表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/9

2.断崖の花嫁

ヨゼファが遠ざかるのを確認してから、ミラーナはそっと鏡の前を離れ、扉へと歩み寄った。

回廊には花の香と香油の残り香が漂う。

絨毯の上を静かに足を運ぶと、廊下の端にメイドの影が見えた。

一瞬ためらったが、ミラーナは肩を張り、何気ないふうを装って声をかけた。


「書庫に本を取りに行きたいの。式典の間に読むものが何かほしくて」


メイドは困った顔をしたが、令嬢の気まぐれに抗える立場ではない。


「……承知いたしました。けれど、お急ぎになってくださいませ」

「ええ、すぐに戻るわ」


ミラーナはそっと頷き、足早に石造りの廊下を進む。

書庫へ向かうふりをしながら、そのまま反対の階段を下り、邸宅の北側へと身を滑らせた。

朝の光が淡く差し込む中庭を横切り、人通りの少ない裏庭へ抜けた。


屋敷の北門は古く、かつて祈りの道として整備された小道に通じている。

石の縁はところどころ風化していたが、今日は祝宴のために辰砂の粉が撒かれ、深紅に染まっている。

「保護の石」と言われる辰砂を砕いた粉を撒くのは、厄除けのためなのだという。

赤い小道は、婚礼の朝ならでは不思議な鮮やかさを放っていた。


風が頬を撫で、髪が風にほどける。

身体が少しずつ、軋むような拘束から解き放たれてゆく気がした。


ミラーナは大胆に裾を持ち上げて走り出した。


裾を持ち上げ、胸を締めつけるコルセットに息を詰まらせながらも、走った。

かつて子供のころ乳母と手を繋いで歩いた道を、今はひとりで。


空はまだ眠たげな薄青色をしている。

潮の混じった風に乗って、草や花の匂いがかすかにする。


彼女の目指す場所は決まっていた。

北の断崖の先、湖を見下ろす祈りの地。

かつて乙女が竜に捧げられたと語り継がれ、今はもう忘れ去られた聖なる場所。


幼い頃に乳母から聞いた子守唄を思い出す。

乙女が竜に祈りを捧げると、その歌声に応えて竜が空を舞うというおとぎ話。

おとぎ話のような出来事を期待しているわけではない。

ただ、未来を誰かに決められるのではなく、自分自身の声で想いを届ける自由がほしいと願ってしまうことが、傲慢なのだろうか。

公爵令嬢の自分には、本来その自由などないはずなのに。

それでも、今だけは──たとえかなわぬ夢でも、歌ってみたいと思った。

細い声で、震えながら歌い始める。


竜よ 空を裂くものよ

乙女の祈り いまひとたび聞きたまえ

この身を捧げ この声を届けん

ただ一度 空を渡れるその影よ

我が願いを 紅き焔に乗せて


音程は曖昧で、歌詞も断片的だった。

けれど、風が一瞬ピタリとやみ、湖面が静まった気がした。


その瞬間、大地がかすかに震えた。

足元の石が軋み、唸るような熱風が頬を打つ。


次の瞬間、空を裂く咆哮が響いた。

暗雲を切り裂いて、漆黒の巨影が天上から舞い降りる。

巨大な翼が空気を引き裂き、鈍く光る黒い鱗が陽光を遮った。――そして、赤い眼が光った。

地上に降り立つ寸前、ミラーナはその赤い目と視線が合った気がした。

深い井戸の底を覗き込むような、異様な静寂。

胸の奥まで凍りつくような、決して人ではない存在の眼差し。


地上に降り立つ直前、ミラーナはその赤い眼と視線が合った気がした。

深い井戸の底を覗き込むような異様な静寂と、胸の奥まで凍りつくような恐怖。


次の瞬間、鋭い黒爪が風を切り、鉄のように太い脚がミラーナの身体を絡め取った。

唖然とする暇もなく、ミラーナは宙に浮かび、地面が遠ざかる。

邸宅の方角からは人々の悲鳴と怒声がこだましているが、ミラーナの耳には遠く、別の世界の出来事のように思えた。


風が肌を裂く。

空が震える。


いま、彼女は風のなかにいた。

運命に攫われて。


お読みいただきありがとうございます。

よろしければ広告下の「☆☆☆☆☆」から応援いただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ