7.翼の戯れ
「変身するときって、苦しいの?」
焚き火の赤い光が揺れる夕暮れの住処で、ふとミラーナが問いかけた。
貝殻を手にしていたヤロミールは、少し考えるように眉をひそめ、それからそっと頷いた。
「……ああ。これまでは、いつも痛みと恐怖が伴っていた。骨が軋むように変形して、皮膚が破れそうになって、何もかもを忘れそうなほどに」
その声には、過去を思い返す苦みが滲んでいた。だが、続けて彼は、ふっと口元を緩めた。
「でも、今は……不思議とすんなり変われそうな気がする。体の奥の何かが整っているような気がして」
ミラーナは目を見張った。
「じゃあ……試してみましょうよ。今なら、大丈夫かもしれないでしょう?」
ヤロミールは驚いたように彼女を見た。だが、その瞳には微かな期待も浮かんでいた。
「……いや、でも……」
「私が、どうにかなっちゃうとでも思ってる?」
ミラーナはくすっと笑った。
「心配しすぎよ、あなた」
ヤロミールは真剣な眼差しで彼女を見つめると、立ち上がって岩場の方へ向かった。
「じゃあ、念のため……この岩陰にいてくれ。変身が終わるまで絶対に出てきちゃだめだ。何があっても。わかったね?」
「わかったってば」
ミラーナは肩をすくめるように笑い、岩陰にしゃがみ込んだ。
「……意識が保てたら、合図を送る。二回頷いて、三回まばたきする」
「合図、了解」
「それと……服が破れると厄介だから」
そう言って、ヤロミールは腰に巻いていた布をすっと下ろした。
「ちょ、ちょっと待って!? 服を脱ぐならそう言ってよ!」
ミラーナは慌てて目をそらし、顔を真っ赤に染めた。
「……す、すまない……今まで誰もいなかったから……」
「もう……」
あわてて背を向けるヤロミールに、ミラーナは小さく笑ってしまった。
彼は深く息を吸い込み、ゆっくりと膝をついた。
次第に彼の背が伸び、肩が広がっていく。
肌が黒く硬質に変わり、背骨に沿ってうねるように棘が現れる。
音もなく生えた翼が風を孕み、巨大な影を落とした。
竜の姿になった彼は、じっとミラーナの方へ顔を向け、二度頷き、そして三度、瞳を閉じて開いた。
ミラーナはそっと岩陰から出て、竜の前へと歩み寄る。
まるで島の岩肌のようにごつごつとした鼻先に、彼女の手が静かに触れた。
「あなた……ちゃんと、そこにいるのね」
竜が微笑んだ気がした。
毛皮と丈夫な紐を持ってきた彼女は、竜の鉤爪にまたがるように腰を据え、丁寧に身体を固定する。
「私……あなたと、空を飛びたい。ダメ?」
竜の目が、かすかに細められた。
──そして、そっと地を蹴る。
視界に広がったのは、藍色に波打つ海面と、緑の森のモザイク。
下を見下ろせば、ヤロミールの背を縫う黒い鱗が太陽の光をきらりと反射し、まるで天空の漆器のようだった。
「わあ……!」
ミラーナは思わず歓声を上げた。
風が髪を巻き上げ、潮の香りと草いきれの混じる匂いが頬をくすぐる。
ヤロミールは低く咆哮するように唸り声をあげ、翼を大きく広げて滑空した。
まるで絵画の中を飛んでいるかのような錯覚に包まれる。
「見て、ヤロミール! あの森がまるで木の絨毯みたい!」
ミラーナが指さす先には、島の密生した森がパッチワークのように広がっている。
岬から潮をかぶる岩場、白波が砕ける岬も、まるでミニチュアの模型のようだ。
ヤロミールはゆったりと翼をはばたかせながら、ミラーナに穏やかな視線を投げかける。
「楽しいか?」
低く響く声に、ミラーナは目を丸くした。
「えっ……喋れるの?」
「……俺も、驚いている。竜の姿で喋れるとは思っていなかったんだ」
ヤロミールはほんの少し首をかしげた。
言葉を交わす相手もなく、長らく喋る必要もなかった。
「そうなんだ。でも、嬉しい。あなたの声を、ちゃんと聞けるもの」
ヤロミールは翼の拍動をゆるめ、ミラーナを乗せたまま静かに旋回する。
その度に波音が遠ざかり、二人だけの世界が広がっていく。
「こんなに空が近いなんて……」
ミラーナは胸いっぱいに風を吸い込み、心が解き放たれるのを感じた。
ヤロミールの眼差しは、すべてを受け止めるように優しかった。
再び旋回を終え、高度を保ったまま少しだけ飛行を続ける。
しかし、視界の隅にひと際はっきりとした影が見えた。
潮の霧の切れ間から浮かび上がる、幾つもの帆柱――
軍船だった。
ミラーナの胸は強く締めつけられた。
「オレクサンドル……来たのね」
波間に並ぶ艦隊を見下ろしながら、ミラーナは小さく呟いた。
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