5 -変煙水晶
5 -変煙水晶
(絶対に良い成績を収める。
レオン兄さんとディナミス兄さんに必ず認めてもらうんだ)
「ジュナ様、到着いたしました。ご同行ください」
サルウィンの合図にジュナは頷き、勢いよく馬車を降りた。
「引率はここまでです。武芸稽古の日程は、時間割が決まり次第ご連絡いたします」
そう告げると、サルウィンの鷹のような鋭い目が一瞬だけ揺れ、普段の威圧的な冷たさがほんのわずかに失われた。
「行ってらっしゃいませ」
深く頭を下げたサルウィンに、ジュナは「行ってきます」と返し、教会へ歩を進めた。
聖焔教会の正面には3つの大扉があり、それぞれに古の物語を刻む彫刻が施されている。ジュナがくぐる中央の大扉には、干ばつに喘ぐ民のために龍の力を解き放ち、大雨を呼び寄せる龍の子の姿があった。しかし、その代償として天へ召されていく——その光景が冷たい石の中に、最後の息遣いまでが生々しく刻まれていた。
ジュナはわずかに眉をひそめ彫刻から視線を外すと、静かに大扉を押す。
——切なくて美しい。
ジュナはそう感じ、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。
まず目に飛び込んでくるのは、祭壇のはるか上、高い天井から信者たちを見下ろす龍神像だ。
厳格かつ厳粛な教会の中にありながら、この感情が湧き上がるのには理由がある。
教会全体が、まるで透き通る翡翠色の湖の上に浮かんでいるかのように感じられたからだ。
硬く冷たい大理石の床は、龍の力によって翡翠の湖と一体化し、歩くたびに水の波紋が中心から輪を描いて広がっていく。
これは『表象化』——つまり龍の力を操る者の心象が現実世界に投影され、教会内部を神秘的で静謐な湖に重ね合わされているからだ。
ここまでのことを言葉で説明するのは容易だが、実際にこれほど広大な空間を表象化できる龍の子は滅多にいない。
先日行われた『龍怜の儀』で龍石を輝かせた際、視覚の一部光線のみ表象化しただけでも調光や言語化、映像投影、さらには情動記憶の喚起といった多くの作業が重なり、術者の僕は大きな消耗を強いられた。
それほどの負担を背負いながらも心象をそのまま具現化する、聖焔教会の最高位エリュトロン大司教が、この異様な規模の神秘的空間を創り出しているのだ。
「君を迎える日がいつかは訪れるとわかっておったというのに……年月とはあっという間に過ぎていくの。どうりで髭がこんなにも伸びてしまったのじゃな」
おどけるように言ったエリュトロンは長く垂れた髭をひと撫でしてから、皺深い手を差し出した。
「入学、心より祝おう、ジュナ。学びを惜しまず、多くの経験を重ねるのじゃ。何よりも、愉快なることに力を注ぎ、民の幸福を常に思いながら歩むのじゃぞ。よいかな?」
赤を基調としたくるぶし丈まである平服をまとい、銀色の目だけは老成した品のいい顔立ちからかけ離れ、好奇心旺盛な少年の瞳のようにキラキラ輝いている。
エリュトロン大司教とは年1回の『星降祭』《せいこうさい》であいさつすることはあったが、ふたりきりで話したことは一度もなかった。
「エリュトロン大司教、質問してもよろしいでしょうか」
ジュナは好奇心に負けて尋ねてしまったが、エリュトロンはにっこり微笑んで、手で続きを促してくれた。
「大司教がお創りになられる『表象』は……えっと……どう言えばいいのか。全身に鳥肌が立って、理由もわからないまま胸の奥が震えて、気づけば涙がこぼれてしまう——それほどまでに素晴らしい力を持っておられます。
……僕にも、そんな空間を創り出せる日が来るでしょうか」
エリュトロン大司教にあいさつを返すのも忘れ、少しでも兄たちに追いつきたいという思いが強すぎて、ジュナの声がつい大きくなった。
「すまぬ、それには応えられそうにないのう。表象の力というのは、わしが教えた通りやればいいという単純な話ではないのじゃ。
だがの、ヒントはある。——さっき話したことを実践してごらんなさい」
先ほどの入学祝いの言葉が脳裏によみがえる。
(入学、心より祝おう、ジュナ。学びを惜しまず、多くの経験を重ねるのじゃ。何よりも、愉快なることに力を注ぎ、民の幸福を常に思いながら歩むのじゃぞ。よいかな?)
「ええっと……ここでたくさん勉強すれば、できるようになるということでしょうか」
ジュナはエリュトロン大司教から差し出された手を握りしめ、ただ一言、「その通り」という答えをまった。
「見えないものを見ようとすれば、君にもできるようになる。
どうすればいいか——それは自分で考え、実践していくことじゃ」
返ってきたのは期待していた単純明快な言葉ではなく、どこか謎めいた言葉だった。
(なぜ賢者と呼ばれる人は、いつもこんなふうに遠回しに話すのだろう。近道を教えてくれてもいいのに……)
そんな不満を胸の奥でこぼしていると、大司教の手がそっと肩に触れた。ジュナはそのぬくもりに促されるまま顔を上げる。
「ジュナそろそろ席に着いた方が良さそうじゃ、間もなく入学式が始まる。それと、これからはわしのことを先生と呼んでもらおうかの」
エリュトロン大司教の声で初めてジュナと同じぐらいの年齢の子どもたちがすでにベンチに座っていることに気づいた。祭壇の前で棒立ちしている自分に好奇の視線が集中しているのを感じ、慌てて先生にお辞儀して指定された席へと向かった。
頬が熱く火照っていくのを感じながら、自分の身勝手な行動を恥じた。
(人前で龍の力の話をしてはいけないのに……最悪だ。強情なやつだと思われたに違いない。それに大司教のようになりたいなどと大言壮語を軽はずみに言ってしまうなんて。
浮かれていてはダメだ。落ち着かなければ)
♦︎♢♦︎
黒の平服を着た恰幅のいい神官が祭壇に立ち、愛嬌のある顔で長椅子に座る子供たちをゆっくり見渡した。
「麦の穂が淡く色づき始める季節になりました。本日ここに、聖焔教会・王立学院の入学式を挙行できますことは、私どもにとって大きな喜びであります。教職員を代表いたしまして、龍の子の皆様、そしてそれ以外の皆にも、心から感謝と祝福を申し上げます。
これより——古き契りに従い、龍神の血を継承する者だけに伝えられる『変煙の儀式』を行います。
龍の子以外の生徒は、係の指示に従って速やかに訓練場まで移動してください。
龍の子の皆様にはご不便をおかけしますが、もう少しだけお時間をいただけますでしょうか」
龍の子以外の生徒が長い列をつくって教会を出ていく間、神官の顔から愛嬌が消えサルウィンを思わせる鋭い眼差しがのぞく。
「早く訓練場まで移動なさい!龍の子をお待たせしているのですよ。
礼拝にいらっしゃった皆様にも申し上げます。これより1時間、教会の立ち入りが制限されます。学生の後に続いて退出をお願いいたします」
その声を最後に、教会の中から音がすっと消え失せた。
静かすぎて耳鳴りが際立つ。石造の壁も天井の梁もまるで息をひそめてこちらを見下ろしているかのようだった。
ジュナは失礼にならないよう、そっと周囲を見渡す。
祭壇に最も近い長椅子には、わずか十数人ばかり——これが多いか少ないか判断に迷う数だ。
だがこの場に龍の子が一堂に会している事実が、胸の奥をじんわりと温めた。
気づくと、エリュトロン先生の姿が見当たらない。他の生徒と共に退出したのだろうか。
「龍の子の皆様、大変お待たせいたしました」
さっきの威圧的な態度は消え、ふたたび愛嬌のある表情を浮かべた神官が手を揉み合わせながら強張った高い声で語りかけた。
「本当に長時間お待たせすることになって、申し訳なく思っておりま……」
パーン!パパン!
突然爆発音が教会中に響き渡り、神官が慌てて頭を抱えしゃがみ込んだ。
神官の慌てぶりとは裏腹に、黒髪に朱の織り込みを施した少年が尊大な態度で立ち上がる。
「ふん。謝意はもういい、俺は聖都から南端までの長旅のせいで疲れている。早く変煙の儀式を始めろ」
少年が指を鳴すと再び耳が割れそうな大爆発音が鳴り響き、皆が一斉に耳を塞いだ。
(あの髪色、あの朱の織り込み……
そうか、あの方がアーリスト公爵家のご子息、テオ様か)
辺境伯は公爵より一つ下の侯爵と同等の爵位を持つが、もともと国境や辺境を守るために設けられた称号である。
バロバロッサ家は、その高い戦闘能力を買われて王から爵位を授かった外様の一族だ。
そのため代々熟練の剣術が求められてきた。
レオン兄さんやディナミス兄さんはその期待に応えたが、自分には剣の素質が毛ほどもない。だからこそ、違う方面で尖った実力を示し、認めてもらうしかないのだ。
(何があっても、龍の力を自分のものにしないと……)
公爵には辺境伯という立場であっても礼を尽くし、事がこじれないよう細心の注意を払わなければならない。
それにしても、あの神官が気の毒だった。
血色の良かった男の肌は、まるで豪雪に晒されたかのように青ざめ、年相応に落ち窪んだ目には恐怖が映っている。
「はっ……はい!すぐに……それではただちに変煙の儀式に移らせていただきます。龍の子の皆様、祭壇上の水晶玉をご覧ください」
龍神が彫られた祭壇の上には、握り拳ほどの小さな水晶玉が置かれている。
そこから白煙がゆるやかに立ち上がり、天窓へと吸い込まれていくように昇っていた。
「これは『変煙水晶』と呼ばれるものでございます。聖焔教会設立以来、今日まで受け継がれてきた由緒正しい儀式でございまして、龍の子がこの変煙水晶に触れられますと白煙の色が変化するのです。
色は4つあり、皆様の社会的属性に呼応してそれぞれ異なる色へと変わります。
赤煙は指導者の色に、
黄煙は献身者の色に、
青煙は責任者の色に、
緑煙は追求者の色です。
それではこの色の属性についてお話しさせて……」
その言葉の途中で、テオがわざとらしいあくびをした。
神官は肩を跳ね上げ、慌てて声を早口にして言葉を続けた。
「はい!そうですね!私のつまらない話はこれくらいにして、ただちに始めましょう!
ではテオ様、どうぞ祭壇へお上がりください」
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