母との約束
金色の髪を持つ優しい母が、沓名優輝は大好きだった。四歳の頃、ソファに座る母の隣に並び最近特に膨らんだお腹に耳を当てている。
「どう、聞こえる?」
「ううん、聞こえない」
母の体内に宿る新しい命。音はしないけれどそこに自分の妹がいる。四歳の優輝にはそれがどんな意味を持つのかまだよく分からない。妹が出来たら何が変わるんだろう。 そう考えているとお腹から小さな衝撃が伝わってきた。
「動いた!」
顔をぱっと輝かせ母を見上げた。
「ええ。動いたね」
妹がいる。お腹の中の赤ちゃんに驚きと小さな感動が湧き上がる。
「優輝はお兄さんになるんだから、ちゃんと守ってあげなきゃ駄目よ?」
「そうなの?」
「そうよ。お兄さんなんだから」
見下ろす母はそう言って微笑んだ。生まれてくる妹だけでなく、目の前の我が子にも愛情を込めて。
「優輝ならなれるわ、立派なお兄さんに」
その言葉の意味も、母の期待も、今の優輝にはピンとこなかった。
「約束よ」
そして、母は帰らぬ人となった。新たな命と引き換えに。
病院の待合室、長椅子の隣で父が泣いていた。なぜ泣いているのか不思議だったが、聞けなかった。聞いてはいけない気がして。父の悲しみは話しかけることさえためらわせるほど深かった。
母が死んだと分かったのはそれからずっと後のことだ。自分に残されたのは妹と立派なお兄さんになるという約束だけ。
母がいないなら、この子は自分が守らなきゃ。幼い心に優輝は固く誓っていた。
それから、優輝と妹・沓名愛羽との暮らしが始まった。父は仕事で帰りが遅く愛羽の世話は自然と優輝の役目になった。世間から見ればまだ子供だがそんなのは関係ない。
赤ちゃんの愛羽を抱き上げる。落とさないよう気をつけるが愛羽は無邪気に手を伸ばし頬を触ったり耳を引っ張ってくる。
「痛いって」
それから愛羽が一歳になった。母譲りの金色の髪が少しずつ伸び、積み木で遊ぶ愛羽はお気に入りのお城を組み上げていく。遠くのパーツを取ろうと立ち上がるがつまずいて大泣きしてしまう。
「ほら、これだろ?」
欲しがっていたパーツを渡してやる。すると愛羽は泣き止みお城を完成させた。さっきまでの涙が嘘のような無邪気な笑顔に優輝はやれやれと小さく笑う。
やがて時が流れ、優輝は中学生、愛羽は小学生になっていた。
「お兄ちゃん!」
愛羽はすっかりお兄ちゃん子に育ち、何かあれば優輝を頼ってきた。
「ねえ、お兄ちゃんって二重飛びできる?」
「できるよ」
「見せて見せて!」
せがまれて家の外へ出る。優輝は縄跳びで二重飛びを披露し、愛羽はヒーローを見るような目で眺めていた。
「お兄ちゃんすごい!」
「愛羽も練習すればできるよ」
「できるかな」
「教えるよ、大丈夫。練習すればできるって!」
それから愛羽の練習が始まり、日が沈んで辺りが暗くなり始めた頃だった。
「できた!」
「やったな! すげーぞ愛羽!」
初めて二重飛びができた愛羽は喜び、優輝はその姿を盛大に褒めた。
別の日、愛羽は絵を描いていた。色鉛筆を画用紙に滑らせ優輝は背後から覗き込む。
「何描いてるんだ?」
「んー」
愛羽は絵を持ち上げ、笑顔で見せてくれた。
「私とお兄ちゃん」
そこには黄色の花が咲く場所に二人の姿が描かれていた。手が重なる子供らしい絵。優輝は愛羽より大きく、二人とも笑っている。
「これ俺か?」
「そうだよ、お兄ちゃんにあげるね」
「いいのか? ありがとな」
改めて絵を見つめる。自分とは思えない少年が花畑に囲まれ、けれど二人は幸せそうに笑っていた。 自然と、自分まで笑顔になる。
幸せだった。裕福ではなかったけれど、自分も愛羽もこの時間を笑顔で過ごしていた。
二人の間に溝が生まれたのは、突然だった。