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第12話 英雄

アンヘルの生活は、極貧者とほとんど変わらなかった。

 いつもギルドの広間の片隅にいた。煤と油で黒ずんだ石床は冷たかった。夜、アンヘルは剣を壁に立てかけたまま、背を丸めて座った姿勢で眠った。遠くで誰かが咳き込み、木炭がはぜる乾いた音が響いた。


 朝になると、天窓から差し込む淡い光がまぶたを刺した。冷えた空気を肺いっぱいに吸い込み、身体を起こす。石の匂い、鉄の匂い、古い紙の匂い。アンヘルは依頼表を確かめる。それが、アンヘルの日常だった。


 いつの間にか、同業者の顔なじみができていた。彼らはアンヘルに向かって下品な冗談を投げつける。酒と汗の混じった息を吐きながら、肩を小突く。それが彼らなりの親しみの表現だった。

 書記官たちも、アンヘルを認めるようになっていた。無言で木杯の水を差し出し、依頼書を指で示してくれる。紙の擦れる音と、ペン先の乾いた引っかかりが、彼の朝の始まりを告げていた。


 そのようなある日、飛竜の死骸が回収された、といううわさが広間に流れた。人々の声が高まり、ざわめきは広間全体に満ちていた。


 そうした日の朝、アンヘルの前に白い法衣を纏った初老の男が現れた。


 顔を上げると、男は静かに名乗った。

「天使教会の神官、モルドバです」


 使い込まれた法衣の足もとは朝霧に濡れていた。胸元の紋章が鈍く光っていた。モルドバは祈る時のように膝をつき、アンヘルと向き合った。


「アンヘル。貴殿が飛竜の討伐に関与したことは、こちらでも把握しています」


 アンヘルは何も言わなかった。石床の冷たさが、膝裏からじわじわと染み上がってくる。

 神官は思いつめたように深呼吸して、アンヘルと視線を交えた。


「しかし、天使教会は“悪魔憑き”を英雄とは認められないのです。」


 その声は穏やかだった。だが、悪魔憑き、という言葉は鋭くアンヘルの心を切りつけた。

 アンヘルはやや掠れた声で問い返した。


「何が、言いたいのですか。」


 その言葉に、モルドバは一瞬だけ身を固くした。それでも深く息を吸い、再びアンヘルと視線を交えた。


「飛竜は、殉職した騎士たちが相討ちで討ち果たした。それが後世に伝わる『真実』になります。『歴史』にはそう記録され、そう語られる。国家も教会も、その物語を必要としている。それを貴方に、伝えに来たのです。」


 モルドバは苦しげに言葉を紡いだ。そしてさらに、言葉を重ねた。


「貴殿の名は記されない。祭りも、讃歌も、貴殿のためのものではない。それを、どうか、ご理解ください。」


 神官モルドバはそう言い、立ち上がった。

 寂しい背中だった。祈りの言葉すら唱えず、白い背は人々の中に溶け込み、やがて見えなくなった。


 少し変化だけ変化もあった。アンヘルは竜狩り達から敬意を受ける立場になっていた。飛竜狩りの二つ名で呼ばれることが多くなった。


 だからといって、なにかが変わるわけでもない。アンヘルは依頼書から仕事を選び、数字を書き留めて仕事を受ける。いつものように行動するだけだった。


 被害を受けた村落に到着すると、アンヘルはまず竜の糞を見つける作業を行う。アンヘルは糞の量やその状態から、おおよそ竜の種類とその規模を推し量れるようになっていた。


 烈しい頭痛。頭蓋の内側から金づちで思いきり殴られるような感覚。


 なぜ生きるのか。アンヘルは自問する。答えがでないまま、アンヘルは竜を追跡し、鋼鉄製のトラバサミを仕掛ける。そうして罠にかかった小型竜を仕留め、その逆鱗を剥ぎ取る。


 作業を終えると、自動車両のトレーラーに乗り込んで帰還する。


 それがアンヘルの日常だった。


 そうしてギルドの広間に戻る途中、市場で必要なものを買う。市場の人々は、飛竜撃退の噂で沸いていた。


「騎士団が命を賭して守ったんだ」

「天使教会の加護だ」

「神の御業だよ」


 広場には飾り布が張られ、脂の滴る肉が焼かれ、甘い酒の匂いが漂った。

 子供たちは紙の翼を背に走り回り、太鼓が鳴り、聖歌が流れ、火が焚かれる。


 飛竜を倒した祭りは華やかだった。


 天使教会の出入り口に、巨大な飛竜の頭部が剥製にされ、見世物として掲げられていた。乾いた鱗が陽を反射し、空虚な眼窩がむなしく空を見つめている。その周囲には人だかりができていた。


 アンヘルは人混みの端で、それを眺めていた。


 誰も、アンヘルを見なかった。

 誰も、アンヘルの力を認めなかった。


 胸の奥にあったものは、怒りでも悲しみでもなかった。

 ただ、重い空虚感があった。


 その夜、アンヘルは広間の片隅に横たわり、ひび割れた天井を見つめた。

 木材の軋む音がした。遠くに笑い声があった。

 花火が闇夜に大輪の花を咲かせた。


 欲しいものは、手に入らない。

 欲しいひとも、名誉も、居場所も手に入らない。


 それでも、生きる理由はあるのか。


 自分は何のために生きているのか。


 アンヘルは、その問いを無視できなくなっていた。


 深い虚無感に加えて、アンヘルは深刻な問題を抱えていた。幻覚の症状はますます烈しくなっていた。死した人が視界に入り込むことが増えた。死した人の声が脳裏に響くことが日常になっていた。


 ———あなたは大丈夫よ。


 アンヘルは気力を奮って、母の叫びを思い出した。そうすることで、アンヘルは壊れそうな自分自身を支えていた。



 その夜、アンヘルは眠れなかった。

 石床の冷たさが背中に染み込み、胸の奥に沈んだ問いが、何度も意識を揺さぶった。


 ———欲しい女は手に入らない。欲しい物は手に入らない。


 祭りの残り香が、広間の奥まで漂ってきていた。甘い酒、焼けた脂、花弁を焦がした香の匂い。それらは人々の幸福の証であり、アンヘルには届かない世界の匂いだった。


 ———なぜ、生きているのだろう。


 匂いが生活を想像させる。

 きっと母となった娘が竈の前に立ち、鍋をかき混ぜているのだろう。

 娘は裏庭で犬とじゃれあって笑っているだろう。


 その想像が、刃物のようにアンヘルの心を裂いた。


 幻は消えない。

 それどころか、声を持ち始める。


 娘の笑い声が聞こえた。

 夫となった青年の声が聞こえた。

 妻であり母である女の声が聞こえた。


 母の声と、見知らぬ誰かの声が、重なって響いた。


 アンヘルは耳を塞いだ。

 だが、声は頭の内側から鳴り続ける。


 強い激痛が、脳に響いた。

 強い怒りが、胸の奥で何かが軋んだ。


 剣を握ることはできる。

 竜を殺すこともできる。

 だが、自分の物語を奪い返す方法だけは、分からなかった。


 翌朝、アンヘルは市場へ向かった。


 祭りの後片付けが進み、地面には踏み潰された花弁と、溶けた蝋が残っていた。

 露店の主たちは昨日の熱狂を語り合い、飛竜の武勇譚を競うように語っていた。


「騎士団長の一撃がな、翼を――」

「いや、祈祷師の聖印が光った瞬間だ――」


 アンヘルは黙って、その間を通り抜けた。


 一人の少年が、紙で作った翼を背に走っていた。

 転び、土に顔を擦りつけても、すぐに立ち上がり、また走り出す。


「騎士様が飛竜を倒したんだ。」


 少年の声は、澄んでいた。


 アンヘルは足を止め、その背中を見つめた。


 あの子が憧れている英雄は、存在しない。

 けれど、あの子の胸に灯った光は、本物だ。


 その事実が、アンヘルの胸を静かに締めつけた。


 英雄とは、名ではない。

 記録でも、讃歌でもない。


 誰かが、恐怖から一歩を踏み出すとき、

 誰かが、夜を越える勇気を持つとき、

 その背後に、見えない支えとして在るもの。


 アンヘルは、ゆっくりと息を吐いた。


 自分は、語られない。

 自分は、残らない。

 それでも——、


 竜は、確かに死ぬ。

 村は、確かに救われる。

 そして、誰かが、今日を生き延びる。


 それで、十分ではないか。


 アンヘルは、市場を離れ、ギルドへの道を歩き出した。

 背中には、相変わらず誰の名も刻まれていない。


 だが、その歩みは、わずかに変わっていた。


 英雄とは、呼ばれる者ではない。

 英雄とは、語られぬまま、世界を支える者の名なのか。

 アンヘルは、まだ言葉にできないまま、真実の輪郭だけを掴み始めていた。


 アンヘルは、ギルドの裏手にある井戸へ向かった。

 夜明け前の空気は冷え切っており、桶を引き上げる縄がきしんだ。水面に映る自分の顔は、疲労と血の名残で歪んでいた。


 桶の縁に溢れた水が、石床を濡らす。

 アンヘルはその水で、魔剣についた乾きかけの血を拭った。布はすぐに赤く染まり、鉄の匂いが立ちのぼる。


「生きている。」


 それは祈りでも誓いでもなかった。

 ただ、今日も生き延びている。


 市場の少年が笑いながら走っていた方向を、アンヘルは思い出す。

 その背中を、見えないところで支え続ける。

 それが自分の役割なのだと、ようやく胸の奥で形を結び始めていた。


 アンヘルは布を絞り、剣を鞘に収めた。

 そしてまた、依頼表のある広間へと歩き出した。



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