2.断崖の花嫁
ヨゼファが遠ざかるのを確認してから、ミラーナはそっと鏡の前を離れ、扉へと歩み寄った。
回廊には花の香と香油の残り香が漂う。
絨毯の上を静かに足を運ぶと、廊下の端にメイドの影が見えた。
一瞬ためらったが、ミラーナは肩を張り、何気ないふうを装って声をかけた。
「書庫に本を取りに行きたいの。式典の間に読むものが何かほしくて」
メイドは困った顔をしたが、令嬢の気まぐれに抗える立場ではない。
「……承知いたしました。けれど、お急ぎになってくださいませ」
「ええ、すぐに戻るわ」
ミラーナはそっと頷き、足早に石造りの廊下を進む。
書庫へ向かうふりをしながら、そのまま反対の階段を下り、邸宅の北側へと身を滑らせた。
朝の光が淡く差し込む中庭を横切り、人通りの少ない裏庭へ抜けた。
屋敷の北門は古く、かつて祈りの道として整備された小道に通じている。
石の縁はところどころ風化していたが、今日は祝宴のために辰砂の粉が撒かれ、深紅に染まっている。
「保護の石」と言われる辰砂を砕いた粉を撒くのは、厄除けのためなのだという。
赤い小道は、婚礼の朝ならでは不思議な鮮やかさを放っていた。
風が頬を撫で、髪が風にほどける。
身体が少しずつ、軋むような拘束から解き放たれてゆく気がした。
ミラーナは大胆に裾を持ち上げて走り出した。
裾を持ち上げ、胸を締めつけるコルセットに息を詰まらせながらも、走った。
かつて子供のころ乳母と手を繋いで歩いた道を、今はひとりで。
空はまだ眠たげな薄青色をしている。
潮の混じった風に乗って、草や花の匂いがかすかにする。
彼女の目指す場所は決まっていた。
北の断崖の先、湖を見下ろす祈りの地。
かつて乙女が竜に捧げられたと語り継がれ、今はもう忘れ去られた聖なる場所。
幼い頃に乳母から聞いた子守唄を思い出す。
乙女が竜に祈りを捧げると、その歌声に応えて竜が空を舞うというおとぎ話。
おとぎ話のような出来事を期待しているわけではない。
ただ、未来を誰かに決められるのではなく、自分自身の声で想いを届ける自由がほしいと願ってしまうことが、傲慢なのだろうか。
公爵令嬢の自分には、本来その自由などないはずなのに。
それでも、今だけは──たとえかなわぬ夢でも、歌ってみたいと思った。
細い声で、震えながら歌い始める。
竜よ 空を裂くものよ
乙女の祈り いまひとたび聞きたまえ
この身を捧げ この声を届けん
ただ一度 空を渡れるその影よ
我が願いを 紅き焔に乗せて
音程は曖昧で、歌詞も断片的だった。
けれど、風が一瞬ピタリとやみ、湖面が静まった気がした。
その瞬間、大地がかすかに震えた。
足元の石が軋み、唸るような熱風が頬を打つ。
次の瞬間、空を裂く咆哮が響いた。
暗雲を切り裂いて、漆黒の巨影が天上から舞い降りる。
巨大な翼が空気を引き裂き、鈍く光る黒い鱗が陽光を遮った。――そして、赤い眼が光った。
地上に降り立つ寸前、ミラーナはその赤い目と視線が合った気がした。
深い井戸の底を覗き込むような、異様な静寂。
胸の奥まで凍りつくような、決して人ではない存在の眼差し。
地上に降り立つ直前、ミラーナはその赤い眼と視線が合った気がした。
深い井戸の底を覗き込むような異様な静寂と、胸の奥まで凍りつくような恐怖。
次の瞬間、鋭い黒爪が風を切り、鉄のように太い脚がミラーナの身体を絡め取った。
唖然とする暇もなく、ミラーナは宙に浮かび、地面が遠ざかる。
邸宅の方角からは人々の悲鳴と怒声がこだましているが、ミラーナの耳には遠く、別の世界の出来事のように思えた。
風が肌を裂く。
空が震える。
いま、彼女は風のなかにいた。
運命に攫われて。
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