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1 -辺境伯の息子


1 -辺境伯の息子



朝焼けに染まった山の稜線を越えて、淡黄色の光がそっと寝室を照らし始める。

夢うつつの少年は顔をしかめ、無意識に掛け布を頭まで引き寄せた。


(まだ眠っていたい)


もう一度、あの夢を見たかった。

思い出そうとすればするほど、記憶は煙のように指の間をすり抜けていく。

残るのは、擦り減った断片ばかり。

それでもぼんやりと思い出すその断片の中で、満ち足りた余韻がそっと染み渡った。


少年は枕に顔を埋め、ぎゅっと目を閉じる。


数分も経たないうちに、

コンコンと重たい木製のドアノックの音が響き、


「失礼いたします」


返事を待つ間もなく、勢いよく開かれたドアからズカズカと踏み込んでくる。


幼少の頃から仕える世話係兼教育係のサルウィンは、剃刀のように峻厳な性格で、些細な粗も見逃さず、まるで鬼の首を取ったように口を尖らせ怒ってくる。


「おはようございますジュナ様、お目覚めの時刻はとうに過ぎております。お支度をお済ませくださいませ」


ジュナはさらに枕に顔を埋め、無視を決め込んだ。その態度にサルウィンはため息をつき、声を一段階低くする。


「14にもなられたというのに、大層ご立派な態度ですね。よろしい、私も改めましょう。さあ、ご忠告いたしましたよ」


言うが早いか、ジュナから枕をひったくる。


必死にシーツにくるまり足掻こうとするも、すでにサルウィンの指示で動いていたメイドたちに取り押えられてしまった。


「おはようございます、ジュナ様」


身動きできないジュナに愛想なく挨拶するサルウィンは、その性格どおりの外見だった。鷹のような鋭い目、尖った顎の線から滲み出る融通の利かない怖面。

相まみえたら最後、もう白旗をあげるしかない。


「もう抵抗はしないよ……。だからその怖い顔で睨まないでくれ」


サルウィンはわずかに口を横に引き、無言で窓際まで後退した。


「早速ですが、『龍怜の儀』に必要なお召し替えの用意が整っております。」


サルウィンが見張る中、メイドたちは無言のまま、粛々とジュナの髪を整え、白無地の素朴な礼服に着替える手伝いを終えた。


「ありがとう」


ジュナはそっと、メイドたちの顔色を窺いながら感謝の言葉を口にする。

そして、そのままサルウィンだけを伴って、自室を後にした。



♦︎♢♦︎



屋敷の裏口を抜け、長いアーチ状の渡り廊下を渡る。

鉄製の仰々しい庭門をくぐった先に広がるのは、奥園『水景園』。


細い一本橋は人がひとり通れるほどの幅が続き、両側の水面には『華王』と呼ばれる手のひらほどの大輪が、水面を隙間なく覆い尽くしている。

血のように鮮やかな赤。絹のようにしなやかな花弁。

それは、栄華という言葉にふさわしい華やかさを湛えていた。


——この世の栄華はここにあり。


年中咲き乱れる『華王』の姿を眺めていると、この言葉が自然と浮かんでくる。


「サルウィン、本当に『龍怜の儀』に参列しなきゃいけないの?」


一回り大きい白無地の長い袖を振り回しながら、自分の世話係を横目でうかがう。相変わらずブスッとした顔は変わらない。叱らないということは、まだ話を続けてもいいのだろう。


「いつもなら、父上がお務めになる儀式だろ? だったら、皆が出ていったあとに僕一人でやればいい。

どうせ僕がいたら場の空気が悪くなるだけだ」


「……そんなことありません。」


眉間の皺を寄せたサルウィンの表情から、その言葉に内にある真心が透けて見える。


「嘘つくの苦手だよね」


「今、何とおっしゃいましたか?」


問い返すサルウィンにジュナは小さく笑ってみせた。


「独り言。気にしないで」


水面に咲く『華王』には花弁にはもちろん、花茎にも花柄にも、香りというのものが全くない。鼻腔をかすめるのは、湿った土の匂いと澄んだ水の匂いだけ。

もしかしたら華王は、この世ではないどこかに、香りだけを置いてきたのかもしれない。


そうであったなら、きっと……少しは救われる気がする。



♦︎♢♦︎



水景園の中心地まで続く細橋を渡り終えると、そこには小さな島がある。


この小さな島は血族以外の立ち入りを許されていない。だから規則に従って、サルウィンをここに残し、ひとりで先を進まなければならない。


ジュナは従者の不安そうな顔を見上げ、小さく笑った。


「またあとでね、サルウィン」




小さな島は水面を覆う鮮血色の『華王』とは対照的に、古寂びた小さな礼拝堂がひっそりと佇むだけで、他には何もない。


ジュナは滑らないように苔むした石畳の道を慎重に進み、


『龍怜の儀』が執り行われる礼拝堂の前に立つと、恐怖を堪えながら震える手で扉を押し開けた。



♦︎♢♦︎



小さな礼拝堂にはいくつかの小窓があり、か細い光の筋が差し込んでいた。


教壇の奥には、地面にそのまま安置された龍神像がある。威厳というより、どこか親しみやすさを感じさせるお姿であった。


「あっ、ジュナお兄様。起きてくださいお父様!ジュナお兄様がいらしたわ。ほら、起きてください!」


妹のルミーは、教壇の近くにある長椅子でうたた寝してる父を揺り動かしながら、眉を八の字に寄せて困っている。


ジュナも父を起こそうと、ルミーに加わろうと一歩踏み出しかけたその時、聞き慣れた芝居がかった声が背後から突き刺さり、ジュナの心臓を凍りつかせた。蛇に睨まれたカエルのように身動き一つできない。


「これはこれは!『龍の子』であらせられる弟君が、ようやくいらっしゃったか」


「お、おはようございます。ディナミス兄さん……。遅れて申し訳ありません」


壁に寄りかかっていた兄ディナミスは、軽蔑の眼差しを隠すことなく小馬鹿にしたような笑みを浮かべたまま、たどたどしく話すジュナを愉快そうに眺めていた。


(耐えるんだ)


ジュナは視線を足元に落とし、ただ時間が過ぎるのじっと待った。



「ジュナ、やっと来たか。あまりにも遅いのでうたた寝をきめこんでしまったぞ。」


ふくよかな体を揺らしながら父クラウンが小走りにやってくると、手入れが行き届いた左右対称の大きな口髭を撫でつけて、にっこり微笑んだ。


こんなふうに思うのは失礼になるかもしれないが、均等に整えられた口髭は、むしろでっぷりとした顔とのギャップを際立たせ、大人になりきれていない子供のような、どこか頼りない印象を与えていた。


「めでたいことに、お前も学校に通える年齢になったのだな。いやいや、ようやく今まで担いできた重荷を、いくつかお前に託すができる。それでだ!さっそく『龍怜の儀』をお前に任せよう!」


兄ディナミスはヒューと口笛を吹き、大袈裟に拍手した。


「よかったなジュナ、お前にしかできない大変なお仕事だ」


「……かしこまりました」


ジュナは手を強く握りしめ、恭しく答える。


「それはそうとディナミス、なぜ礼服を着てこなかったのだ?」


右胸ポケットに、いくつもの徽章がきっちりと縫い込まれた騎士団制服の姿で儀式に参加しようとする兄ディナミスに、父クラウンは感心しないという表情を浮かべた。


「めんど、いえ、儀式を終えたらすぐにここを発たないと間に合わないですよ。

ありがたい話です、本当に。俺もレオン兄上ほどではないですが、『聖都セントラル』で忙しくさせてもらってますんで」


ディナミスは一瞬冷ややかな目をジュナに向けたが、すぐに興味が失ったかのように無表情に戻った。


「うむ、しかし……『龍怜の儀』は白無地の礼服で行う。これはしきたりだと、大切な行事だとあれほど言ったではないか」


「ええ大事ですとも。母上も兄上もおいでにならないくらいには大切な行事です」


父クラウンは口を開きかけたが、しばらく考えたのち、諦めたようにフッと笑った。


「それもそうだな。ならば、顔を見せにわざわざ帰ってくれただけでも感謝せんとな」


兄ディナミスは慇懃に頭をさげた。



「遅くなったな、ジュナよ。さあ、はじめてくれ」


父クラウンの声に促されるままにジュナは教壇へと歩を進めた。


教壇の奥——信仰の象徴である龍神像の手前には、一本の燭台が静かに据えられている。

その先端には、一見すると何の変哲もない、片手で持ち上げられるほどの小さな岩塊が、ぴたり嵌め込まれていた。


ジュナは小さな岩塊にそっと触れて、静かに目を閉じる。

太陽のように心地よく暖かな光を頭の中に思い描きながら、低く囁きように言葉を紡ぐ。


「輝け」


その瞬間、岩塊が胎動するかのようにわずかに熱を帯び、内に秘めた力が淡く発光しはじめた。

その光はまるで、ステンドグラス越しの陽光のように幻想的で、周囲を優しく包み込んでいく。



この岩塊は『龍石』と呼ばれ、


龍神の血を継ぐ者――すなわち『龍の子』のみが干渉し、恩寵を引き起こすことができる。


やがて、聖堂のいたる所に埋め込まれた無数の龍石も、燭台に灯る龍石に呼応するかのように、水が低きに流れるような自然の摂理に従って共鳴を始め、次々と輝きを放ち始めた。


静寂と孤独を歓迎した古い聖堂は今、満ち溢れた光によってその性質を変え、訪れるすべての者の心を、等しく包み込んだ。


皆静かに両膝を地につけ、両手を組み、龍神の奇跡に深く感謝の祈りを捧げた。



♦︎♢♦︎



「それでは、父上。これから聖都セントラルへ戻ります。母上にもよろしくお伝えください」


真っ先に立ち上がったのは兄ディナミスだった。父クラウンに一礼して挨拶を済ませると、兄は迷いなく踵を返し、妹ルミーのもとへ向かう。


「ルミー、父上のこと頼んだぞ。それと——」


ルミーの頭を優しくぽんぽん叩くと、少し身をかがめて、茶目っ気たっぷりに囁いた。


「父上のあの髭、ものすごくダサいからさ。どうにかしてくれって、お前から頼んでみてくれないか?ルミーのお願いなら、きっと耳を傾けてくれるはずだぜ。」


「もう嫌ですわ、お兄様ったら」


ふたりは顔を見合わせ、くすくすと楽しげに笑い合っている。

その様子を、ジュナは少し離れた場所からじっと見つめていた。


お読み頂きありがとうございます。


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