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第17話 紐帯

 ——お前は大丈夫だ。(be all right)


 それから月に一度か二度、カイルは老師を訪ねた。

 その帰りには、必ずリザを外へ連れ出した。


 彼女の様子は、以前とは明らかに違っていた。

 リザは昼も夜も加工品を作り続けた。言葉を選ぶようになり、やがて、ぽつりぽつりとしか話さなくなった。鍛冶場にいるあいだ、彼女の視線は常に火と金属に縛られているようだった。


 だからカイルは老師と相談し、リザを鍛冶の現場から遠ざけることにした。


 カイルは行き先も目的も定めず、ただリザと歩いた。


 秋が深まり、やがて冬の気配が混じりはじめる頃、リザは自然にカイルの隣を歩くようになった。肩を並べ、同じ歩幅で進む。ひとしきり歩けば水筒から水を飲み、また歩く。それだけの時間だった。


 彼女は、清潔な木綿のシャツと革のズボンを贈ってくれた。

 高級なファー付きのコートと、ロングブーツも作ってくれた。


 そして、時折、カイルの腕にそっと体を寄せるようになった。


 歩きながら、リザはよく話した。

 子供の頃のこと、小さな学舎に通っていたこと、育った家庭のこと。鍛冶場の話もした。何時間も、彼女は話し続けていた。


 だが、その話はどれも、どこか噛み合っていなかった。

 時代が前後し、人物が入れ替わり、因果が途切れる。それでもリザは語り続け、そして歩きつづけた。


 そうしていつの間にか、彼女の話はすでに終わっていた。いつものように話し始めたその言葉が、途中で途切れた。言葉が突然に消えてしまったように、リザは口元をわずかに開いたまま、カイルを眺めていた。


 カイルとリザはシロツメクサが広がる草原地帯にいた。障害物は何もなかった。


 リザは立ち尽くし、目の前の空間を見つめたまま動かなくなった。まるで、何かを失ったことに気づいた人のように。


 その横顔を、カイルは見ていた。


 リザは小さく呼吸して前方の遥か彼方を見ていた。


 周囲には、ただ悠久の自然だけがあった。


 リザの眼から涙があふれ、最初の涙が流れるとあとはとめどなかった。カイルの腕に縋り、泣き崩れていた。


 カイルはリザの体を抱き寄せた。リザはカイルの腕の中で声を出さずに泣いていた。何かを探し求めるようにリザの両手はカイルの背中を彷徨さまよっていた。


カイルは左手でリザの身体を支え、右手で細い髪を撫でた。




 二週間かけて、リザはカイルの持ち帰った逆鱗から魔弓を作り上げた。カイルは弓を扱うのが苦手だった。カイルは練習を理由にリザを外に連れ出した。


 やわらかな陽光に満ちていた。丘陵には若草が波のように広がり、赤土の間から白い小花が顔をのぞかせている。遠くでは海がきらめき、潮の匂いが風に混じって流れてきた。名も知らぬ鳥が梢で鳴き、湿った空気が肌に心地よくまとわりつく。


 カイルは弦を引き絞り、魔弓から矢を放った。矢は目標にした木に命中した。吸い込まれるような命中の仕方だった。二発目も同じように命中した。


 その様子をリザは黙ってみていた。潮風が丘を渡り、若葉を揺らした。光の中で、矢羽が小さく震えていた。


「私は貴方と一緒にいると、昔思いをはせた人のそばにいるような気になるの。」


「そうか。」


 リザは目を瞬いた。リザは目を瞬いた。遠くの海を映すような瞳だった。


「運命かもしれない。」


 リザは呟いた。


「運命。」


 カイルはその言葉をなぞった。


 リザは頷いた。丘の向こうで、白い雲がゆっくりと流れていく。長い時間をかけて、リザは言葉を紡いだ。


「貴方は私の思い人に似ていた。」


 リザは絞り出すようにそう言った。春風が草を撫で、花の香りが二人の沈黙に流れた。


「貴方は私の思い人の匂いを纏っていた。」


 リザはうなだれ、さらに言葉を重ねた。


「私とは別の私がいる。そんな感覚が、溢れていく。君たち人間は生き急いでいて、私たちにない特別な匂いを発している。」


 リザは、そう言ってカイルと視線を交えた。遠くで波が砕ける音が、かすかに届いた。


「私は一度、思いを遂げずに逃げてしまった。今度は後悔したくないの。」


 リザがそう言った。


 カイルは目を瞬いた。


「そうか。」


 そう言って、カイルは視線を彼方へと逃がした。


 秋の空は高く、青く、どこまでも続いていた。




 カイルの日常は表面的には何も変わらなかった。掲示板を眺め、小型竜の被害報告とその駆除依頼書に目を走らせる。依頼を請け負い、小型竜と生き死にを賭けた狩りに興じる。しかしその心のどこかで、リザの言葉を考えていた。


 カイルが葛藤していた。リザの想いに応えることを考えた。竜狩りを辞めて、リザのもとで生きることを想った。


 だが、それと同じだけ、カイルは竜狩りに魅入られていた。殺しの強烈な刺激におぼれていた。魔弓を用いて竜を貫くことも、魔剣を用いて竜の首を刎ねるも、すべてが快感だった。ギルドにたむろする連中の賛美が心地よかった。子供たちの羨望が心地よかった。


 カイルはいずれ飛竜狩りに参加するつもりだった。そうすれば師であるアンヘルが正当に評価される。もうだれもアンヘルを否定できなくなる。だれもアンヘルを、悪魔憑き、とは呼べなくなる。


 自分がアンヘルを救う。


 小型竜の死骸に剣を突き立て、カイルは嗤っていた。ふと、リザのことを思った。リザ、とほとんど口に出しかけていた。カイルは嗤うことを止めていた。


 別の日には中型竜二体を相手に命がけの狩りに挑んだ。中型竜二頭は牙と尾を次々と繰り出し、カイルは防戦一方に追い込まれた。もっとだ、とカイルは叫んでいた。中型竜の攻撃が止んだその瞬間、カイルは魔剣を振るい、中型竜の頭蓋を深く切断していた。


 一頭が崩れた瞬間、二頭目の中型竜は確かに動揺を示した。


 カイルは恐れずにさらに踏み込んだ。魔剣を振るい無傷の二頭目の肉体を切り裂いた。骨まで断った。その感触があった。頭部を切断された一頭目が大地に沈み、二頭目の竜も深手を負っていた。深手を負った二頭目の決断は早かった。すぐに踵を返し、藪の中を縫うように姿を消していた。喜悦のままにカイルは二頭目を追う決断をしようとした。足を踏み出していた。


 瞬間、カイルの手にリザが掌を重ねていた。


 一瞬の幻覚だった。しかし、どの現実にも負けないほど確かな感触だった。

 酔うような殺気は、その瞬間、嘘のように醒めていた。


 カイルは、踏み出しかけた足を止めていた。

 藪の奥に消えた中型竜の影は、まだ脳裏に焼き付いている。追えば、仕留められただろう。そう確信できるほど、身体は熱を帯び、血は沸き立っていた。


 だが、掌に残った感触が、それを拒んだ。


 柔らかく、しかし確かな重み。

 鍛冶屋の娘の手。

 火と金属に触れ続けてきた、あの硬さを帯びた温もり。


 ——行かないで。


 リザの声が、胸の奥から響いた。


 カイルは深く息を吸い、剣を下ろした。

 湿った草の匂いが肺に満ちる。遠くで鳥が鳴いた。


「帰ろう」


 誰に向けた言葉でもなかった。

 戦いの熱気が冷め、深追いは危険だ、と身体が警告を発していた。

 カイルは竜の亡骸から逆鱗を回収し、傷口を簡単に処理した。

 血に濡れた刃を水で洗い、鞘に収める。


 カイルは自分が斬ったものの重さを、はっきりと感じていた。


 歩き出すと、風が草原を渡った。

 稲の穂が揺れ、陽が傾き、世界は変わらず続いている。


 ——お前は大丈夫だ。


 師の声が、遠い記憶の底から浮かび上がる。

 アンヘルは、いつも“戻る場所”を示してくれた。

 剣の先ではなく、歩みの向かう先を。


 カイルは、その意味をようやく理解し始めていた。


 強さとは、前へ進むことではない。

 止まることを選べることだ。

 振り上げた刃を、下ろす理由を持てることだ。


 リザの言葉が、胸に残る。


 ——今度は、後悔したくないの。


 彼女は、逃げなかった。

 だから、自分も逃げない。


 狩人である自分と、ひとりの人間である自分。

 その二つを繋ぐ細い糸が、今も切れずに残っている。


 なにかが自分を人間の側に引き留めている。


 カイルは空を仰いだ。

 薄雲の向こうに、まだ見えない星がある。


 夜が来る。

 カイルは歩き出した。

 帰るために。

 リザのもとへ戻るために。


 カイルは見えない糸を辿るように、帰路を歩きつづけた。

 それは剣でも、血でも結べない、

 人と人とを繋ぐ、か細く、しかし切れない紐帯だった。

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