら、兵士クルスは凍てついた気持ちになった。カイルは明らかに勇者であり、自分はそうではなかった。カイルは飛竜を狩ったのだ。その時、自分はただ怯えて沈黙していただけなのだ。
せめて遺骨を遺族に届けよう。クルスはそう決意した。
カイルの拠点は竜人の里であったという。それほど遠い場所ではない。
この瞬間、クルスは労務から脱落した。
クルスは二十代の青年だった。徴兵された農民の子だった。政治には無関心だったけれど、カイルの達成した飛竜狩りはまさに善だと思った。
カイルを火刑に処することは間違ったことだと思った。
なにが悪いのか分からなかった。
カイルがどんな罪状に値するのか分からなかった。国家の上層部は激しい論戦と内紛に明け暮れていた。彼らはもっとも基本的な政治的事項さえまとめきれていなかった。
もちろん本当に何かをわかることは不可能だ。しかしいやしくも国家が一人の男の命を奪うのならば、そこには正義に対するしかるべき信念を持ち、揺るがざる根拠を持つべきだ——そう思っていた。
何はともあれ、それがクルスの信念だった。
しかしその信念には、自分自身が危険にさらされた場合に自分がどう振舞うか、という想像力が欠けていた。自分が人生の岐路に立たされた場合にどう振舞うのか、という肉体的な切迫感が欠けていた。
カイルが牢に入れられている間、クルスはそのかたわらにいた。クルスは決して取り乱していなかった。心のうちにいる誰かと語らい、その誰かと霊的な高みに達していた。
その間、クルスは何の行動も起こさなかった。クルスは農民の生まれだった。クルスはカイルを解放できる唯一の人間だった。そしてカイルが火刑に処されたその瞬間、彼が「御師様」と叫んだ瞬間を見た人間だった。
彼の足もとに火が揺らぐその瞬間、クルスは自分が暗い漏斗に落下していくような気がした。カイルは農村を救ってくれた。自分の故郷を守ってくれた。まさに英雄だった。それでもクルスはなにもしなかった。その一切の原因はまさに恐怖と面子だった。クルスの良心も本能もカイルを助けるべきだ、と叫んでいた。しかしなにか非理知的で強力な力がそれを押し止めていた。
馬鹿しい話だがそれは、命令を受けたから、それだけの理由だった。
カイルの肉の焼けるその匂いを嗅いだまさにその瞬間、クルスの中で何かが破断した。それは物理的な破断だった。クルスは精神的に凍てついていた。何も行動できず、何も考えることができなかった。
クルスは、カイルの遺骨を粗末な布に包み、胸に抱えた。
それは軽く、そして乾いていた。
クルスは白い骨の一つ一つを拾い集めた。
夜明け前、クルスは城を脱した。だが、誰一人としてクルスを呼び止めなかった。
それは黙認だったのか、それとも誰も気づかなかったのか。
クルスには、もはや確かめる勇気すらなかった。
霧の立ちこめる街道を、ただ歩いた。
湿った土が靴底にまとわりつき、枯れ草が脛を打つ。
農道の両脇には、収穫を終えた畑が広がっていた。
刈り残された麦の切り株が、朝露をまとって銀色に光っている。
——ここも、カイルが守った土地なのだ。
そう思った。
自分は、この景色のために何をしたのだろう。
自分は、この土地のために、誰かを守ったことがあるのだろう。
「俺は、あなたのようにはなれない。あなたのようになれません。」
「ああ」
「神様。」
クルスは背を丸めて、歩いた。
道はやがて山裾へと入り、森の影が濃くなった。
湿った葉の匂い、苔の匂い、冷たい水の匂い。
遠くで鳥が鳴き、どこかで枝が折れる音がした。
竜人の里は、この先にある。
そこには、カイルが戻る場所と呼んだ世界があるはずだった。
彼が選び、守ろうとした生活があるはずだった。
森を抜けたとき、クルスは思わず足を止めた。
石と土で固められた家々は円みを帯びた屋根を持ち、互いに寄り添うように並んでいる。壁面には蔦や苔が自然に絡み、人工物でありながら森の一部のように風景へ溶け込んでいた。
屋根の隙間からは細い煙が立ちのぼり、湿った空気に薪の焦げる匂いと乳の甘い香りが漂ってくる。
小川が里を横切り、水車がゆっくりと回っていた。
畑には冬麦の若芽が並び、淡い緑が霧の底でかすかに揺れている。
家々のあいだを縫う道には、竜の足跡とも獣のものともつかぬ痕が残り、そこを小さな影が走り抜けた。
竜人の子供だった。
彼らはクルスに気づくと、一瞬だけ立ち止まり、互いの顔を見合わせ、
そして、まるで風に煽られた落ち葉のように散っていった。
遠くで、柔らかい笑い声が上がる。
クルスは胸に抱いた布包みを、無意識に強く抱えた。
——ここが、カイルの居場所だった。
家の一つから、年老いた竜人が姿を現した。
背は低く、肩は丸まり、しかしその眼は深く澄んでいた。
長い時を生きた者だけが持つ、沈黙の重みがそこにあった。
老いた竜人は、クルスと、彼の腕に抱かれた布包みを一瞥した。痩せてしぼんでいて、髪はほとんどない。フランネルのシャツを着て、作業用のズボンを履いていた。その眼は鋭く、艶のある輝きを持っていた。
クルスは亡霊のように、声を発した。
「ここを故郷とした人の、遺骨を、持ってきました。」
老人は頷いた。
「その人の名は、カイルという名前かね。」
「はい。」
老人は頷いた。
「連れ帰ってくれて、ありがとう。」
「はい。」
クルスはカイルの遺骨を手渡した。
「あんたは魚を食べるかね。」
「はい。」
「そうか。」
老人の名はリカルドといった。それから二日間、クルスはリカルドの営む宿で過ごした。
最初の日、クルスは大樹の許に穴を掘る作業だけをしていた。汗だくになり、軍服は脱いでしまった。次の日、クルスはカイルの遺骨をそこに収めた。
うなだれるクルスに、子供たちは容赦なく質問をぶつけてきた。
「カイルは死んだの?」
「…そうだよ。この目で見た。」
それで子供は泣きだしてしまった。クルスは泣き止むまでその子の傍にいた。
「カイルは“大丈夫”って言ってたよ。」
子供が顔を上げ、クルスに声を発した。クルスは顔を上げた。
「どういう意味だ。」
「“思い通りにならないことに耐えられる”って言った。」
「それを、カイルが言ったのか。」
子供は頷いた。
——お前は大丈夫だ。
今度は、クルス自身の内側から響いた。
それは赦しではなかった。
だが、問いでもなかった。
——お前は大丈夫だ。
「それでも人間は弱さに何度も躓くんだ。」
クルスはうつむいてそう呟いた。
「きっと祈りみたいな言葉なんだ。」
クルスはそう言った。
子供は目を瞬き、そして走り去っていた。
翌朝、その竜人の子供がクルスの袖を引いた。
「罠を見て回ろうよ。」
その竜人の子供は水田を横切り、狭く曲がりくねった土の道に出た。道から逸れ、木立の中や雑草の繁った竹やぶを通り、竜人たちの墓地を横切った。古代の遺跡を歩き、石造りの寺院の廃墟を抜けた。地形の勾配は急で、峡谷があちこちにあった。
子供は罠を一つ一つ確認して回った。クルスは道を見失わないように枝を折って歩いた。
そうしてクルスと子供は竜人の里を一周した。今日は何もなかったね、と子供は言った。
「おじさん、また明日ね。」
「そうだな」
また明日。子供はそう言って駆け出して行った。
クルスは老いた竜人のリカルドに、ここを去る旨を伝えた。老人は首を横に振った。
「行き先がないんだろう。ここで暮らせ。」
老人はそう呟いた。
「リカルド。どうしてですか。」
クルスはついに、叫んだ。
「俺がなにもかも悪かった。弱虫だった。意気地がなかった。どうしても国家の暴力に対抗できなかった。」
クルスは震えながら言葉を重ねた。
「弱虫だった。」
クルスは震えていた。
リカルドはクルスの様子をじっと見て、それから声を発した。
「カイルはそんなことを気にする男ではなかった。それが答えだ。」
リカルドは言葉を重ねた。
「“大丈夫”。それがカイルの言葉だった。お前は、大丈夫だ。」
大丈夫。それがカイルからクルスに与えられた“答え”だった。




