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41 -代償

次の瞬間、恩寵の光が弾けとんでいた。


癒しの力として成立していない。

少なくとも……僕の知る癒しで、こんな現象は起こらない。


感覚が溶け合ったまま、龍造犬は意のままに動いた。

そこで初めて思考が戻ってくる。

=====================

視点表示 ♤:ジュナ ♡:フリージア ♧:セピア


41 -代償


「小娘! こんなこと、絶対に許されることではないぞ!」


制御した龍造犬に代わり、セピアが踏み込んだ。

床に押さえつけられたカリオンは理性を失った獣のように喉を鳴らしている。

その顔は歪みきり、もはや教壇に立つ人間のものとは思えなかった。


だがフリージアはその叫びを最初から存在しないもののように扱った。

子供たちの前に膝をつき、深く頭を下げている。


「……私の油断から生じた不手際です。驚かせてしまい、申し訳ございません」


一人ひとりの手を包むように握り、


「もう、大丈夫ですからね」


そう告げると、

かたく閉ざされていた子供たちの表情が少しずつ緩んでいった。

張りつめていた緊張がほどけ、力の抜けた身体を支えきれず、床に座り込む子もいた。


その様子を確かめてから、フリージアはこちらを振り返る。

彼女の目元には微かな笑みが浮かんでいた。


「あんたの芝居、こっちまで騙されたぜ」


セピアはカリオンの背に覆い被さったまま言った。

責める調子ではない。

むしろ、ほんの少しの詫びが滲んでいる。


フリージアは一瞬言葉に詰まったように見え、わずかに首を傾げた。


「あなたがそう評したはずです。私の“口”も、武器になると」


「……違いねえな」


そう言ったセピアの笑みからは、いつもの作り物めいた軽さが抜け落ちていた。


「本当に、咄嗟とは思えない見事な策でした」


二人が心から笑い合うのを見て、ジュナの胸には静かな温かさが満ちていった。

フリージアがどうやって癒しの力をあの一瞬の現象へと導いたのか――

そんな、今でなくてもいい疑問が浮かぶほどに。


だからこそ、次に声をかけられるまで、

床に押さえつけられたその男の存在をジュナはすっかり忘れていた。


――いや、忘れていたのではない。

考えないようにしていた。


「貴様ら……絶対に許さん!

死を乞うほどの苦しみを味わわせてやる!」


叫び声に身体がわずかに強張る。

気づけば半歩、後ろへ下がっていた。


「どうやって?」


だがセピアは淡々と問い返し、

腕に込めた力を、さらに一段階だけ強めた。


カリオンの喉から、えずくような音が漏れる。

その音を聞き、ジュナの背中を冷たいものが走った。


――止めなければ。

そう思ったはずなのに、足が動かない。


セピアはそのまま孤児院の子供に声をかけた。


「アッシュ。こいつに連れて行かれた連中のこと……何か知っているか」


「…………」


アッシュと呼ばれた少女の沈黙が、答えだった。


「思い出させて悪かった。ごめんな、アッシュ」


セピアの声は変わらず淡々としていた。

だが、その低さは先ほどまでのものとは質が違う。それが子供に向けられたものではないことは、すぐにわかった。


「セピア。君が何を考えているのかは、おおよそ見当がつく。

でも、そんな……」


言葉の続きが自分でもわからなかった。

止めたいのか、否定したいのか――

あるいは、そのどちらでもなく。

セピアが次に何を口にするのか。それを聞いてしまうのが、ただ怖かった。


セピアは振り返らず、背中だけで制した。


「ジュナ。フリージア。本当に、感謝してる。

こいつが生きて戻れば――お前たちに迷惑がかかる。

それだけは、絶対にさせねえ」


一瞬だけ、声が落ちる。


「だから、これからやることは俺一人の行為だ。

俺だけの責任でやる」


振り返らない。


「お前たちに、恩を仇で返したくねぇんだ」


声をかけるべきだと頭ではわかっている。

だが、喉が張り付いたように動かなかった。


セピアの声は消えかけの灯火のように揺れもせず、

ただ細く、途切れずに伸びていく。


「こいつはな。

どっかの水路で見つかる。

盗賊に襲われた痕があって、防御の痕も残る。

そういう死体だ」


淡々と。

あまりにも、淡々と。


その途中で、

カリオンが悲鳴に近い声をあげた。


「よ、よせ……!

そんなことをして、本当にバレないと思うのか!?

僕はニコマコスの姓だ!

王を選ぶ席に名を連ねる公爵家の人間だぞ!?

詳細な調査がおこ――」


「だから言ってるだろ」


セピアは遮る。


「やるのは、俺だけだ」


カリオンの口を布が塞がれる。


「もう黙ってろ。

――お前は、もう死人なんだよ」


押さえ込まれた男の喉から甲高い悲鳴が弾けた。


ジュナは、目を逸らせなかった。

高く振り上げられた拳を前に何もできないまま、ただ見ていた。



♦︎♢♦︎


次の出来事の意味を、ジュナはすぐには掴めなかった。


「ジュナ様! 頭を下げてください!」


フリージアの声は、確かに聞こえていた。

だが咄嗟に身体が動かない。


気づいた時には、セピアがカリオンの背に眠るように崩れ落ち、仮面をつけた黒衣の者たちに取り押さえられていた。


理解が追いつかない。


――いつの間に。


そう思った直後、

首元に微かな痺れと、床に転がる細い矢針が視界に入る。


「ジュナ様。非礼は承知の上です」


低く、よく整えられた声だった。

その響きから女の声だと分かる。


「クラウン様の名により参上いたしました。

《傘》でございます」


その言葉を最後に世界が、ふっと閉じた。



♦︎♢♦︎


身体が揺れ、時折小さく跳ねる感触が伝わってくる。

まだ鈍い頭には、周囲の状況がうまく入ってこない。腹を枕にするように、ムギが胴の上で横になっている。


「……どうして僕はこんなところに」


狐のお面がふっと顔を覗き込み、仮面越しではあったが低く整った声が耳に届いた。


「場所が限られております。こうするのが一番楽だと判断しました」


仮面の女の膝の上に、自分の頭があることだけはわかる。

理由も状況もそれ以上は入ってこない。ただ、その温かさに身を預けてしまう。


「孤児院の子供たちは……どうなったのですか」


ぼんやりとしたまま、ジュナは頭に浮かんだことを口にした。


「あの孤児院は、しばらくクラウン様の庇護下に置かれます。

少なくとも、今までのような形は是正されるでしょう」


仮面の女は身動きひとつせず、そう答えた。


その直後、もう一度大きく揺れた。

外から蹄が地面を叩く音がかすかに伝わってくる。


「傘殿。ジュナ様のお具合は、本当に問題ないと断言できるのですか?

……それなら、なぜセピアはいまだ目を覚まさないのです」


フリージアの声だった。

その声が落ちた途端、揺れていた車内の空気が一瞬固まった気がした。


「あの麻酔毒。いくら何でも、度を越えています」


セピアに向けるときでさえ、彼女がこれほどの感情を露わにしたことはない。


「聞いていますか、傘殿?

ジュナ様もお目覚めです。――もう、口を閉ざす理由はありませんよね」


その声に押されるように、ジュナは頭をわずかに傾けた。

視界にフリージアの姿が入る。


彼女はサルウィンを思わせるほど眉根を寄せ、額には深い縦皺が刻まれていた。

怒りを抑え込む気配すらなく、感情そのものがまっすぐ前に突きつけられている。


その怒気のすぐ隣で、セピアは目を閉じたまま、胸の上下だけを繰り返して沈んでいた。


「答えなさい!

なぜあなた達宵傘衆(ばんがさしゅう)が、あそこにいたのですか!」


「あなた方が傘の網に引っ掛かった……それだけのことです。

カリオン様が不当な金銭を受け取っていた事実についても、我々は把握してしていました。

しかし、彼は聖都ロゴスの承認を受けて就任した神官。宵傘衆の権限では拘束できません」


仮面に隠された表情は読み取れない。

まるで紙に記された文を、そのまま読み上げているかのようだった。


車体がきしみ、床板がわずかに鳴った。


「……だから、子供は見過ごしにしたと?」


フリージアは馬車の中で勢いよく立ち上がると、仮面の女の胸ぐらを掴んだ。

抑えきれない怒りがその動きにそのまま表れている。


だが、仮面の女はそれを咎めることもなく、ただ首をわずかに傾けただけだった。

膝に預けられた重みも含めて、最初からその場にあるものとして受け止めたまま姿勢ひとつ変えない。


「ヴァルファルド家のご令嬢。例え話をひとつ。

橋の上から、川で溺れている子供を見つけたとします」


低く、均された声音だった。

起伏を削ぎ落としたその声は、静かに、場の空気を重く沈めた。


「そのとき、考えるべきことはいくつもあります。

この川は浅瀬ではないのか。

もし浅瀬であったなら、橋から飛び降りた瞬間自分は無事でいられるのか」


言葉は区切られ、ひとつずつ落とされる。

頭がうまく回らないのに、その一つ一つが耳に残った。


「服を着たまま泳げるのか。水の中で人を支えながら、岸まで戻れるだけの力が自分にはあるのか。

そもそも、自分が動くことで被害を増やす可能性はないのか。

それらを顧みず飛び込む行為を勇敢と称するには、あまりに軽率ではないでしょうか」


「フリージア様はきっと、蛮勇に駆られて飛び込まれるのでしょうね。

若さというものは、時に便利な言い訳になります」


それが“例え話”の皮を被った指摘であることは、今のジュナにもわかっていた。

フリージアは唇を固く結び、歯軋りのかすかな音が抑えきれない感情を漏らしていた。怒りを吐き出すことも、言葉にすることもできず、ただ噛み殺している。

ジュナにはその怒りに同感する部分もあった。


しかし同時に、二人の間に漂う微妙な空気――言葉にはできない、個人的な確執のようなものも感じ取っていた。


仮面の女は一歩も動じず、淡々と語り続ける。


「救うという行為に伴う“責任”を引き受けられない者は、行動すべきではありません。無謀にも飛び込んだ結果、救う側まで溺れてしまえば本末転倒です。

必要なのは、飛び込む覚悟ではなく——

飛び込んだ後までを引き受ける準備と責任です」


フリージアはほんの一瞬、唇を噛んだ。


「リナ……」


フリージアの声色が、わずかに変わった。

怒気は消えていない。

それでも先ほどまでの鋭さとは異なり、どこか昔を呼び戻す近い響きだった。


「……ねえ、あなたは、そうやって自分を納得させているだけなんでしょう?

昔のリナお姉ちゃんなら、そんな言い訳……真っ先に切り捨ててたはずだわ」

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