薄愛-1
生きる楽しみは無く、かといって死ぬ理由もない。異分子である自分を社会にどう溶け込ませていくか、人生において重要なことはそれだけだ。笹山徹はそう思いながら28年間生きてきた。
ある時、徹は思いもよらず大きなプロジェクトに参加することとなる。「あなたに次世代AIの発展に貢献して頂きたい」。プロジェクトの代表でありAI工学の権威、三上透子博士は徹に告げた。三上博士が徹に与えた役割。それは、『AIに愛を教える』ことだった。
徹が再びプロジェクトへと戻り8ヶ月が経過した。
あの出来事以来AIは徹の生活に干渉することを辞めた。AIの真意は徹にも分からないが、AIは最初からプロジェクトの継続に重きを置いている。失態を犯したAIはこの8ヶ月、徹との間に余計ないざこざを生じさせないよう行動していた。そのおかげで徹は驚くほど平穏な日々を過ごすことができた。
フューチャービジョンのオフィスで淡々と自らの業務に勤しんでいた徹は、ふと普遍の日常を享受できる日々を幸福に感じた。
「ごめんなさい、またやっちゃいました。誰か直してください」
オフィスに甘ったるい女性の声が響く。それに対して社員たちは小さな溜息を漏らす。女性が操作していたPCのモニターには作成したプログラムにエラーが表記されている。
「またやってるよ」
本人の耳には届かないようひそひそと話す誰かの声を徹は確かに聞いた。
神崎:『何かあったのですか?』
デスクのPCに接続されたAIがモニター越しに徹へ尋ねる。仕事の邪魔を一切行わないという条件の元、徹はAIが自身の仕事を見ることを許可していた。
徹:『なんでもない。いつものことだ』
どうせ直ぐにあのおせっかいな男が現れる。徹は心の中でひとりごちた。
「またかい?。仕方ないなー、綾ちゃんは」
何処からともなく現れた小谷がモニターの前であたふたしている女性、佐倉綾に声をかける。
「すみません。どうしても直せなくってー」
「仕方ないなー、綾ちゃんは」
小谷はどこかいかがわしい笑みを浮かべながら、佐倉が作ったプログラムのエラーを修正する。
佐倉綾は4月に入職したいわゆる新入社員。エンジニアには珍しい女性であり佐倉はその容姿も整っていた。男ばかりのむさくるしい環境に一凛の薔薇が入って来れば当然男は舞い上がる。その結果、佐倉は他の社員から甘やかされた。佐倉の周りで何か問題が起これば誰かが解決する。そんな日々を繰り返すうちに、他の新入社員との差は広がった。一言でいえば佐倉は役に立たない社員となった。
問題は佐倉自身が周囲から甘やかされることに優越感を覚えていたことに尽きる。何か問題が起きれば誰かが助けてくれる。そんな状況を良しとしていたが故に佐倉は他の新入社員が当たり前のように行う努力を怠った。そしてそのような状況が許され続けるほど社会は甘くは無い。どれだけ経っても成長しない佐倉に周囲の人間も徐々に冷たくなっていった。
今となっては佐倉に対して完全に下心しか抱いていない男か小谷くらいしか佐倉に近づこうとはしない。
「ちょっといいか?。色男」
気が付くと、佐倉にちょっかいを出していた小谷が徹のデスクの傍にいた。
「なんだ?」
「ここじゃあなんだから、外で一服しながら話したい」
「実はお前に頼みたいことがあってな」
ビルの裏手に人目を避けるように設置された喫煙所で小谷は煙草を片手に言った。
「気持ち悪いな。改まって」
「そう言うな。これでも俺は一番お前を信用しているんだ」
付き合いの長い小谷が徹を持ち上げることなど皆無だ。面倒ごとを押し付ける時を除いては。
「スタンドアップの仕事をお前に任せたくてな」
スタンドアップは中堅どころのSE企業である。スタンドアップの社長と大石社長は昔から縁があるそうで、フューチャービジョンへ仕事を頼むことが多々あった。つまり、お得意様ということだ。
「別に構わないが、わざわざ隠れて話をするようなことか?」
「それが、2名ほど人員を出向してくれと大石社長に言われてな。お前以外にもう1人選ばないといけない」
出向。つまり、直接スタンドアップの本社に出向き仕事をしなければならない。
「スタンドアップの仕事だろ?。簡単な仕事だ。うちの人間なら業務手順も理解しているし暇そうな社員を適当に選べばいいだろ」
徹がそういうと小谷は含みのある笑みを浮かべた。
「あいにく、今手を持て余している奴はお前以外には1人しかいなくてな」
「おい、まさか...」
「簡単な仕事なんだろ。だったら足手まといが1人いても問題ないよな?」
手を持て余していて、足手まとい。徹が思い浮かべた社員は1人だけだった。
「綾ちゃんとのデートを楽しんで来い。色男ー」
徹の普遍の日常は早くも崩れ去ろうとしていた。
誤字脱字等あればご指摘のほどお願いします




