8.追手
夕闇迫る岩礁──潮風が鋭く吹きすさぶ中、漆黒の巨影が海から飛来し、轟音とともに岩場に降り立った。
ヤロミールは竜の姿のまま翼を畳み、ミラーナを背にしっかりと護るように立つ。
ミラーナは彼の鉤爪から軽やかに飛び降り、波に洗われた岩の冷たさに素足を震わせた。
「どうしたいかは、任せる。ただ、いざとなれば──」
ヤロミールの低い咆哮が岩を震わせ、赤い炎が口から迸って遠ざかる軍船の船尾をかすかに焦がした。
その炎の光に照らされた騎士団は慌てて後退する。
「ありがとう。すこし怖いけど、あなたと一緒なら平気」
蒸気が晴れると、甲板の中心に一人の男の影が見えた。
立つのはオレクサンドル・ヤロスラヴォヴィチ、伯爵家嫡男──ミラーナの政略結婚の相手だった。
軍服の金襟が威厳を強調し、その瞳には冷たい野心が宿っている。
「ミラーナ……こんなところにいたのか」
オレクサンドルは慇懃に言い放つ。
ミラーナはヤロミールの鱗にそっと指を這わせた。
「もう、あなたの駒として利用されるつもりはありません。政略結婚の相手としてしか見てくれない人のもとには、戻りません」
オレクサンドルの口角がわずかに歪む。
「駄目だ。婚礼の契りは両家の安定を左右する。君が戻らぬなら、この場で取り戻すまでだ」
「…いい加減にしろ」
その一言を──オレクサンドルは最初、竜の低い唸りと聞き違えた。
しかし、ヤロミールの前脚がゆらりと変化を始めたとき、ようやく事の重大さに気づく。
鱗が剥がれ落ち、翼が縮み、人の背骨と肋骨が音もなく軋んで元に戻っていく。
たちまち竜の姿は消え失せ、そこに立っていたのはアイスブルーの瞳をもつ野性的な青年──ヤロミールその人だった。
ミラーナが手にした布を纏うと、彼は彼女の腰をしっかりと抱き、一歩踏み出した。
オレクサンドルは思わず目を見開き、剣を抜く手を止めた。
「人──竜が、人の姿に?」
ヤロミールは大きく息を吸い、ゆっくりと胸を張った。
「そうだ。俺は…最後の竜族だ。かつての勇者に殺された竜は俺の父だった」
言葉が岩礁をこだまし、波打ち際の潮騒が遠のいたかのように感じられた。
ヤロミールは俯き、波立つ水面を見つめながら、静かに、しかし確かな声で呟いた。
「かつては、俺も思っていた。竜が人に討たれるなら、それも仕方のないこと──怪物として葬られるのが当然だと」
刃のような言葉は、自らを責める痛みを孕んでいた。
「だが、ミラーナと出会ってから、何かが変わった。君の声が、君の歌が、俺の世界を揺るがした。その瞬間、俺は確かに──生きていたかった」
ヤロミールはゆっくりと顔を上げ、ミラーナを見つめる。
その瞳には揺るぎない覚悟が宿っていた。
「君のためなら、この身を捧げよう。君の自由を奪おうとする者がいるなら、俺がその刃を受け止める。そのためなら──この火の島のすべてを焼き尽くすことすら厭わない」
オレクサンドルは青ざめながらも剣を握り締めた。
「竜め……なんという真似を! ミラーナを返せ!」
その言葉にミラーナはヤロミールの腕をしっかりと握り返す。
「もう戻りません。私は──ヤロミールといるとき、本当の自由を感じるの」
「ミラーナ! お前はその竜に騙されているんだ!」
オレクサンドルの声が鋭く響いた直後、ヤロミールは一歩踏み出し、彼を睨みつける。
「お前は彼女の何を見てきた──ただの駒としてしか扱わず、心の一片も知らぬくせに!」
凛としたその声の後に、再びヤロミールは低く告げる。
「俺は、この火の島を──自由に操れる」
ヤロミールの声が地を這う。
「炎の水でその船を溶かすことも、容易いことだ」
噴出したマグマが波間を照らし、船影の輪郭を赤く染める。
ミラーナは思わず目を閉じたが、ヤロミールの次の言葉が突き刺さった。
「帰れ……ここには二度と来るな」
ヤロミールが腕を掲げると、風が烈しさを増した。
「さもないと……」
瞬時に竜の姿に戻った彼は深い咆哮をあげ、炎のブレスを軍船に向けて吐き散らした。
青白い焔が帆柱に触れ、甲板を焦がし、兵士たちは慌てて後ずさった。
軍船は急ぎ帆を揚げ、離脱を始める。
彼らは遠ざかっていった。
ヤロミールはそれを見届けながら、再び人の姿に戻り、ミラーナを抱きしめた。
オレクサンドルの足取りは重かった。
帆柱を下ろす兵士たちの喧騒が遠ざかるにつれ、彼の胸中には冷たい敗北感が広がる。
誇り高き伯爵家の嫡男としての威厳は土砂のように崩れ落ち、軍靴は自ら命じた退却を呪うかのように甲板を叩き続ける。
焦がされた甲板を踏みつけながら、自分の矜持が踏みにじられるのを感じていた。
帆が完全に畳まれ、船影は波間へと溶けていった。
オレクサンドルは最後の一歩を踏み出す前に、もう一度だけ岩礁の彼方を見つめた。
そこには──満ち足りた笑顔を浮かべるミラーナと、彼女を腕に閉じ込めたヤロミールの姿があった。
「──フン」
呟くように吐き捨てた息は、静かな海風にさらわれ、何事もなかったかのように消え入った。
それから彼は振り返ることなく、軍船は霧の海へと消え、夕陽に染まる岩礁に静寂が戻った。
ミラーナはヤロミールの胸に顔を寄せ、震える声で言った。
「本当に……すごいわ。あなたのおかげ」
ヤロミールはそっと顔を上げて応える。
「……君を守るためなら、何だってする」
ミラーナはその胸に飛び込み、小さく頷いた。
「私はあなたを、心から信じる」
波音を遠くに感じ、夜の闇が二人を優しく包み込んでいった。
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