43 -金の首輪
43 -金の首輪
殴られた顎の奥に残る鈍い痛みがまだ頭の芯を揺らしている。集中を欠くほどではないが、身体のどこかで途切れず存在を誇示してくる。放置するには厄介だった。
――だが、それも朝までの辛抱だ。
明日になれば聖焔教会へ戻り、龍の子の癒しを受ければいい。
そう自分に言い聞かせながら、カリオンはグラスに酒を注ぎ足した。
部屋の中央には北端の地の木で誂えられた最高級の机が据えられている。
その机の上には、痛み止めと称して渡された酒が用意されていた。
しかし、香りも、器も、手を抜いた様子はない。
宵傘衆の拠点にしては、などという考え自体が浮かばなかった。どうやら最低限の分別はわきまえている。
最後の一口を喉に流し込んだとき、感触がいつもと違うことに気づいた。
……前歯が欠けている。
脳裏に奴らの顔がよぎり、先の件について嫌味が一つこぼれた。
「ずいぶんと間抜けな采配じゃないか。なぜ、あの龍の子らの侵入を許した?
僕が君たち“傘”に、どれほど美味い汁を吸わせてきたと思っている」
「ご不快を与えましたこと、詫び申し上げます」
応じたのは、翁の仮面を被った男のかれ声だった。
喉の奥に長年使い込まれた革のような擦れがある。
「ですが、その旨はお伝えしたはずです。今夜は主人の命を先に済ませ、その後にあなた様の警護に当たる、と」
「言い訳するな。
もっと、やりようはあったはずだ」
カリオンは酒杯を机に置いた。
「君たちを、どこまで信じていいのか……。
どうやら、計り直す必要がありそうだ」
机の縁を指先でなぞる。
視線を細めたまま、カリオンは続けた。
「奇妙じゃないか。今夜に限って、君たちが揃って留守にしている。
まるで……クラウン辺境伯の子供を”うまく導いた”とでも言われているようだ」
「とは申せど、」
翁の仮面の声がほんのわずかに前へ出た。
反論ではなく、こちらの発言の裏をなぞるような声だ。
「あなた様をお救いしたのは、我々“傘”でございます。
仮に、主人の御子へ与する心算でございましたなら、あの場はあのまま流しておりましたでしょうな」
「冗談の通じんやつだ。そういうところが傘の限界なんだよ」
カリオンは鼻で笑った。
「あのガキどもには、すぐにでも裁きを与えてやる」
「それは難しくなります」
翁の仮面は静かに告げる。
「何せ主君は、すでに緘黙――」
扉が荒々しく開いた。
狐の仮面を被った者が部屋へ踏み込んでくる。
翁の耳元へ顔を寄せ、こちらには届かぬ声で何事かを囁いた。
「それを早く見せろ」
翁は狐の手にあった手紙を奪うように引き抜き、素早く目を通した。
「……あの狸め。
まさか、その札を切るとはな」
含みのある呟きを落とすと、翁の仮面はこちらへ向き直る。
「カリオン様にはこちらを」
机の上へ、一枚の紙が滑らされた。
カリオン・ニコマコス殿
速やかに聖都へ帰還せよ。報告を待つ。
ポシルジ・ニコマコス公爵 命
紙の末尾には、朱色に輝くニコマコス家公爵の紋章印と、その上に重ねられた王家の承認を示す刻印がある。光を受けてわずかに浮き上がる二つの印は、正式な文書である証であり、父上から直々に命を託されたことを否応なく知らせていた。
封蝋の甘い香りを、ゆっくりと吸い込む。
蜂蜜に似た柔らかさの奥に澄んだ樹脂の匂いが残る。聖都の王室御用達――そう名指しするまでもない。鼻が、先にそれを知っていた。
指先で羊皮紙を撫でると滑らかで厚みのある質感が手に伝わり、印の凹凸も実に心地よい。
朱の印は単なる家紋ではなく、王家を介して自分に与えられた責務の象徴でもあった。
「父上が、僕に聖都へ戻れと……」
眉が緩む。
軽い困惑とともに、胸の奥で自分が当然受けるべき評価を確かめる感覚があった。王の印字を前に、与えられた立場の重みを改めて認識する。これこそ、僕が担うべき役割であり、当然与えられるべき報酬なのだ。
「それで、傘よ。君の手元に残っている手紙は何かな?」
声にも、先ほどまでの苛立ちはない。
気分は悪くない。あの連中の件など父上に報告してからゆっくりと味わわせてやればいい。
「こちらは、我々“傘”へ宛てた手紙でございます」
翁の仮面は、相変わらず要領を得ない返答しか寄こさない。
「それでは参りましょうか」
その一言に、カリオンは眉をわずかに動かした。
「……今から、出るのか?」
問いかけに、翁の仮面は静かに頷いた。
「はい。
書状によれば――ポシルジ卿の従者が別件にてすでに南端へ足を運んでいる由。
その者をもって然るべく参内せよ、とのお達しでございます。
なお、北門には龍造馬が手配済みとのこと」
「別件だと? 別件とはなんだ?」
「私どもにはそこまでの沙汰は下りておりません」
翁の仮面はわずかに首を振る。
「どうぞ。北門までご案内いたします」
顎の奥に鈍痛を抱えたままの長旅は正直厄介だ。
カリオンはもう一度手紙へと視線を落とした。
父からの書状――そして王家の刻印。
それが示すのは、拒むか否かを選ぶ類の命ではない。自分がその命を担うに足る立場であることの、何よりの証がここにあるのだ。
カリオンは父からの書状を丁寧に折り、懐へと収めた。顎の奥で鈍い痛みが居座っていたが意識の外へ追いやった。
♦︎♢♦︎
哨所場の方から門番らしき男たちが現れ、無言のまま閂を外し始めていた。
傘と共に馬車を降り、北門の前に立つ。
ここを出れば、山岳の狭間を縫い、平原の聖華原を踏破せねばならない。
そうしてようやく聖都へ辿り着く。
龍造人形を用いたとしても、いくつもの町を経由しながら二泊三日はかかる行程だ。
……途中の町で、龍の子に出会えればいいが。
「さて。
傘よ、ここで僕は待っていればいいのかな?」
傘の方へ振り返ったが、そこにはもう誰もいない。
カリオンは眉をひそめかけ、すぐに押し殺した。王命を受けた身に見送りの有無など本来どうでもいい。
ただそれを弁えぬ連中だということは、はっきりした。
(傘との付き合いも、やはりここまでだな)
「貴方が神官カリオン様ですね? 長旅になりますが、どうぞよろしく」
そこへ、やけに軽い声が割って入った。
反射的に振り向くと北門はすでに開かれ、自分とさほど年嵩も変わらなさそうな男が気負いのない調子で会釈している。
「初めまして、ファスマと申します。
ポシルジ卿の命で、貴方様を聖都までお連れする役目を仰せつかりまして」
口角だけをわずかに持ち上げたまま、半笑いを貼り付けたような顔だった。
言葉よりも先に、軽薄さが滲み出ている。
「かなり突然でしたから、こっちも用意に戸惑ってしまって。ずいぶんお待たせしちゃったでしょう?」
「……ああ」
これ以上関わる気はなく、短く応じた。
だがその空気を察することもなく男はなおも饒舌だった。
「いや〜、それにしても今晩の月は勿体ないくらいに綺麗ですね」
「ほんと、勿体ないな〜」
龍造馬が二頭。
すでに装具は整えられ、御者台には図体が人の二倍はあろうかという男が無愛想に腰を据えている。
「どうぞ、どうぞ」
ファスマは馬車の扉を開け、軽く手を差し出した。
その仕草に促され、カリオンは馬車へと乗り込む。
――そこには、すでに先客がいた。
淡い香りがふわりと空気を満たす。
甘さを抑えた花香に、わずかな苦味。
濡れ鴉のように艶やかな黒髪が首筋をなぞって落ち、遅れて、重みが肩先で揺れた。
「この月夜に、急な旅とは……少し贅沢ですね」
女は、わずかに唇を緩めた。
弓のように美しく反った唇――とりわけ上唇の柔らかな曲線が、言葉より先に視線を奪う。
華やかさはある。だが、そこに甘えはない。
人を惹きつけながら、決して踏み込ませない距離がある。その隔たりが、かえって目を離せなくさせた。
「お初にお目にかかります。カリオン様。
どうぞ私のことは、クレマチスとお呼びください」
赤い瞳がゆるやかに細められた。
打ち終えたばかりの鋼が、なお内に熱を秘めている――そんな眼差しだ。
(いい女だ)
そう判断するのに思考を挟む必要はなかった。
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