38 -幕開け
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38 -幕開け
風邪気味で鼻が詰まっているのが、今はありがたかった。
取引は滞りなく進み終わりが見えている。
ほんの一瞬、天井に視線が向く。
だがそれ以上意識を割くことはなかった。
学もなく、品もない。
金の匂いにだけ敏い男たちが、無遠慮に視界を占めている。
この空気を吸い続けること自体が不快だった。
だが、顔に出すほど愚かではない。
この程度の不快感なら神官として幾らでもやり過ごしてきた。
華王を売る——ただそれだけの話だ。
信頼を仲介する立場に身を置き、双方にそれらしい言葉を与えてやればいい。
するとどうだ。
金は、水が低きに流れるように、自然とこちらへ集まってくる。
南端という土地は、こうした取引に特に向いていた。
港町に近く、人も物も集まりやすい。救済を名目にしたパンの配布や、力さえあれば成り上がれる闘技場。
貧民には“選択肢”を与える一方で、混乱は常態化し、秩序の形は曖昧なまま保たれている。
他の町でも似た光景は見られるが、南端は規模と露出の点で群を抜いていた。
だからこそ、誰かが管理しなければならない。
誰もやりたがらないこの役を僕が引き受けてやるんだ。その見返りが、この程度で済むのなら安いものだろう。
この資金を元手に南端での発言力はさらに膨らみ、辺境伯であろうと、もはや指図できる立場ではなくなる。
神官であり、王族の血を引く者がそこにいれば、世界は滞りなく回る。
それだけのことだ。
もし僕がここを離れれば、この土地はもっと無秩序に、もっと醜くなる。
——そんなことは目に見えている。
この南端は管理されねばならない。
ゴブレットに口をつけ、男たちの理解の水準に合わせるよう言葉を選ぶ。
「それで、僕が容認していないルートから横入りしてきた連中は、もう問題にならない、という理解でいいんだね?」
「言われた通りにしやした。
ただ……あれだけで、本当によかったんですかい?
配給札を止めて、闘技場にも入れなくしただけで。
あんたが仲介に立てば、話は早ぇ。金も信用も、自然とあんたを通る。
もっと徹底しても誰も逆らわねぇと思うんですがね」
「僕は聖職者だ。
直接、人を殺めるような指示はしない」
この男は、まだ理解していないらしい。
カリオンはそれ以上の説明をせず、ゴブレットへと視線を落とした。
ワインの液面が、かすかに揺れている。
社会から薄く切り離す。
それだけで人は役を失い、手を下さずとも、勝手に死へと近づいていく。
傾けられたワインの揺れは底でゆっくりと円を描き、
やがて表面に映る光もまた、静かに収まりつつあった。
そのとき、
——ピー、ピピ、ピー、ピピ
耳障りな警戒音が、外で見張らせている龍造犬から一斉に発せられた。
「……ベルン。聞こえているだろう?
早く龍造犬の吠え声を止めてきてくれないかい」
声をかけられた巨漢の騎士は酒に強かに酔っている。
上気した赤い顔で、緩みきった口元をだらしなく動かす。
「問題ありませんよ。どうせ馬鹿な奴が、敷地に勝手に踏み込んだだけでしょう。
今ごろ人形どもに、綺麗さっぱり片づけられてますよ」
「ベルン……なぜ僕が、わざわざ騎士を同行させているのか。
少しは考えてほしいものだね」
「それは失敬。
貴方様のおかげで、俺たちも随分潤ってますから。その分、口と足くらいはきっちり動かしますよ」
そう言い捨てると、ベルンは振り返りもせず声を張り上げた。
「おい、お前たち。さっさと止めてこい」
部下の騎士たちが慌ただしく応じ、鎧の擦れる音を残して階段を降りていく。
酔いに沈む男を一瞥し、カリオンは胸中で舌を鳴らした。
——まったく、よくもまあ口の減らない男だ。
期待するだけ愚かというもの。
男から視線を外す。
窓外に浮かぶのは衛星の月。
冴え冴えと光る月だけは僕を裏切らない。
龍造犬の警戒音が止み、しばらくしてから騎士たちが戻ってくる。
その中の一人が、やや首を傾げながら口を開いた。
「誤作動でしょうか。俺たちが下に降りた時には、もう鳴き止んでました。
犬どもを呼び寄せて尾先も確認しましたが血痕の類は見当たりません」
「……妙だな」
教会用の安価な龍造犬とは違う。
護衛に就かせている人形は、聖都の《龍の子》に一から作らせたものだ。
その出来にこれまで疑いを挟んだことは一度もない。
それでも彼らは、揃って首を傾げるばかりだった。
その仕草が妙に癇に障る。
——やはり、この程度か。
小さく息を吐き、それ以上は問いたださなかった。
警戒音は止み、場はすでに静まり返っている。
ならばそれでいい。
余計な手間が増えただけだ。あとでこちらで確認すれば済む。
カリオンはゴブレットを持ち替え、味気ないワインを一息に喉へ落とした。
そのまま、賽や札を弄ぶ交渉相手へ気だるげに声を投げる。
「修道女を呼んできてくれ。
華王に“付随”させる者を選ぶ」
「‥‥わかりやした」
樽の酒に名残惜しげな視線を投げ、ようやく腰を上げた。
しばらくして、
丸々と太った孤児院の世話役が子どもたちの背を押しながら入ってくる。
「ほら、早くこっちに来るんだよ」
机の前に並べられたのは、七つ前後の子どもが三人。
男が一人、女が二人。
いずれも無言のまま、鋭い目でこちらを見据えている。
——健康で何よりだ。
カリオンは一瞥し、より肌の白い方へ指を向けた。
「今回は、これにしよう。
腕輪を外してくれ」
世話役は頷き、慣れた手つきで女児の腕を取る。
金属が擦れる、小さな音。
やがて細い輪が外されカリオンの前に差し出された。
祈りの刻印が刻まれた、孤児院の証。
自室の吹き抜けに、今もしまわれている黒い小さな箱。
そこにこの腕輪も加わることを、ただ思い浮かべる。
闘技場で血を見るよりこちらの方がずっと手応えがあった。
その感覚に浸る間もなく、ふたたび警報が場を裂いた。
「またですか?」
騎士が呑気に言った。
「これは人形の故障を疑った方が――」
「……“二度”、同じことを言わせ……」
言いかけた言葉が、そこで途切れる。
「どうしました?」
騎士の投げた問いにも、カリオンはすぐには応えなかった。
眉間に、かすかな皺が寄る。
胸の奥で、沈めていたはずの言葉が、不意に浮かび上がった。
――二度としませんよ。“二度”と、ね。
王立学院。
あの場で、確かに耳にした声。
餌か敵かを量るように、相手を値踏みする――
飢えた野良の目をした、《龍の子》。
「……まさかな」
低く呟き、カリオンはそれ以上を切り捨てるように視線を外した。
「まあまあ、そう苛立たないでくださいよ」
場を取りなすように誰かが軽く笑うと、
その声に促されるように赤ら顔の騎士が顎で部下に命令した。
「おい、お前たち。見てこい。
今度は周りの様子もしっかり確認してくるんだぞ」
ぞろぞろと騎士たちが退室する。
扉が閉まり、警報音だけが空間に残った。
――しかし。
いくら待っても、戻ってくる気配がない。
「……奴ら、何を道草食っている」
その声だけが室内に落ちた。
だが龍造犬の警戒音は途切れることなく、規則正しく鳴り続けていた。
短い沈黙ののち、赤ら顔の騎士が舌打ちをして重たい腰を持ち上げる。
「仕方ねえ。俺が見てきますよ。
めんどくせえんで、周りでたむろしてる連中がいりゃ、考えずに始末してきます」
乱暴な言葉を残し、彼もまた部屋を出ていった。
――それきり、音沙汰はない。
警報は鳴り止まず、重い足音も戻らない。
さすがのカリオンも、ゴブレットを置く手がわずかに遅れた。
喉の奥に残るワインの渋みが不快に広がる。
(……妙だ)
胸の奥で、理屈とは別の感覚がざらつく。
理由を探ろうとする前にその違和感を押し潰した。
「そんなことはありえない」
吐き捨てた声が、わずかに揺れた。
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