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第20話 白鳥

雲が切れ目なく空を覆い、林は薄い灰色の膜に包まれていた。山肌をなぞる風は湿り気を帯び、枝葉を揺らすたび、葉の裏に溜まった雨滴が、ぱらぱらと音を立てて落ちる。


 苔むした幹は暗く光り、地面には腐葉土が柔らかく積もっていた。やがて雪が二片、三片と混じり始め、指先に触れるとすぐ溶けて冷たさだけを残した。雪はその後も降り続け、夕靄ゆうもやが林の奥からにじむように広がり、視界は一面に鈍い灰色となった。


 吐く息は白く、鼻腔には濡れた土と苔、冷えた木肌の匂いが満ちていた。


 その林の中で、革の外套をまとった竜人の老師が一人、乾いた枝を折っていた。ぱきり、という硬い音が冬の気配を含んだ空気に響く。その隣でカイルは黙々と鉈を振るっていた。


 刃が木肌に食い込むたび、手首に鈍い震えが返り、割れた木口からは樹脂の甘い匂いが立ち上った。白い息が、刃の軌道に沿うように揺れ、落ち葉の上に細かな木屑が散っていく。


 やがて老師とカイルは仕事を止め、木の束を背負った。湿った革紐が肩に食い込み、背中にじんわりと重みが広がる。谷戸へ下る細道には、前夜の雨が溜まり、靴底が泥を踏むたび、ぬめる音がした。


 まもなく訪れる冬に備えて、薪を作らねばならない。川原に沿って歩くと、遠くで水が石を打つ低い音が、絶えず耳に届いていた。冷たい流れは白く泡立ち、岸辺の葦を揺らしていた。


 カイルは竜人の里で暮らしていた。


 竜人たちは、過剰に彼を意識することはなかった。挨拶は簡素で、干した作物や道具の受け渡しも静かだった。誰もがそれぞれの生活を営み、畑を耕し、子を叱り、火を熾し、夜には祈りの言葉をつぶやく。カイルはその輪の端に、自然と組み込まれていた。


 それでいい、と彼は思った。体制とて、むやみに農民を虐殺したりはしないだろう。深い知恵を持つ竜人であればなおさらだ。竜人たちの一端に加わること、それがカイルにできる精いっぱいの自己防衛だった。


 老いた竜人はますます暗く、肺を圧し潰されたような異様な咳を吐く。夜半、囲炉裏の火が落ちる頃、その咳は家屋の梁を震わせるように響いた。カイルは、この老人はどこかアンヘルと重なる、と思った。この老人の世話をして暮らしていた。水を汲み、薬草を煎じ、背をさすり、呼吸が落ち着くまでそばに座る。その時間は、戦場よりも長く、重かった。


 なぐさめもあった。カイルはリザに正式に婚約を申し込んだ。冬の入り口、畑に霜が降りた朝だった。リザは一瞬目を伏せ、それから静かに頷いて、カイルを受け入れてくれた。


 老人とさし向かいになるのがつらい日は、リザとともに薪を割り、炭焼き小屋で炭を作る作業をした。煙は低く流れ、目に沁み、指先は煤で黒くなった。


 肩が軋み、腰が曲がる。その生活の痛みが心地いいのも、また事実だった。リザは以前と同じように暖炉に火を熾し、竜人の子供たちに世話を焼いていた。鍋の中では豆と根菜が煮え、甘い湯気が家屋に満ちる。


 そうすると竜人の子らはまずカイルに群がり、目を輝かせて飛竜狩りをした時のことを聞こうとせがんでくる。毛布に包まれた小さな肩が寄り合い、火の粉がぱちりと跳ねる。


 そうしたとき、カイルはまずアンヘルの話をした。アンヘルの事を話さずにはいられなかった。アンヘルの物語を竜人の子らに伝えることが、自分の使命である気がした。剣を構えた背、優しい声、迷う者を見捨てなかった眼差し。


 子供たちは、いつも竜狩りの話に辿り着く前に眠ってしまう。まぶたが重くなり、頭が肩に落ち、呼吸が規則正しくなる。子供たちに毛布を掛け、リザは優しく子供たちを撫でていた。その仕草は、炎の揺れよりも穏やかだった。


 竜人もまた、小型竜の災いに注意せねばならない。カイルは罠を仕掛けて里山を巡ることを忘れなかった。霧の朝、鹿の足跡が露に滲み、折れた枝が進路を示す。シカやイノシシが罠にかかることがせいぜいだったが、動物がいるということは竜もまた潜んでいるということだ。食べられるものが無くなれば、小型竜は人間の里まで下りてくる。カイルは森の異変に目を配ることを忘れなかった。


 リザはカイルの隣で黙々と薪を割り、炭を作る。斧が木に入る音が、谷に反響する。リザがアンヘルと知り合いであったことを、カイルは夫婦になって初めて、知った。


 粟の取入れもかぶの収穫もとっくに終わった。畑は黒い土を晒し、霜の跡が白く残る。


「しらどり」と竜人の子が空を指さして、言った。空に白い影が舞っていた。長い翼で風を切り、隊列を保ったまま南へ向かう。


「そうだな。」


 カイルはうなづいた。


「あの鳥も、広い海を渡りあまたの国を見るだろう。」


 リザに向けて、カイルは言葉を重ねた。


「思えば、長い旅だった。」


 カイルはそう言った。他に言うべき言葉はないような気がした。


「オレは運命に押し流されるようにして、竜狩りの戦士になった。今もその思いは家変わらない。でも政治の世界を知ってから、御師様の言葉をよく思い出すようになった。お前は大丈夫だ。御師様はそう、オレに言ってくれた。その言葉があったから生き残れた。」


 リザはカイルの言葉に口を挟まず、ただ静かに受け止めてくれた。白鳥の影が、二人の足元をかすめていく。


「そう。あの人はオレに生涯、裏切らぬ言葉を残してくれた。そのような人だった。」


 リザは目を瞬いて、カイルを見つめていた。


「リザ。君の思い人とは、オレの御師様のことだったのか。」


「はい。」


「リザは御師様を探して、旅をしていたのだな。」


「はい。」


「お互い、長い旅だったな。」


「はい。」


「しかし、結果は結果だ。オレたちは少しずつ夫婦としての関係を育てていこう。もう、オレは戦士ではない。ここが、オレの居場所だ。」


 カイルはわざと明るい声を出し、リザに笑いかけた。リザはほんのわずか微笑して、そして頷いた。


 そう。数多の場所で竜と戦ってきた。大きな戦いも経験した。しかし結局、戦士を止めてリザと暮らしている。それでいい、とカイルは思った。運命など所詮、ままならないものだ。耐えられる限りは、大丈夫なかぎりは、これでいい。それがカイルの素直な気持ちだった。


 白鳥の列は、雲の奥へと消えていった。

 その軌跡を、カイルとリザはしばらく見上げていた。


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