7.旅立ちの日に
よく晴れた気持ちのいい朝。空気はパリッと乾いていて、通り過ぎる空気は冷たくて、まだ高くない太陽の日差しは柔らかい。酒に潰れた男共をしり目に出発の準備を進めていたロゼとミラだが「ああー!!それは置いていってちょうだい!!」クマのイラストが描かれたマグカップを手にするとミラが叫んだ。
「それは持っていかないでほしい!」
「え?ミラさん使うの?」
「使わない!けど、ロゼの物が全部なくなっちまうのは嫌なんだ!」
ロゼがまだ幼い頃にフラミンゴが買ってきてくれたマグカップ。今でも大事に使っているもの。「ロゼの大事なもの全部なくなってしまったら、帰ってこなさそうで・・・。」表情に影を落としてミラは俯いた。その表情とは正反対に「やだなあ、ミラさん!本当に大事なものはここなのに」笑って言った。
「酒場サンジェルが私の一番大切な場所。ここにはサンジェルさんもミラさんもいて、大好きな人たちが集まるところだもん。必ず帰ってくるよ」
「でもこのマグカップはミラさんに預けるね。寂しくなったらこのマグカップでお酒飲んでね」ロゼは手にしていたマグカップをミラに渡した。「・・・マグカップで酒を飲むやつがどこにいるんだい。毎朝これでミルクを飲むよ。あえて甘いやつのね」ミラの目尻には涙が滲んでいた。
「あ、でもあの薬箱は絶対に持っていく!ついに本来の使い方ができるの!」
「ああ、あの遠いところからやってきたっていう行商人が置いてったやつだね」
「うん!役に立ちそうな気がするから!」
昨日の保安官の言っていたことは殆どが狂言であった。香水は貴族にとてもよく売れるので作っている業者は多い。けど品質があまり良くない。だから大量生産よりも昔ながらの手法で丁寧に作るロゼの作ったものが人気だった。質の良いものを手にすると、どれだけ高額だろうと貴族は安物を使わない。ロゼの品を取り扱っているフラミンゴに注文が集中するのは必然だった。それは他者から見れば売上を独占しているという見方をされるのも仕方がなかった。
薬の件も、魔女の手法で作る薬が禁止されているわけではなかった。国によって使用してはいけない原料があるので、それに気を付けさえすれば寧ろ魔女の手法で作られるものは効能が高い上に手に入りにくい希少性があって人気らしい。だが、呪術を主とした魔女も存在していたので良いも悪いも半々の評価というところ。
ロゼが薬棚の横に並べて置いていた行商箪笥に手をかける。骨董品を取り扱う商人が置いていったもの。小さな引き出しが沢山あり、そこに道具や売り物を入れて行商人が持ち歩いていたと言われる中々に大きい木箱。「デカいし重いし嵩張るし、なにより売れない」といって酒代として商人が置いていった。そして言われたとおりどの商人たちも買わなかったので、ロゼが薬箱として使っていた。
「こんな重たいもの持ち歩くのかい?棚に並べてる原料だけでもこんだけあるのに、それまで入れちまうと歩けなくなるよ?」
「キャスターつけようと思ってるの!リヤカーみたいに引っ張ればいいかなって!」
「ああー・・・。うー・・・ん?」
ミラは腕組みしながら納得したような疑問が残るような、宙を見上げながら首を捻った。「俺がやろう」やっと起きてきたサンジェルが店に下りてきた。まだ少し酒が残っていそうだが足取りはしっかりしている。
「旅の安全を祈願して俺がやる」
「ありがとう!サンジェルさん!」
「ロゼはガナッシュをどうにかしてくれ。アイツあのままじゃ、今日発てないぞ」
ロゼは苦笑いを浮かべた。こうなるのがわかっていながらお酒を飲ませたのに、と言えずにいる。「あんたたちのせいでしょうが」思っていたことをミラが言ってくれた。
昨夜、浴びるほど酒を飲まされたガナッシュは早々にぶっ飛ぶこともできず、飲んでは吐いて飲んでは吐いて「俺は意識をなくしたいのに」とぼやきながら飲んだ酒を吐き出すことで意識を保っている自分を恨めしく思っていた。結果、完全グロッキー状態になり、歩けず、呂律も回らず、意識も朦朧としてきたところで、家を出て行ったきり戻ってこないテールズの部屋にガナッシュを寝かせたのだった。
ノックをして「ガナッシュさん起きてますか?」返事はない。ロゼはドアノブに手をかけて扉を開けるとアルコールのにおいが温い空気と共に身体に纏わりついた。ロゼは小走りで窓を開けに行く。
「ガナッシュさん、生きてますか?」
「・・・・・・・・生きて、ません」
「色々お薬持ってきましたけど、飲みますか?」
「・・・・・・・・飲みま、せん」
「もー」
ロゼが呆れた声を出すと「・・・・無理、だ。なにも口にしたくない」ガナッシュはベッドの上で身体を丸める。「ガナッシュさん、頭冷やしましょう」ロゼは水を張った桶にハンカチを浸して絞る。そのハンカチをガナッシュのおでこに当てると「ミントの香りがする」すぐ香りを当ててしまうのはガナッシュが良い家柄の人だからだろうか。
「ミントの香りは吐き気に効きますよ。熱も下げてくれますし」
「ありがとう・・・。もう当分、酒はにおいすら嗅ぎたくない」
「あは・・は」
昨夜のことを思い出すと乾いた笑いが出てしまった。酒豪三人に捕まり苦手な酒を虚ろな目で飲む甘党のガナッシュの姿。助けを求める目でロゼを見てはすぐに顔を戻されて、ロゼができることはこっそり酒を薄めることだけだった。結果それがガナッシュがぶっ飛べなかった理由でもあり、助けたつもりが逆に長く酒に付き合うことになってしまった。
「せめてお水は飲んでくださいね。私、まだ準備があるのでゆっくりしていてください」
「・・・・ロゼはさ」
「はい?」
「本当に・・・いいの?俺たちについてきて」
「え?」
「・・・言い出したの、俺なんだけどさ」
ガナッシュはゆっくり起き上がり、ロゼの用意した水の入ったグラスに手をかけた。そしてほんの少しだけ口に含む。
「私、楽しみですよ。でも、ガナッシュさんやフラミンゴさんの迷惑にはなりたくないので、用事が済んだらすぐ帰りますね」
「用事?」
「セバスチャンさんに会うんですよね?」
「あ・・・、忘れてた」
「え?」
それが本来の目的ではなかったのだろうか。そのついでに聖女様の話や面白い話が聞けたらいいなくらいに思っていた。店を休むのも調査が入る数週間から数か月だけなはずだからロゼはすぐ帰ってくるのだろうと思っていた。
「・・・あれ?ごめん、俺、変な勘違いしてた。・・・そっか、そうだったね」
「ど、どうかしたんですか?」
「いや、勝手に一通り旅を終えたらロゼを国に連れ帰る気になってた」
「ええっ!?」
ロゼの顔が真っ赤になる。「な、なに言ってるんですか!」じっとしておれず水と薬を置いていたサイドテーブルをばしばし叩く。
「なんか、昨日の飲みは、そんな雰囲気あったよな・・と思って。娘を送り出すというか・・・お祝い的な」
「意味合いが違います!!」
「そうか、そうか。間違えた」
ガナッシュは持っていたグラスをサイドテーブルに置いて、自分のおでこに当てていたハンカチをロゼに渡す。ロゼはそのハンカチをまたミントの精油を垂らした水に浸して絞るとガナッシュに渡す。しかしガナッシュが取ったのはハンカチではなくロゼの手だった。
「でも、俺、帰す気ないんだけどね」
思わずハンカチをガナッシュの顔に投げてしまった。
**
ガラガラ音がするその隣で「いいんじゃないのかい?」ミラは木製のタイヤがついた行商箪笥を見て頷いた。「即席にしては上出来だろ」サンジェルも誇らしげにしている。
「その薬箱持っていくって?」
「そう、役に立つかもって」
「ロゼには気軽に旅させたかっただけなんだがな」
「ロゼがそう言ってんだからいいんだよ。よろしく頼むよ」
まだ顔の赤いフラミンゴがカウンター席に座りながら作業しているミラとサンジェルを眺めていた。「・・・悪いな二人とも。俺はお前たちに迷惑かけっぱなしだ」ただの水が入っているグラスを口につける。「ロゼのことも、俺がアイツを連れて来さえしなければ店を出ることもなかったのに・・・。」フラミンゴは二人の顔が見れず顔を背ける。
「店のことはお前のせいじゃない。いつか調査はされるだろうと思っていた。あまりに特殊な経営の仕方してっからな。それにその窮地を助けてくれたのはガナッシュだ。なんも悪いことねぇんだよ」
「そうそう、それにロゼだってアンタのせいじゃないよ。ロゼが決めたんだから」
「そうは言ってもよぉ・・・。」
「私はガナッシュはいい奴だって思ってる。けど・・・大公殿下の正統後継者ともあれば話は別だ。魔女の血を引き、その知識と手法が身についているロゼの存在は貴重で価値のあるもの。どれだけいい奴だろうと、どこでどう変わるかわからない。・・・すまないが、フラミンゴ。ロゼのこと守ってほしい」
「それが俺たちとの今回の取引だ。お前は俺たちに迷惑かけたと思っているが、俺たちもロゼのことをお前に頼みたい。いいか?」
フラミンゴは手に持っていたグラスをテーブルに置き、席を立って二人に近づいた。「取引にならねぇよ。当たり前のことだ。何があってもロゼのことは守り抜いてお前たち夫婦のところに返す。約束だ」真っ直ぐミラとサンジェルを見る。二人は小さく吹き出し「真剣なフラミンゴなんて気持ち悪い」と大きな声で笑った。
**
時刻も昼を過ぎ、出発の準備を終えたロゼとフラミンゴは馬車の前に立ってガナッシュを待っていた。「ロゼ、こいつが俺の相棒ジンだ」大きな馬を撫でてフラミンゴが言う。ロゼはふふっと笑った。
「お酒の名前つけたの?」
「ああ、そうさ。だから言っただろう、俺の相棒だって」
ぶるるぅと鼻を鳴らし首を振るジンに「私ロゼ。よろしくね」挨拶して首を撫でるとジンが擦り寄るように顔を近づけてきた。「さすが俺の相棒。ロゼのことわかってるな。ガナッシュには唾かけてやったのに」まさかの発言にロゼはジンを撫でる手を止めてしまった。
覚束ない足取りのまま、やっと店から出てきたガナッシュに「おい、のろまのガナッシュくんよ。さっさとしてほしいんだがね」カッカッカとわざとらしくフラミンゴが笑うと「怪物・・・なんでそんな元気なんですか」ガナッシュが低い声で小さく呟く。
「ロゼ、気を付けてね。よそ見して迷子になったりするんじゃないよ」
「うん!気を付ける!」
ミラはロゼを抱きしめた。「外の世界は危険がいっぱいだからね。フラミンゴの言うことちゃんと聞くんだよ」ロゼも抱きしめ返す。「怖くなったらすぐ帰ってくるね」そう言えばミラは笑って「すぐ帰っておいで」名残惜しそうに身体を離した。
「ガナッシュ」
「はい」
「お前も帰って来いよ」
「・・・・え?」
「お前たち三人でまたここに帰ってくるんだ。そんときまた飲もうや。それまでに強くなっとけよ」
サンジェルはガナッシュの肩を拳でドンと突く。まさかの言葉に声を詰まらせたガナッシュは頭を下げて「はい」と返事をした。
「そんじゃあ、ちょっくら遊んでくるわ」
荷台にロゼとガナッシュが乗り、馬に跨ったフラミンゴが手を振る。見送るサンジェルとミラは馬車が見えなくなるまでずっと手を振り続けていた。
二人の姿が見えなくなったところで「寂しい?」ガナッシュがロゼに問う。ロゼは首を左右に振った。「今度は私が沢山の土産話をお店に持って帰るんです。楽しみにしててほしいです」嬉しそうに笑っていた。
「で、行先はボワイア国でいいのか?」
「そうですね。予定通りセバスチャンに会いに行きましょう」
「先にジェイミー夫人のとこ行っていいか?謝罪とお礼をせにゃならん」
「もちろんです。俺もお礼しないと。わざわざ発注書まで書いてもらったので」
「お詫びの品は一緒に選ぼうか」ガナッシュがロゼに笑いかける。「パティスリーに寄ろう。行ったことある?」質問にロゼは首を横に振った。「あるわけねぇだろ。どこのブルジョワだっての」フラミンゴは呆れた声を出す。
「オペラが作れるのに行ったことはないんだ」
「フラミンゴさんがよくお土産で買ってきてくれるのでお菓子の種類は知ってるんです。けどお店に行ったことはないですね」
「驚くと思うよ。あと、迷う。どれがいいかってね」
「楽しみです!」
「自分の分じゃねーぞー?夫人へのだぞー?」フラミンゴの注意など気にもせずお菓子の話で盛り上がる二人を見て、フラミンゴはそれ以上何も言わなかった。