1.鏡の中のミラーナ
森の静寂を切り裂くように、ミラーナの弓が絃を震わせた。
まだ夜が明けきらない空は薄墨を引いたように暗く、森は深い緑の影に包まれている。
七歳の少女は父公爵ヴラディスラフに教わった通り、矢羽のわずかな揺らぎを感じ取り、風の流れを読み、心を澄ませた。
期待と緊張が高鳴るなか、彼女は息を整える。
──ヒュン。
矢は疾く飛び、高く細い、矢音が小鹿の背を裂いた。
草いきれがゆらめき、獲物は一瞬、動きを止め、小さく震える。
少女は冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、弓をそっと緩める。
控えめな歓声をあげると、父の誇らしげな笑顔が視界に飛び込んできた。
「すごいぞ、ミラーナ!」
「父上、やりました……!」
矢筒から新たな矢を取り出し、栗毛の髪をかき上げる。
朝露を含んだ髪がきらりと光り、少女は紅潮した頬を緩ませた。
父はひと呼吸置いて馬を引き寄せ、穏やかな声で告げる。
「見事な矢筋だ。お前の目は祖父譲りかもしれぬな」
ミラーナはほっと息を吐き、胸に確かな高揚を感じた。
獲物と対峙し、自分の力でこの瞬間を手にしたのだ──幼いながらも深い喜びを噛みしめる。
「もう少し狩りを楽しみたいところだが……」
父の言葉に、ミラーナは駆け寄り、弓を肩に掛けた。
「どうか、もう一矢だけ。ねえ、お願い、父上」
だが父は馬に跨ったまま、冷ややかな笑みを浮かべる。
「今日は宴がある。遅くなれば、お前の婚約者にも顔向けできんぞ」
その言葉に、ミラーナの胸は凍りついた。
誇り高き令嬢の婚約式──十年後の未来へと続く重責の第一歩が、ここから始まるのだ。
「……わかりました」
少女は深く頷き、矢筒を背に戻した。
頭の中ではまだ狩りの興奮が熱を帯びているのに、現実の重みに押し潰されそうになる。
心に残る自由の残照を胸に抱え、父と共にゆっくりと森を後にした。
その日の朝露と冷たい風の感触は、いつまでも彼女の記憶に残り続けた。
◇◇◇
それから十年の時が流れ、公爵家の令嬢ミラーナは十七歳となった。
霞たなびく春の朝、豪奢な邸宅は祝宴と婚礼の高揚に包まれている。
銀の燭台が並ぶ廊下、石畳には赤い絨毯が敷かれ、メイドたちが花弁を撒く手が忙しく動く。
ミラーナは鏡の前に立たされていた。
コルセットが背中に食い込み、身体が締めつけられる。
侍女ヨゼファが手際よくリボンを引き、飾り紐を整えていくたびに、少女の呼吸は浅くなっていった。
「お嬢様、コルセットをもう少しだけ引き締めます。」
「苦しいわ。ヨスファ……これ以上は、無理」
侍女ヨゼファは容赦なくリボンを引き絞る。
肋骨が軋むようだった。
「我慢なさって。これもすべて、貴女様の未来のためです」
白く透けるドレスには銀糸が織り込まれ、太陽に照らされてさざ波のように揺れている。
柔らかく波打つ髪は花蜜で香りづけした櫛が通され、真珠の首飾りが喉元を彩る。
ミラーナはゆっくりと胸のあたりを押さえ、浅い呼吸を整えた。
皮膚に絡みつく首飾りと、顔を刺す白粉の匂いが気分を悪くしそうだった。
ミラーナは唇を噛んだ。
鏡の中にいるのは、野山を駆け回っていた頃の自分ではなかった。
煌びやかな衣装に包まれた公爵家の一人娘、ミラーナ・ヴラディスラヴナ・ドラゴミールスカ。
その名さえ彼女の体を縛る鎖のように思えた。
婚約者はオレクサンドル・ヤロスラヴォヴィチ。
剣の名手で竜退治の英雄の孫、由緒ある伯爵家の長男である。
多くの者がその相手を祝福し、彼こそ後継者としてふさわしいと口を揃えていた。
だが、ミラーナの胸は高鳴らない。彼の微笑みを思い出しても、心は冷え切っていた。
オレクサンドルの視線はまるで自分を値踏みするような冷ややかさに満ちている。
彼が自分と結婚すれば、次期公爵の地位が転がり込むことを知っているからだろう。
貴族に生まれた以上、愛だけで結婚を決めることはないとわかっていた。
だからこそ、好きでもない相手との婚約が決まったときも、心のどこかで納得していたつもりだった。
与えられた相手の良いところを見つけて、日々を穏やかに送る──そう自分に言い聞かせたはずだった。
けれどこの数日間、婚礼の準備に追われるうちに、ミラーナの心は少しずつに削られていた。
華美に着飾られ、外出もままならず、手を引かれて歩き、決まり文句のような祝辞を交わされる日々。
そんななかでふと、空想をしてしまったのだ。
自分のために剣を抜き、命を賭して竜と戦ってくれるような人が、世界のどこかにいてくれたなら──。
そんなおとぎ話にほんの一瞬だけでも縋りたかった。
もちろん、そんな願いを誰かに聞かれればヨゼファには「お嬢様はいつまでも夢見がちで」と笑われるだろう。
笑われてもいい、と思った。
ふと、ミラーナは昔のことを思い出した。
母を亡くし、まだ屋敷の奥で泣いていたころ、父が手を引いて森へ連れて行ってくれたあの日々。
女である自分に弓を教えてくれたのはなぜだったのだろう。
父の手のぬくもり、優しいまなざし、言葉ではない行動で示された信頼……。
あの時間だけが確かに、家族の温もりを感じられるときだった。
しかし、ミラーナが成長するにつれて、淑女としての教育は次第に厳しくなり、ドレスの裾が揺れるたびに父との距離は遠ざかっていった。
今ではもう、あの頃のように父がミラーナの目を見て笑うこともない。
あの時のように、ただ一人の娘として扱ってくれることも。
「ヨスファ。お願い、一人にして。少しだけ……ほんの1時間でもいいから」
「でも、準備が……」
ミラーナの声には必死さがにじんでいた。
ヨゼファが困惑した顔で手を止めると、彼女はさらに強く頼んだ。
「お願い」
ヨゼファは迷いを見せたが、ミラーナの切実な願いに、深く息をついて頷いた。
「わかりました。ただし、外には出られませぬよう……」
けれど、ミラーナはその言葉を守るつもりはなかった。
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