42 -夜更け
フリージアはほんの一瞬、唇を噛んだ。
「リナ……」
フリージアの声色が、わずかに変わった。
怒気は消えていない。
それでも先ほどまでの鋭さとは異なり、どこか昔を呼び戻す近い響きだった。
「……ねえ、あなたは、そうやって自分を納得させているだけなんでしょう?
昔のリナお姉ちゃんなら、そんな言い訳、真っ先に切り捨ててたはずだわ」
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視点表示 ♤:ジュナ ♡:フリージア ♧:セピア
42 -夜更け
♤
「傘に名はありません」
その一言と同時に、馬車がわずかに傾いた。
車輪が石畳の継ぎ目を拾い、ぎくりとした揺れが走る。
聖焔教会へ続く九十九折り(つづらおり)の坂に入ったのだろう。
「質問はここまでです。
以降は、私の指示に従ってください」
声は静かだった。
だが、選択肢を提示する響きではない。
「皆様には、聖務文書庫に入っていただきます。
公の名目は――
ジュナ様が、クラウン様の書類点検を行い、
フリージア様とセピア様は、その補佐をしていた。そういう扱いになります」
「聖務文書庫……?」
思わずこぼれた問いに、仮面の女はすぐには答えなかった。
代わりに懐から一枚の紙を取り出し、ジュナの眼前にかざした。
「これをお忘れですか。
――すでに、受領されています」
申請書だった。
教会の記録を閲覧するための、正式な文書。
『辺境伯クラウンの名を受け、
教会への寄付および土地譲渡の記録を閲覧したい』
理由欄に並ぶ言い回しに、胸の奥がひくりと引きつる。
今朝、父に伏せたまま迷いを押し殺して書いた文章がそのままの形で突き返されてきた。
——だが、あれはまだ自室に置いてあったはずだ。
「だからそれが、この一件と何の関わりがあるかを問うているのです」
フリージアの声は張りつめていた。
仮面の女がかすかに息を吐く。
その仕草に、初めて感情のような揺らぎが滲んだ。
「この件には、緘黙令が適用されました」
言葉の意味を深く考えるまでもなく、胸の奥がずしりと沈んだ。
「そんなこと、クラウン卿がお許しになるはず……」
フリージアが声を上げ、はっとしたようにこちらを見る。
彼女は慌てて口元を手で押さえたが、その動き自体が動揺を隠しきれていなかった。
ジュナは胴を枕にしているムギを軽く押しやり、仮面の女の膝から頭を引き剥がした。
頭が鉛を詰め込まれたように重い。
考えが鈍っているのは自覚していた。それでも、理解しないわけにはいかない。
――緘黙令。
本来は、流言一つで国が割れ、内乱へと傾く事態を防ぐための非常措置だ。
一個人の不正疑惑に対して使われるものではない。
つまり、カリオンは裁かれない。
拘束もされず、何事もなかったかのように再び教師として自分たちの前に立つ。
龍の子を導く者として。
善悪を説き、規律を語り、正しさを教える立場のまま。
名を呼ばれれば返事を返し、視線を向けられれば挨拶を返さねばならない。
何事もなかったように穏やかな顔で。
それを父が是とした。
頭では理解できてしまう。相手が容易に裁ける立場の人間ではないことも。
ここで声を上げればより大きな混乱を招くことも。
――それでも。
胸の奥にこびりついた不快感は納得できないという言葉では足りなかった。
「……カリオンを、どうするつもりですか」
フリージアの声は低く、意識的に抑えられている。
「カリオン様は、しばらく我ら《傘》のもとでお休みいただきます」
仮面の女は事務的に告げた。
「ニコマコス公爵家当主ポシルジ卿へ報告し、今後の方針を仰ぐことになるでしょう」
「父上は僕について何か言っていましたか」
口をついて出た。
叱責でも、警告でもなんでもいい。何か一言でもあれば、それでよかった。
「何も」
仮面の女は即座に言い切った。付け加える言葉も、慰める余地もない。
それで十分だと言外に示し、狐の女は続ける。
「皆様が果たす役割は、ただ一つです。実際に何をなさるかは問いません。
“その時間、そこにいた”という記録が残れば、それで構いません」
「どうぞ、文書庫でごゆっくりお過ごしください」
制御を促す低い御者の声がかかり、馬が短く鼻を鳴らした。
蹄の音が和らいで馬車はゆっくりと止まる。
坂を抜け、台地へ戻ってきたのだろう。
「こちらへ」
仮面の女が足を掛け、馬車を降りようとした――
その腕を、フリージアが掴んだ。
「……気づいてないの?」
声は震えていない。怒りでも、悲嘆でもなかった。
ただ、確信だけがそこにあった。
「宵傘衆は、雨を防ぐための傘だったはずよ。
それなのに……
いつの間にか、傘を大きくすること自体が目的になってる」
仮面の女は振りほどこうとしなかった。
だが、その手に力を返すこともない。
「その傘で――
あなたはいったい、誰を守っているの?」
「やめなさい、フリージア」
静かな声だった。命令でも、説得でもない。
「理解できないなら、それでいいわ」
フリージアの手が力を失って下がり、仮面の女も振り返ることはなかった。
「――もう、あなたと私は、違う世界にいるのよ」
馬車を出ると冷たい空気が肺に流れ込み、白い息がこぼれた。台地の上はひどく静かで、前を進む女の足音だけがやけに耳に残る。
靴底が石を踏むたび、音というより気配が一定の間隔で刻まれていた。
見上げた空はまだ暗く、夜の色は少しも薄れていない。夜明けにはまだまだ時間がかかりそうだった。
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