5.泡沫
朝の陽光が住処の入り口を照らしていた。
棚の脇に、弓と矢が立てかけられているのを見つけたミラーナは、思わず目を輝かせた。
「この弓、使わせてもらえる?」
ヤロミールは頷き、丁寧に弓を手渡した。
「ああ、もちろん。しかし君が?意外だな」
「まあ見てて。これでも弓の名手なの」
手に馴染む弓の感触に胸が高鳴り、ミラーナはすぐに外へと向かった。
「あのウミガラスを見てて」
岸辺を飛ぶ鳥を狙い、弓を引き絞る。
潮風が頬を打ちつける中、矢は──
──ヒュッ。
見事に野鳥の翼を貫き、ウミガラスは砂浜に落下した。
息をつくミラーナに、ヤロミールは賞賛の声をあげる。
「すごい……本当に上手だ!」
ミラーナは照れくさそうに笑い、静かに頷いた。
「恩返し、できたかしら?」
「十分すぎるほどだ」
そのひとときが、二人の心をさらに近づけた。
波打ち際で戯れたあと、ミラーナはふいに思いついたようにヤロミールを見上げた。
「ねえ、ヤロミール」
声をかけられた彼は振り返る。
ミラーナは手ですくった海水をはずみよくかけた。
──バシャッ。
冷たい水がヤロミールを濡らし、彼は驚きの声を上げた。
「やったな!」
すぐに返しの一発が飛んできて、ミラーナはきゃっと声を上げながらも砂浜を駆け出す。
ヤロミールも笑顔で追いかけ、二人は歓声を上げながら浜を走り回った。
やがて息を切らし、手を取り合って砂に座り込む。
「ちょっと休もうか」
ノーチカは二人の間をくるくると走り回り、小さな足跡を砂に残した。
潮騒だけが耳に残る静かなひととき。
ミラーナはそっとヤロミールの肩に頭を預け、安心感に目を閉じた。
彼の体温が伝わり、二人の鼓動が重なるような気がした。
ふと、彼の横顔をのぞき込むと、ヤロミールも黙ってミラーナを見つめていた。
アイスブルーの瞳が温かい表情を帯びる。
その瞬間、まるで炎が灯るかのように、彼の瞳は真紅に染まった。
「……ヤロミール?」
最初に感じたのは戸惑いだった。
だが、次の瞬間、彼の眉がひそめられ、指が自らの腕を掻きむしるように動き始めた。
「……っ、く……!」
声にならない呻きが彼の喉から漏れる。
皮膚が薄く波打ち、そこに鱗のようなものが浮かび上がってくる。
ミラーナの心臓が跳ねた。
「あなた……鱗が……」
彼女の呟きに、ヤロミールはハッとした。
自らの変化にようやく気づいたように、目を見開く。
そして、咄嗟に数歩、彼女から距離を取った。
「来るな!」
鋭く、しかし苦しげな声が空気を裂いた。
ミラーナは足を止める。
「大丈夫? ねえ、ヤロミール……!」
心配に満ちた声。
だがヤロミールはそれに応えることもできず、今度は腹部を抱え込むようにして膝をついた。
「う……ぁ……っ!」
その顔が、苦悶にゆがむ。
両手で頭を抱え、髪をかき乱し、喉の奥から獣のような唸りが漏れる。
背中がぐらりと反り、皮膚の下で何かがうごめく。
「やめて……お願い……」
ミラーナが一歩近づこうとすると、彼はその声をさえぎるように、全身を震わせながら叫んだ。
「近づくな!!」
叫ぶのも苦痛を伴っているのか、言葉が喉の奥で潰れ、血がにじんだように聞こえる。
手の甲にはすでに鱗が浮かび、腕の筋が盛り上がり、指の骨格が変形していく。
「く……っ、ここじゃ……だめだ……ッ!」
身体を引きずるようにして彼は立ち上がる。
肩が震え、背骨が引き伸ばされるように軋んだ音がする。
ミラーナは目の前の青年の変化に、ただ立ち尽くしていた。
「ヤロミール……連れてこられたって、嘘だったの……? あなた……何なの……?」
その声には失望と恐れと、信じたかった心の叫びが入り混じっていた。
だが、ヤロミールは彼女に返す言葉を持たなかった。
ただ、唇を血で濡らしながら、かすかに首を振った。
そして次の瞬間――
青年の体が大きく震えたかと思うと、背中が破れ、巨大な翼が生えた。
ミラーナが息を呑む間に、全身がうねるように変形し、あの夜、空を裂いて現れた巨大な竜の姿がそこにあった。
竜は、呻くように低く唸った。
そして、翼をひとたび打ち下ろすと、巻き上がる風と共に空へ舞い上がった。
その姿は、悲しみをまといながら、孤独に夜空へと消えていった。
残されたミラーナは、ただ呆然とその空を見上げていた。
胸の奥が、冷たく軋んでいた。
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