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3 -龍の子



3 -龍の子



サルウィンは、ジュナから誕生日祝いに贈られた懐中時計を開き、秒針が一回りするのを見届けるまで、扉の前で静かに待っていた。

起床時間が過ぎたのを確認すると、ジュナの私室の扉を軽くノックし、声をかける。


だが、返事はない。

毎朝のことだ。夜型のジュナ様は、朝の声がけに応じた試しがない。


サルウィンは力が入りやすいよう袖を巻き上げると、近くで素っ頓狂な声を上げたメイドを一瞥し、勢いよく扉を開けた。


「うるさいなぁ。返事したのに、なんでそんな大きな音を立てるんだよ」


扉の向こうのジュナは、すでに制服の姿だった。


王立学院指定の礼装であり、胸元には南端サウスエッジの旗紋章——火龍サラマンダーが刺繍されている。

南端サウスエッジの領主・クラウン辺境伯を父にもつ者として、ふさわしい装いだ。


足元にいる『ムギ』と名づけられた龍造犬が、突然の訪問者を歓迎するかのように、尻尾を車輪のようにぐわんぐわんと回している。



龍造犬シェパードとは、犬の姿を模して造られた龍造人形の一種である。

忠実な性質と小回りの利く体躯を活かし、屋敷の警護や伝令役として重宝されてきた。だが、ムギは特別製なのか、主人以外の誰にも吠えず、誰彼かまわず愛想を振りまいている。これでは、龍造犬本来の役目を果たしているとは言い難い。


龍造人形は犬のほかにもさまざまな動物を模した個体が存在し、それぞれの性質に応じた環境で運用されている。いずれも、ロゴス国の基盤を成す不可欠な構成要素となっている。



「……っ!もう、お目覚めでしたか。失礼いたしました。」


サルウィンが一瞬、言葉を詰まらせる。


(チャンスだ!)


ジュナの口元がほころぶ。


ジュナはここぞとばかりに、サルウィンが日頃から使う説教の決まり文句を、冗談半分に真似てみせた。


「いけっません!ジュナさま!”出来ない”という先入観に囚われれば、上手くいくことも思い込みのせいで失敗してしまいます。よろしいですかぁ!言葉には、


「『魂が宿る』、ですね」


サルウィンはジュナの声に被せると、険しい目つきはそのままに、口の端だけがゆっくりと吊り上がった。


「……まさか、お説教されるとは思いませんでした。ジュナ様が《《たまには》》早起きされる可能性を私は失念していたようです。《《お互いに》》、言葉には気をつけねばなりませんね」


「も……もちろんだよ!」


笑顔という仮面を、立場の都合上どうしても外せずにいるかのようなサルウィンの表情に、ジュナは苦笑いで応えるしかなかった。


「んんっ!」


扉前で待機していたメイドが、わざとらしく喉を鳴らして警告する。サルウィンは肩を跳ねらせるや、すぐにメイドの方へ振り返り、頭を縦に振った。


「ジュナ様、龍造馬クサントスを屋敷の下に待たせております。ご準備が整っているようでしたら、聖焔教会へ参りましょう」


「ああ!準備はできてるよ。行こう、サルウィン!ムギも、ちゃんとついて来るんだぞ!」


(学校生活が始まるんだ!)


ジュナは胸の中で、その思いを何度も反芻した。

ドクン、ドクンと心の奥で鳴る鼓動が、全身に響き渡る。

息をするのも惜しい。


金属の爪を床に小気味よく弾ませるムギと並んで玄関まで駆けていく——その途中、いつもは陰気に思えた柱時計の金装飾が朝日を受けて一瞬きらめく。

廊下に飾られた絵画の風景は、まるで本当に風が吹き抜けたように、今にも揺れ出しそうだ。


あれほど忌まわしく感じられていた屋敷は、今や光に満ちあふれ、ジュナの門出を祝ってくれているかのようだった。




♦︎♢♦︎




玄関先には、石膏のように白く滑らかな表面をもつ二体の龍造馬クサントスが、キャリッジ(四輪馬車)に連結されていた。命令が下るその時まで彼らはぴくりとも動かず、遠目には誰もがそれを馬の彫像だと思うだろう。


けれど傍らに立てば、気づくはずだ。

夕景を凝縮した琥珀色の瞳には、優しく問いかけるようなほのかな光が宿っていることに。


ジュナの目に映るその姿は、凛とした佇まいと瞳の輝きが相まって、思わず見惚れるほどの気高さを湛えていた。


サルウィンやメイドたちがキャリッジに荷物を積んでいるあいだ、ジュナは見送りに来た父クラウンと妹ルミーに別れの挨拶をしに向かった。


「母さんはちょっと体調が悪くてな、今はベッドで休んでいる。すまん、ジュナ。せっかくの門出なのに、こんなふうになってしまって……」


背を丸め元気なく言うクラウンに、ジュナはどこか寂しげな、けれど作り物めいた笑みを浮かべた。


「……残念ではありますが、母上のお体の方が大切ですから」


「……そうか」


クラウンは気まずさを誤魔化すように何度も口ひげをなでつけながら、きまり悪そうに笑った。


「もう!お父様ったら」


重たい空気を破ったのは、やはりルミーだった。溌剌とした明るい声が、あたりの空気を和ませるように響く。


「せっかくのジュナお兄様の晴れ舞台なのですから、笑顔でお送りしませんと、幸先が悪くなってしまいますわ。」


ルミーは軽やかにクラウンから視線を外し、ジュナを見上げて、えくぼができるぐらい明るく微笑んだ。


「でも勘違いなさらないでくださいね。幸先とはつまるところ、”思いの丈”で決まるもの。弱い心のままでは、何ひとつ成し遂げられません。


花に群がる蝶のような在り方は、確かに美しいかもしれませんが、ーーそれは夢のようなもの。文学的には映えても、現実では、少々扱いづらいものです。


ですから!

どうか思いきり楽しんできてください。

評価は後からついてきますわ。お兄様がどんな方であっても、”誠実な意思”さえあれば、きっと大丈夫。

素敵な出会いに恵まれますように。ルミーは、心からそう願っております」


そう言ったとき、ルミーの瞳が光の角度を変えたかのように、ほんの一瞬鋭く輝いた。まるでジュナの反応を冷静に測るかのように、感情の波を一切みせない冷たい目線だった。


ジュナは小さく息を飲み、それでも微笑んで、「ありがとう」と返す。

するとルミーは、先ほどの鋭さなど忘れたかのように、無邪気な笑みを咲かせた。


「さようならジュナお兄様」



ジュナは別れの挨拶を終え、いそいそと馬車に乗り込もうとしたが、クラウンが思い出したように素っ頓狂な声を上げ、慌てて窓際に駆け寄ってきた。


「ジュナ、忘れるところだった。これを受け取ってくれ。いろいろ考えたんだが……やっぱり、お前が好きなものを贈るのが一番だと思ってな」


差し出されたのは、龍造人形に関する技術書だった。クラウンは贈り物をするたび、決まってジュナに蔵書を選んできた。


ジュナはその場で本を開き、著者名や出版年、目次を素早く確認すると、ようやく取り繕った笑みを浮かべてクラウンに顔を向けた。


「ありがとうございます、父上。このような貴重なものを‥‥本当に、恐縮です」


その言葉に、張り詰めていた糸がふっと緩んだように、クラウンは安堵の表情を見せた。


それを見たジュナは、気を取り直して、いつものように元気よく頭を下げた。


「それでは、行ってまいります。父上、どうかお元気で。ルミーも元気でいてください」



「命令だ、東門まで走れ!」


サルウィンの号令が飛ぶと、琥珀色を帯びた龍造馬の瞳が、熟れた果実のように赤く灯る。

ジュナとサルウィン、そして龍造犬ムギを乗せた馬車は、蹄の音を高らかに響かせながら、バロバロッサ邸を勢いよく駆け出した。




♦︎♢♦︎




南端サウスエッジ辺境地を治めるバロバロッサ辺境伯家の屋敷は、城郭都市の喧騒から離れた郊外に建っている。ここは”東麦畑地帯”と呼ばれ、静かで広々とした環境を好んだ先先代の当主が、市街地を避けて選んだ土地だった。


バロバロッサ邸は南端都市からはやや離れた場所にあるが、疲れを知らぬ龍造馬のおかげで、城郭都市の東門までは半刻もかからずにたどり着くことができる。



ジュナは抑えきれない喜びに背を押されるように、キャリッジの窓から身を乗り出し、麦畑に向かって言葉にならない歓声を上げた。


「はしたない行動は慎んでください。誰かに見られていたら一体どうするのですか!」


「それは困ったな!こんな麦畑のど真ん中にお貴族様が——なんたる醜態!お恥ずかしいかぎり!」


「大丈夫、大丈夫。都市に入ったら、借りてきた猫みたく、お行儀よくしてるから。

サルウィン、今最高にいい気分なんだ!」


サルウィンはジュナの突然の奇声に眉をひそめ負けじと声を張り上げるが、心底楽しそうなジュナの表情を見るや、肩をすくめ椅子に深く座りなおした。


「まったく……先が思いやられます」



いつしか奇声も止み、窓から身を引いたジュナは、頭をもたげてくるムギを撫でている。


普段のジュナ様なら、こうした移動時間には、決まっていつも読書に耽っていたはずなのに——今はただ、焦点の定まらない目で流れていく麦畑の風景をぼんやりと追っているだけだった。


「ご当主様から頂いた本は、お読みにはならないのですか?」


サルウィンの問いかけに、ジュナは夢から引き戻されたように、ゆっくりまばたきをして彼に目を向けた。瞳の奥がごくわずかに揺れている——迷っているのか、それとも何か決めかねているのか。


「父上は、新刊が出れば欠かさず全部揃えてくれる。だけど、サルウィン。僕にはそのどれも読む資格がない気がするんだ」


掠れた声で呟いたジュナは、気持ちよさそうに眠っているムギに視線を落とした。

だがサルウィンにはその言葉が何を意味しているのか、すぐには見当がつかない。


「そのお言葉、正直に申し上げて私には理解しかねます。

ジュナ様に読む資格がないというのなら、いったい誰がそれにふさわしいというのです?

少なくとも私にはその本を読んでも得るものはほとんどございません」


「違う!」


ジュナが突然立ち上がった。

目を宙にさまよわせながらも、どうにか胸の内を言葉にしようと必死だった。


「サルウィン、違うんだ。内容がわかるかどうかの話じゃないんだ。

……こんなによくしてもらっているのに、僕は父上の期待にちゃんと応えられているのかなって。

そう思うと、なんだか……申し訳なくて……」


言葉が萎んでいき、ジュナはようやく我に返ったようだった。

感情が溢れ出したことに気づいたのか、頬を赤らめて静かに腰を下ろす。


「……すまない、サルウィン。つまらないことを言った。できれば聞かなかったことにしてほしい」


サルウィンは一礼し、

「承知しました」とだけ答えた。


麦畑の風景を追い、風に目を細めるジュナの横顔からサルウィンはそっと目を逸らした。


そのときだった。


「龍造馬止まってくれ!」


ジュナが緊迫した声で叫び、キャリッジのドアを足で勢いよく押し開けると、何かに突き動かされるように飛び出していった。


「どうされたのですか!」


まだ目的地には着いていない。

サルウィンは窓越しに外をうかがい、護身用の剣を腰にひっかけて、迷わずジュナの後を追った。


龍造馬が走りやすいように舗装された道の路肩——そこに、ひとりの老夫が息を荒げながら足を抱えてうずくまっている。物乞いの芝居には見えない。どうやら本当に足を痛めているのだろう。

だが、それを理由に助けることを正当化すれば際限がなくなる。


ジュナがみすぼらしい老夫に手を伸ばそうとしたので、サルウィンはその手を強引に引き寄せた。


「なにをなさるおつもりですか。病を持っているかもしれません。むやみに触れて、ご病気にでもなったらどうするおつもりです」


サルウィンは喉に魚骨が引っかかったようなわずかな罪悪感を覚えた。だが、それでも自らの役目を全うすることだけを考えた。人はやろうと思えばどんな行為であれ正当化できる。心情などという曖昧なものに、合理は耳を貸さない。


浅く息を吐き、老いた男に事務的に告げた。


「ご老人。ここで何をしておられる?ここはバロバロッサ辺境伯の私有地。勝手な立ち入りは許されていない。即刻、立ち去りなさい」


顔から滝のような汗を流す老夫は息を整えることさえままならず、声を絞り出すだけでひと苦労のようだった。


「さ、作業が……遅れてたもんで……間に合わせようと、急いで……うっ、足を、路肩で……くじいて……」


老夫の首から下がる立ち入り許可証を見て、サルウィンも彼がバロバロッサ辺境伯領の小作人であることは理解していた。それでも、関わるべき相手でないという判断は揺るがなかった。


「近頃の物乞いは芝居の腕を上げていると聞き及んでありましたが……なるほど、どうやら事実のようですね。ジュナ様、どうかご油断なさいませ。あれはただの物乞いです。


ご心痛なさる必要などございません。私が銅貨をいくばくか渡しておきますので、どうかキャリッジにお戻りくださいませ」


「サルウィン!この方は演技なんかしてないよ。ほら見て……足の内側、ひどい腫れだ」


サルウィンを見つめるジュナの目は無表情だが、口元だけがわずかに吊り上がっている。


——嘘を見抜かれた。

ジュナ様の怒りは、いつも口元から始まるのだ。


(仕方がありません)


「……承知しました。私がこの者の足を手当てします。ジュナ様は、どうか先にキャリッジへ」


「いや、僕が癒す。サルウィン、退いてくれ」


「なっ……なりません!」


ジュナは一歩踏み込み、躊躇なく両手でサルウィンの肩を押した。

その力の強さに、サルウィンは思わず身を引いた。


「ムギ、来るんだ」


主人の声に応じて、龍造犬ムギがキャリッジを飛び降り、ジュナへと駆け寄る。そして、差し出された手に、咥えていた”龍石”をそっと渡した。


「『癒しの力』は王侯貴族及び聖職者階級にのみ授けられる特恵のはず。あなたの行為は、この国では最も重い国罰に……」


「関係ない!」


ジュナは指輪をはめた左手で龍石を強く握りしめると、迷いなく老人の傷に触れた。


「この人だって、生きてる。心があって、痛みだって感じる。

ただの……ただの《《道具》》なんかじゃ、ないんだ……」


それは、誰かに説明するための言葉ではなかった。

まるで、自分に言い聞かせるような呟きであった。


サルウィンは、その声に反論する言葉が見つからず、ただ黙っていた。


『癒せ』


龍石からひかめく光が解き放たれ、無数の光の粒が静かに老人の足を包みこむ。


「ちゃんと痛みがある……この人は、ただの道具なんかじゃない。

僕がこの人を見捨てたら、誰が見つけてくれる?

僕だけは……僕だけは許しちゃいけないんだ」


ジュナの声はだんだんと曇り、堪えきれない涙で視界が歪ませていく。


「絶対に許すもんか」


役目を終えたように、包み込んだ光の粒は霧のように舞い散っていく。


癒しを終えた老人は、痛みの引いた足でそろりと立ち上がりながら、目の前の光景を不思議そうに眺めていた。

ご愛読ありがとうございます。


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