異常顕現
声が、出ない。金縛りにあったみたいに体が動かない。 心すら恐怖に支配されて、動けない。
泣きそうだった。
カツン。
「!?」
金属がぶつかるような音が聞こえた。それにその音は近づいている。
恐怖が一気に膨れ、優輝は動くことが出来た。すぐに診察室を出て来た道を戻る。焦りと恐怖でいっぱいで、ただ走ることだけ考える。
「はあ、はあ!」
だけど、さっきの天井が脳裏から離れてくれない。多くの死体、それもただの死体ではない。あり得ないくらいの凄惨さだった。
(何だよあれ!? どうなってるんだ、なんだよこの病院!?)
分からないこと、あり得ないことが多すぎる。
「があ!」
突然、足の感覚が消え体が前のめりに倒れ両手を突き出す。だが、両手は廊下をすり抜け床が目の前に迫ってきた。
「な!?」
衝撃はなく、一瞬の闇の後優輝は廊下に激突した。
「ぐうう!」
なにが起こった? 全身が痛いが怪我はない。なんとか立ち上がった。
「何だよ、いったい……」
痛む肩を擦りつつ天井を見上げる。 確かに今、この天井から落ちてきた。廊下をすり抜けて。
辺りを見回すと少し先に窓がある。月の光がそこだけを照らし地下じゃないと分かる。窓に近づき、外を覗いてみる。
「……なんで」
その光景に、立ち尽くす。
木々が上から見下ろせた。病院の敷地を眺め、視線を端にやると自分が停めた駐輪所が見える。
自分がいるのは、三階だった。
ずるずると後ずさり窓から離れる。
ここでようやく気づいた。いや、本当は最初から気づいていた。気づいていて気づかないふりをしていたんだ。
自分は、この病院に捕まった。まるで口を開けて獲物を待つ怪物に、自ら飛び込んだように。
この異常に、囚われたんだ。
「何だよ、これ……」
荒唐無稽、まさに悪夢だ。非現実的な空間。現実が汚染された、悪夢の病院だ。
知らず、優輝は泣いていた。怖くて息が上がり、体が震える。気を抜けば叫んでいたかもしれない。 それも当然だ、こんな場面にあって竦む者を誰が責められる? 怖い。怖いに決まっている。
「う、うう」
すすり泣きが廊下に響く。優輝の心はすでに折れる一歩手前の状態で、すでに恐怖に飲み込まれていた。
だけど。
『優輝ならなれるわ、立派なお兄さんに』
優輝は、涙を拭った。
『約束よ』
怖い。今だって怖い。でも、愛羽が助けを呼んでいる。一度は死を覚悟した。 それならなんだ、異常くらい。恐怖くらい。
彼女を守る。今度こそ、絶対に。
歩き出した。一歩進むたび、愛羽に近づいていると信じて。
優輝は暗い廊下を進んでいった。不安に押し潰されそうな心に耐えて、ただひたすらに。それはなぜ? 死ぬほど怖いのに、逃げることよりも前へと行くことだけ考えている。
それは、優輝にとって、それだけ愛羽が大切だから。その思いだけが、この恐怖に立ち向かう唯一の武器だった。
震える心が何度も無理だと弱音を言うけれど、その気持ちだけで前へと進む。
そんな優輝に、それは現れた。
「え」
それはいったいなんと称すればいいのか、恐怖しかないと思った。不安しかないと思った。そこには味方はおろか、誰もいない、そんな場所で。
廊下の壁に、一本の花の絵が描かれていた。色鉛筆で描かれたそれは大きな黄色い花弁に緑色の葉っぱと茎。その茎が曲がり花が道を示しているようだ。
(花の、矢印?)
なんとも不思議な絵だ。不気味な病院にこの絵だけが平和で、なにより、昔に愛羽が書いてくれた絵と同じだ。
「愛羽……?」
この絵に、優輝の恐怖心が少しだけ和らいだ。自分は一人じゃない。それは希望的観測で根拠のない思い込みだけど、それでもいい。
そう信じて、優輝は花の示す方へと歩いていった。そこに迷いなんてない。
そうして歩くと階段が見えてきた。おかげで二階にたどり着くことが出来た。
(よし)
あの花は本当に愛羽が案内してくれたものなのか、それは分からないけれど、優輝は胸の内で彼女に感謝した。