35 -裏茸区《うらたけく》
——西区、通称《裏茸区》。
ここに来たことは何度もあるがその感覚だけは変わらない。
誰もが目を光らせ互いの存在を測り合う。
顔の奥に潜む冷たい視線には、信用の薄さと、ほんの少し足を滑らせれば蹴落とされかねないという恐怖が、絶え間なく張り付いている。
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視点表示 ♤:ジュナ ♡:フリージア ♧:セピア
35 -裏茸区
♤
巨大な龍灯が道の両側に不揃いな間隔でぽつぽつと立っている。
背丈は成人男性が手を伸ばせば届くほどで高くはないが、光をカンテラのように柔らかく包む構造のせいで、頭についた傘の部分だけが異様に膨らんでいた。
街路に肥大したキノコが根を張るように並ぶその姿から、この区域は裏茸区と呼ばれている。
闘技場が夜にも開かれる裏茸区では、龍灯の白い光が大通りに連なって路面を厚く照らしていた。ジュナはその強烈な明るさに目を細めつつ、迷わぬようセピアの背だけを追いかける。
人波を縫い、馬車が来れば一拍だけ身を引き、段差や路面の凹凸に応じて歩幅を微妙に変える。
周囲の人々の足取りは速く、時に小走りになることもあった。
やがて大通りから一本脇へ折れ、細くなった通りの外れに出る。
「こっちだ」
こちらを振り返らずに声を前に投げ、セピアは崩れかけた門柱の下をくぐって進んだ。
歪んだ門柱をくぐると、あたりの光は一段と貧しくなる。
龍灯の白光はここまで届かず、油灯の煤けた橙が細い路地の奥へとかろうじて伸びている。煉瓦家屋の壁が左右から迫る路地を、横に並ぶ余地もなく一列になって進んでいく。
そんな中、今までジュナの命に従って大人しくしていたムギがとうとう我慢の限界に来たらしい。
列のいちばん後ろにいたはずの小さな影が、ぴょこぴょこと皆を追い抜き、ついには先頭のセピアをも追い越した。
暗がりの真ん中で立ち止まり、「どうだ」と言わんばかりに尾をぶんぶん振っている。
「……ムギ。ここまで一緒に来ていいって言ったのは、大人しくしてるって約束だったからだ。覚えてるよね?」
その声にムギはわかりやすく尾をしゅんと落とし、視線を伏せた。
「問題ねえよ。ここまで来ればもう安全だ。それに──」
セピアは足元に垂れた尾を横目で捉え、口の端を悪戯っぽく上げる。
「こういう狭道じゃ獣の勘がいちばん冴える。わかるぜ、ムギ。……あいつらは、そのへん何もわかっちゃいねえよな」
「……獣の勘、ですか」
フリージアはほんのわずかに目を細める。
「ついさっきまで喉を鳴らしていた“猫”さんの言葉にしては、ずいぶん説得力がありますね」
「……仲良くやろうって言い出したのは、フリージアだよな?
もうちょっと柔らかくできないのか」
セピアがぼそりとこぼすと、フリージアはまるで聞こえなかったかのように首を傾けた。
「ところで、セピア。ひとつ思い出したことがあります」
軽い咳払い。声音が急に事務的になる。
「あなた、猫の姿で更衣室を出入りしていましたよね?
もし私以外にも“着替えの最中に猫が入ってきた”という証言が出てきたら、そのときは覚悟してください」
一瞬の沈黙。
「まさかセピア。フリージアさんに、そんなことを……」
思わず声音を沈ませると、その調子に気づいたセピアがびくりと肩を揺らし、慌てて振り返った。
「待て待て、誤解だ!
フリージア、あんたも語弊のある言い方をすんな。あの時はまだ着替えてなかっただろ!」
フリージアは肩をすくめ、深いため息を落した。
怒っているというより、呆れている。
「何にせよ、もう二度としないでください。
猫の姿であっても、です」
「……ったく、これでも反省してるんだって。ほら、ちゃんと」
セピアが小声でぶつぶつ言い続ける横で、ムギは心底どうでもよさそうにあくびをひとつした。
一行は狭い路地を慎重に進み、段差を踏むたびに靴底が砂利をはねる。
まだどこか穏やかに流れる空気の中で、からん、と乾いた小さな音が頭上から落ちてきた。
目に飛び込んできた光景の意味がつかめず、疑問符が浮かぶ。
黒ずんだ糸で吊るされた木彫りの細工が、いくつも同時に音を立てながら揺れていた。注意深く観察すると、兄弟や犬、航海に出る船——どれも熟練の手によるもので、刃物の軌跡が迷いなく木肌に刻まれている。
奇妙なものがぶら下がる光景に、思わず足を止めてしまった。振り返ったセピアは「行けばわかる」と短く告げ、片手を前に差し出して先へ進むよう促した。
ジュナは言われるままに歩みを進め、やがて視界が急に開けた。
闇の底からまるで壁のようにそびえる大きな建物がぬっと現れる。
一瞬行き止まりかと思ったが、建物の右端にある入り口らしき場所で、老人が椅子に腰かけながら木を削っている。
膝には木屑が積もり、長い時間ただこれだけを続けてきたことがわかる。
こんなところで何をしているのだろう。
戸惑い足を緩める間にも、セピアは砕けた口調で声をかけにいく。
「よう、爺さん。あんたの徒弟に伝えたとおりだ。今晩、あの借りを返してもらうぜ」
しばらく黙って木彫を続ける老人の視線が、ふとジュナの隣にいたムギに向いたように見えた。
「龍造犬か。この辺りで見るのは珍しいな」
質問でもない老人の言葉に、セピアは肩をすくめて面倒くさそうに答えた。
「へいへい、わかりましたよ。上乗せで金も払う。
ほら、こっちが譲歩してやったんだ。さっさと動けよ」
老人は納得したように目を細め、膝の木屑など気にせず立ち上がると、後ろの壁を力強く叩いた。
まもなく、徒弟らしき若い男が現れ、
客をもてなすかのように品のいい笑みを浮かべた。
「どうぞ。表に馬車をご用意してあります」
案内に従い建物の中へ入り、厩舎のような通路を抜けると——
まばゆい光と喧噪が一気に押し寄せた。
雑然とした裏手からは想像もつかないほど、煌々とした大通りが広がっていた。
ジュナは思わず目を細めた。
ついさっきまで薄暗い煉瓦家屋のあいだを歩いていたぶん、その眩しさがひときわ鋭かった。
♦︎♢♦︎
♤
「塀に沿って馬車までお進みください」
若い男が示す先、建物から馬車までの道のりにはわざわざ簡易的な塀が設置され、周囲の視線を遮るように伸びていた。馬車は特別な装飾もなく、二頭の馬に引かれた荷車が取り付けられている。
指示された通り、建物から馬車まで塀に囲まれた短い道を進み、荷車の布をめくって中に乗り込む。
入った瞬間、ジュナは眉をひそめた。
中央の龍灯が放つ薄明かりだけが内部をぼんやりと照らし、外部からの視線はすべて遮断されている。想像以上に高い機密性と外見との落差に、なぜそこまで徹底されているのか測りかねて居心地の悪さを感じた。
遠慮がちに手近な場所に腰を下ろしたところへ、最後尾のムギが荷馬車に乗り込んだその直後に布がそっとめくられ、若い男が顔だけをのぞかせた。
「場所は例の路地あたりだそうですが、最終的な停車位置は御者と相談してください。それとセピアさん、お支払いはいつも通りのやり方でよろしいですね?」
「ああ、それで頼む」
「承知しました」
男は一拍置き、声をわずかに潜らせる。
「火のないところに噂は立たないと申します。
近頃、あの路地は何かと騒がしいとか。セピアさん、あなたなら心配はいらないと思いますが……どうぞお気をつけて」
頭を下げながら若い男は静かに身を退けると、それを合図に馬車はゆっくりと動き始めた。
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