36 -特権兵種
「火のないところに噂は立たないと申します。
近頃、あの路地は何かと騒がしいとか。
セピアさん、あなたなら心配はいらないと思いますが……どうぞお気をつけて」
頭を下げながら若い男は静かに身を退けると、それを合図に馬車はゆっくりと動き始めた。
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視点表示 ♤:ジュナ ♡:フリージア ♧:セピア
36 -特権兵種
♤
馬車の中は外の景色が一寸たりとも見えないというのに、喧噪だけは薄い膜越しにそのまま伝わってくる。
その落差が静かな車内を際立たせていた。中央に置かれた龍灯の淡い光は、閉ざされた空間にいる三人の気配をゆるやかに浮かび上がらせている。
外はあれほど賑やかなのに、ここだけは暗く狭い。
ジュナはムギの背中を盾にするように身を寄せ、セピアに向け声をかけた。
「ねえ、セピア。ちょっと引っかかっててさ。
裏から行ったの、なんで? 大通りからじゃダメだったのかな?」
携帯食を齧っていたセピアは、肩をすくめてみせた。
「わかんねぇのか?
夜中にいきなり『馬車貸してくれ』って言ったって、まともな業者が知らねぇ客に渡すわけねぇだろ。
だから顔馴染みの爺さんのところへ行ったんだよ。
ああいう世界は結局、信頼が全てだ。
『あんたらのやり方に従う』って姿勢を見せりゃ、話が早くなる。
その上、サービスも厚くなる」
手を広げるセピアに、小さくうなずいた。
だがそれでも胸の奥に残る疑念は晴れない。
「……馬車までの道に、わざわざ目隠し用の塀まで立ててもらっただろ?
あれを“サービス”って呼ぶには、ちょっと手が込みすぎじゃないかな……。
あそこまでされると、むしろ僕たちが怪しい者ですって周りに知らせているみたいだけど」
「確かにな」
セピアはくすりと笑い、間を置いてから続けた。
「だがこの界隈じゃ割と“よくある話”なんだ。
どっかのお貴族様が顔を見られたくねぇやんごとなき事情を隠すために使う手でな。あいつら、ああいう特別扱いを“格式”かなんかと勘違いして喜んでる節すらある。
俺たちもそいつらと同じ“面倒な客”として扱ってくれたんだよ。この辺りで龍造犬を侍らせるような人間は、金持ちかそれに類する連中と相場が決まってる。
むこうも勝手に納得して、勝手に気を回してくれたってわけだ」
ジュナはなおも眉を寄せた。
「それも解せない。裏道を通ってまで、そんなサービスを受ける必要なんてなかったはずだ。
乗合馬車だってあったはずだし、こんな回りくどいことをしなくても……」
ジュナの疑問に、なぜかフリージアが申し訳なさそうに顔を曇らせた。
「火龍騎士団でさえ《《あれ》》には手を焼いてるからな」
横目でフリージアを見ていたセピアが、少し大げさに声を落とす。
「奇妙なことにな、ジュナ……
夜中になると、いくつもの関所がまるで亡霊のように忽然と現れるんだ。
そうなると、ことあるごとに止められて、通行料を払わねえと命を取られちまうんだぜ?」
「セピア、また僕をからかっているのか?
そんなもの西区に……いや、そもそも南端には、通行料を払わせる関所なんて置かれていないはずだ」
「……いえ、セピアの言うことは事実です」
フリージアはわずかに視線を落としながら言葉を継いだ。
「夜になると、勝手に縄張りを主張して通行料を要求する不届き者が現れます。 何度も騎士団が捕らえはしましたが、また別の者が代わりを演じ始めて……きりがないのです」
「だが、それも爺さんの馬車なら盗賊たちも見逃す。爺さんの報復は徹底してるからな。サービスがいいってのは、そういうことだ」
フリージアはセピアの言葉に小さく頷き、苦い思いを押し込めるように唇を噛んだ。
「あまり推奨はできません。
ですが、騎士団が機能していない以上、自らの身を守るには……やむを得ないことだと、思っています」
フリージアは肩をわずかにすくめ、腕を身体の前でそっと寄せた。
すると、荷車の隅にいたムギが爪をわずかに鳴らし、そっと彼女の手へ鼻先を近づける。
その一連の動作を眺めながら、セピアは少しため息混じりに口を開く。
「まあ、正直な話さ。こっちに住む人間にとっては、生死に関わる問題なんだよ。
騎士団も余計なプライドなんか捨てて、休みいらずの龍造犬でも、使えるもんは何だって使ってくれりゃあいい。そうすりゃ、こんな面倒ごともすぐ片付くだろ」
隣に座るフリージアが、言いかけるようにわずかに唇を開いた。
――しかし、その小さな動きは途切れ、唇はすぐに閉じられた。
理由はわからない。
反論の気配は確かにあったはずなのに、彼女は唐突に呼吸を整え、静かに目を閉じた。
「恥ずかしいことだけど、僕は領主の息子でありながら西区の現実に疎い。
それでもね、セピア。騎士団が全力で取り組んでいることはわかるよ」
ジュナは気づけば口を開いていた。
二人のほうが西区の裏事情をよく知っている――その事実が、胸の奥に小さな焦りを落としたのかもしれない。
それでも、お世話になった火龍騎士団の名誉を守りたいと思ったのはまぎれもない本心だった。
「龍造人形は、特権兵種しか出動できない――という規定があるんだ。
これは『王制騎士団史 第七巻『龍造人形規程 ― 戦闘補助用限定規則』』に明記されている。
誤解しないでほしいんだけど、フリージアさんも僕も、この規定は非効率だし、正直今の時代には合ってないとも。
でも――だからって、無視していい規定じゃない」
「特権兵種? おいおい、突然何の話だ」
セピアは眉を寄せ、戸惑った表情を浮かべた。
「君が“龍造人形は使える”という前提で話していたから。
でも、実際には規定があって、出動できるのは特権兵種に限られている」
「簡単に言えば、戦時中に限って龍造人形の使用が認められるという、60年ぐらい前から続く法律だ。
だから南端の城郭内では、原則として常用の龍造人形は禁止されている。
馬車に龍造馬ではなく普通の馬を使うのもその理由だし、騎士団も城郭内での運用は許されていない」
「そうなのか?
だけどよ、実際あんたも、他の龍の子も、教会の連中も飼ってるじゃねぇか」
セピアはフリージアの隣で仰向けになり、尻尾を振りながらこちらを見ているムギを指差した。
「そこがね、結構抜け穴が……違う。ええっと、解釈に幅があるんだ。
龍造岩は給仕用なら運用が許されているし、聖焔教会はもともと聖都の所有の土地だから、教会関係者には龍造人形の使用が許可されている。
僕のムギ(龍造犬)も、教会管轄の聖都龍造人形公認機関から許可書をもらってる。攻撃性がなく安全と判断された人形は、嗜好品として飼うことも許されているんだ。
だから、セピア。
騎士団が何もしていないと思わないでほしい」
セピアはしばらく黙り込み、腕を組んだ。
そして、やっと息を吐く。
「……なるほどな。
でも、そういう“抜け穴”があるなら、余計に騎士団は信用できねぇ。
結局規定を守るのは弱者だけで、強い奴は勝手にやるって話だろ?」
ジュナはその言葉に頷いた。
確かに、抜け穴は“弱者の救済”ではなく、強者の都合を正当化する口実にもなり得る。
「そう見えるのも無理はない。
でも――火龍騎士団は、そういうやり方を是とはしない」
セピアが眉を顰めたが、構わず続ける。
「火龍騎士団は、ずっとバロバロッサ家の右腕として在り続けてきた。
力があるから従うんじゃない。
“恥じない仕事をする”ことで、信を積み重ねてきたんだ」
唾を飲み込み、慎重に言葉を選んだ。
「規定の穴を利用することと、規定を踏みにじることは違う。
火龍騎士団はその線を絶対に越えない。
越えれば、築き上げてきたものをすべて失ってしまうから」
大雨に急かされて戻った訓練場。
あのときのフリージアの眼差しが今も胸の奥に残っている。
しばしの沈黙のあと、セピアは小さく息を吐いた。
笑うでもなく、突き放すでもない。
「……本気、ってわけだな」
「悪かった、ジュナ。
俺はあんたを責めたいわけじゃない。
ただ……信じ続けるには、あまりに現実が腐ってやがるだけだ」
セピアの言葉のあと、誰も口を開かなかった。
馬車が先ほどより深く、小刻みな衝撃を繰り返し始めた。
車輪が別の地面を踏み始めている。
迷いはここまでだ。
——いま考えるべきことは、カリオンのことだけでいい。
カリオンが龍造犬を護衛として連れ出している。
それは、明確にグレーだ。
教会筋だから見逃されているだけで、法的に正当化できる余地はない。
決定打には欠けるが、現行で押さえる理由にはなるはず……。
荷車がひとつ、大きく揺れた。
「おい、どうしたんだ? 間抜けな顔して」
はっとして前を見ると、セピアがいつの間にか覗き込んでいた。
「……今、龍造鼠との接続が戻ったんだ」
♦︎♢♦︎
♡
野盗とおぼしき幾つもの気配が、つい今しがたまで——確かに漂っていました。
それなのにこの一帯に足を踏み入れた途端、聞こえてくるのは石を蹴る馬蹄の乾いた音だけ。
夜ではありますが、まだ深更にはほど遠いはずの時刻。
目を閉じ、聴覚に意識を研ぎ澄ませても、人の歩く気配も、他の獣の足音すら拾えません。
この底に沈むような静けさは、治安の悪い小路では常に付きまとうようです。
「本当に、この馬車の御者に危害を加える者はいないのですね?」
念のため口にした声が、わずかに強ばっていることが自分でもわかります。
好ましくありません……この緊張が続くのは。
肩甲骨や背中の感覚に意識を向けると、筋肉が硬直し、僧帽筋もわずかに張っているのがわかります。体の緊張をほぐすために立ち上がり、軽く体を伸ばすと、視線は自然とジュナ様へと向かいました。
龍造鼠の所在をセピアに伝え、しばらく声をかけないでほしいと仰ったその瞬間から、どこか別の世界を覗いているかのように、遥か遠くを見つめているのです。
ジュナ様のことです。
何かお考えがあって、そのような行動をなさっているのでしょう。
ゆえに、私ができる限りの準備を万全に整えておく必要があります。
野盗が襲ってくる可能性を考え、いざとなれば時間を稼ぐために使うつもりだった短剣を床に下ろし、代わりに懐から龍石を取り出します。
指先に伝わる冷たさがわずかに心を揺らしますが、夜気のせいだと自分に言い聞かせました。
「問題ねえよ。ここの連中はその辺は特に弁えてる」
セピアは地図とにらみ合い、深く集中していましたから、まさか私の問いに返答が返ってくるとは思いませんでした。
——カリオン・ニコマコス。
神官の立場を金のために投げ捨てただけならまだしも、子供にまで手をかけるこの一点だけで、下衆の極みと断じるに十分です。
セピアはいつも通り飄々として、軽やかな調子を崩しません。
……無理をしていなければいいのですが。
いちばん苦しい思いを抱えているのは、誰よりも彼のはずです。
もし彼がほんの一瞬でも我を忘れ、暴走しかねない局面が訪れれば――
その隙は、私が埋めなければなりません。
そう思った途端、指先に力がこもり、握った龍石がきしりと鳴りました。
いけません。まずは心を整えなくては。
深く息を吸い、意識を祈りへと傾けながら龍石へ手を添えました。恩寵の光が荷車内を静かに満たし、揺らいでいた影が徐々に落ち着いていきます。
やがて光が引いて暗がりが戻ると、
セピアはちょうどその瞬間を待っていたかのように布を押し上げてこちらを振り返りました。
「ジュナの位置情報が正しければ……奴は孤児院の二階にいるってことになるな。ちょっと待ってろ」
そう言うなり、地図を握った手のまま身を乗り出し、御者台の御者へ声をかけに向かっていきました。
私も布をわずかに持ち上げ、顔だけを外へ覗かせます。
このあたりには巨大な茸型の龍灯はなく、頼りになるのは不規則に灯るいくつかの油灯だけ。煤けた橙色の光は、かろうじて影を照らすにすぎません。
家々を囲む塀の上には侵入を防ぐ鉄の尖鋭棒が隙間なく並び、衛星の月明かりに鈍く光るその刃先は、誰が傷つこうと意に介さぬ冷酷さを帯びて、塀や路地の隅に長く不気味な影を引いていました。
私もとうとう、騎士団でさえ手を焼く西区の最奥に踏み込んだのですね。
荷車がきしりと軋み、ゆっくりと速度を落としていく中、私は龍石が形作った剣の柄を握り直し、そっと息を整えました。
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