21 -朱鯉池
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21 -朱鯉池
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「おはようございます!皆さん、昨日の教室と訓練場の往復でお疲れでしょう?そんな皆さんに、ちょっとしたサプライズです。今日は気分を変えて、朱鯉池を散策しながら、ゆったりと楽しいひとときを過ごしましょう!」
カリオン先生の魅惑的なお誘いに、生徒たちから歓声が上がりました。私も久しぶりの外出に心が高鳴り、胸の奥で速まる鼓動に抗えません。
先生はいつも通りの穏やかなお姿で、生徒たちの喜びに応えるように、白い歯をのぞかせ爽やかな笑みを浮かべていらっしゃいました。
セピアが懐から取り出した華王の粉末——あれが本当にカリオン先生の所有物なら、この笑みは偽物ということになるのでしょうか……。
いけません。
確たる裏付けもない証拠でしかないのに、龍神に仕える神官に対して無礼です。いえ、それ以前にカリオン先生ご本人に対して失礼になります。
真剣味を欠いたあの男の言葉です。私たちを翻弄して楽しんでいるだけ——そう考えるほうが、ずっと自然でしょう。
「表向きは朱鯉池で水の恩寵を引き出す訓練、ということになっていますが、どうぞ他の先生方にはその通りにお伝えくださいね。さあ、」
「これが授業でないのなら、部屋に戻ってもよいだろうか」
カリオン先生の言葉を遮るように発言したのはテオ様でした。
ジュナ様の隣、最前席に腰掛けていたテオ様は返事を待たずに立ち上がられましたが、その身は今にも崩れ落ちそうなほど憔悴しておられました。
ジュナ様が手を差し伸べますが、テオ様には何も映っていないようです。肩がかすかに触れるだけで、彼はよろよろと教室を出て行かれました。
胸の奥が微かにざわめき、「本当にこれでいいの」と問いかけてきます。けれど、すぐに背筋を伸ばし、視線を前に戻します。憐れんで自分が救われても、テオ様の助けにはなりません。
「これは強制ではありません。もし皆さんの中で、ゆっくり部屋で過ごしたい方がいらっしゃれば、戻っていただいて構いません」
カリオン先生の温かい配慮に場が和み、ふと見回して……セピアがまだ来ていないことに気づきました。
今日も遅刻でしょうか……まったく、信用できない人です。
弾んだ声を交わしながら、皆でカリオン先生に続いて西棟の渡り廊下を歩きます。どうやら訓練場から朱鯉池へ向かうようです。
私自身、聖焔教会で祈る以外に寄り道をしたことがないため、この台地の地理にはあまり詳しくありません。ただ、『西棟:訓練場』を少し南下した先に朱鯉池があると聞いたことはあります。
カリオン先生は訓練場の扉を開けるため、腰に下げた鍵輪に手を伸ばしました。そこから、金色で持ち手に縦三本の飾り罫が刻まれた鍵を選び取り、鍵底に差し込みます。素早く時計回りに三度、続けて反時計回りに二度回すと、ガチッと軽快な音を立てて錠が外れました。
雲ひとつない空を見上げ、私は学院内に溜まった埃を落とすように長い息を吐き、新鮮な空気を大きく吸い込みます。
屋上での日光浴も心地よかったですが、地上の開放感は格別です。
学友たちも陽光に照らされて、一段と笑顔を輝かせているように見えました。
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訓練場を南へ下り、大通りから外れた控えめな柵門をくぐると、石畳の小道が目の前に続きます。風に混じって運ばれる草木の香りや、雨上がりのような湿った土の香りが、いつもと違う場所に足を踏み入れたことを知らせてくれます。
しばらく進むと、朱鯉池の広がる開けた空間に出ました。池は四方を老樹の垣根で囲まれ、中央には一本の木橋が静かに架けられています。葉の隙間から差し込む柔らかな木漏れ日が水面にちらちらと光を散らし、朱色の鯉は穏やかに、まどろむように泳いでいます。鯉がたまに跳ねたときの小さな水音が、周囲の静けさの中で際立って聞こえてきました。
私は思わず息をのむほどこの密やかな美に、心がしばし奪われました。
聖焔教会の参礼者でいつも賑わう台地に、こんな自然豊かな場所があるとは思いませんでした。おそらく、私たち龍の子のために立ち入りを制限しているのでしょう。誰にも会うことなく朱鯉池まで辿り着けたことからも、それは容易に想像できます。
規則を遵守するのは当然ですが、「やってもらって当たり前」ではいけません。常に感謝の気持ちを忘れず、精進せねばなりません。
私は誰もいない後ろを振り返り、ゆっくりと腰を折ってお辞儀をしました。
「到着です!さて、これ以上お待たせするのも野暮ですから、僕からは二言だけ。
厠はあそこの蔵を目印にすればわかると思います。いいですか、僕に報告なく無断で朱鯉池を離れてはいけません。
もう一つ、昼食はこちらまで持って来させます。皆さん、美しい景色を肴に、楽しい思い出をじゃんじゃん作ってください。それでは解散!」
カリオン先生のもう一つのサプライズに、皆は大喜びです。拍手が湧き上がると、自然に誘われるように散策が始まりました。
橋の上から鯉を眺める人、木漏れ日を浴びながら横になって目を閉じる人――それぞれが思い思いに池の静けさを楽しんでいます。
私も池のそばの木に寄りかかり、透き通る水の中を泳ぐ鯉をぼんやりと眺めていました。
……誰かが私を呼んでいるような気がします。鯉の跳ねる音が近くでして、やっと意識が戻りました。
「すみません、ぐっすり眠っておられたのに声をかけてしまいました」
立っていたのは、苦笑を浮かべるジュナ様でした。慌てて立ち上がると、見覚えのない上着が地面に落ちました。どうやら、ジュナ様が私のためにそっと掛けてくださっていたようです。
「申し訳ありません、ジュナ様のお召し物を汚してしまいました」
私は慌てて自分の上着を脱ぎ、差し出しました。
「どうぞ、こちらをお使いください。土のついたお召し物は、私が責任を持って綺麗にいたします」
「そ、そんなことまで気を使わないでください!」
ジュナ様は視線を伏せ、わずかに唇の端を震わせながら、私の手から土のついた上着を強引に奪い取られると、軽く払ってそのまま羽織ってしまわれました。
私も負けじとジュナ様の上着を脱がせるため手を伸ばし、互いに一歩も引かぬ無言の応酬を繰り広げるも
……結局折れたのは私の方でした。
ふと、周囲の視線がこちらに集まる気配に気づいたのです。
冷静に俯瞰できた瞬間、頭の血が逆流するかのように顔が熱くなり、思わず「ひえっ」と声にならない声を漏らしてしまいました。
これではまるで、ジュナ様に不良行為を働いているかのようではありませんか。
混乱して口の利けない私に、ジュナ様は少し声を抑えておっしゃいました。
「昨日のことで、少しお話できませんか?歩きながらでも。無理にとは言いませんが、今なら二人きりで話せそうですから」
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「ご心配には及びません。今の私にできることを果たしますから」
私とジュナ様は木橋の中央に腰を下ろし、素足を水面近くへ投げ出しました。朱色の鯉がゆったりと泳ぐたび、水面に微かな波紋が広がっていきます。その揺れが私たちの秘め事をそっと隠してくれるようでした。
今、景色を楽しむだけのように装いながら、私たちは池に向かって言葉を交わしているのです。
二人で学院の資金記録を調べることになっていましたが、ジュナ様は放課後に武芸の稽古が入ってしまいました。
私一人でも記録室に入って調べることはできますが、ジュナ様と一緒のほうが何かと怪しまれずに済むため、昨日の茶会で「調べ物の際は必ず同行する」という方針が決まったのです。
今日は帳簿士を含め、カリオン先生の資金管理に関わる人々の情報を集めることになりそうです。
「フリージアさんに大きな負担をかけておきながら、僕は横で悠々と自己研鑽に励むなんて」
そう口にされたジュナ様の声には、取り繕いのない後ろめたさがにじんでいました。
その反応に胸の奥がざわつき、思わず顔を上げて声を強めてしまいました。
「いいえジュナ様、それは違います。
足元ばかりをご覧になって忘れておられるのかもしれませんが、
研鑽を積み、為政者として相応しい矜持を身につけられることこそ、ジュナ様の第一の責務なのです」
その瞬間、ジュナ様は肩をびくりと震わせ、怯えを帯びた目で私を見返されました。蛇に睨まれた蛙のように、ただ硬直されたまま——。
あまりに意外なお姿に、私も息を忘れて固まりました。
……また、余計なことを言ってしまったのでしょうか。
「で、出過ぎた真似を、失礼しました……。
それに、私はジュナ様より大変ということはありません。
カリオン先生を追跡するほうが、よほど困難です。本当にお一人で大丈夫ですか」
口から出た言葉に嘘はありません。それでも、あの狼狽されたお姿が網膜に焼きついて離れず、とっさに話題を逸らしてしまったのです。
「そんなことはありません。鼠型の小さな龍造人形を造ってあります。」
……あら?
先ほどまでの動揺が嘘のように、ジュナ様は柔和な笑みを浮かべておられました。
私の思い過ごしかもしれません。以前もただの笑顔を勝手に深読みし、騒ぎを大きくしたことがありました。
また考えすぎて、話を乱したくはありません。私は慌てて意識を会話へ戻します。
『鼠型の小さな龍造人形を造ってあります。』
ジュナ様は当然のことのように言い切られましたが、どうしてそれで先生の追跡につながるのか、私にはまったく見当がつきません。
「鼠型の龍造人形……ですか。すみません、私には想像がつきません。どうやって追跡に使うのか教えていただけますか?」
「ん?普通にですよ。龍造鼠を追跡に使い、あとで回収して、その中の龍石から記憶を読み取ればいいだけです」
人形を造った?龍石の記憶を読み取る?どれも私にはさっぱり分かりません
ジュナ様は淡々と、しかし確かな手応えを感じているかのように言い切られました。
龍造人形に、そんな芸当が本当にできるのでしょうか――。
昨日、ティアナから決闘の様子を聞きました。
ジュナ様は、テオ様の龍造岩を自在に操ったとか。
そもそも龍造人形は鳥の雛のように、一度主人と定めた相手にしか命令を受け付けないはずです。
それを自由に操れるとは……やはり、噂どおりジュナ様の技量は桁外れなのかもしれません。
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