ナツの進路 2
早瀬さんはおれを抱きしめてわあわあと泣き出した。
「ごめんなぁなっちゃん! あのとき助けられなくてごめんなぁ!」
「なっちゃん! おおきくなって! よかった! よかったなぁ!」
きっとこの人も大変だったろうに。
そんな風におれのことで苦しんで、おれのことで喜んでくれるから、おれもうれしくて涙が出た。
それから休憩時間ギリギリまでいっぱい話をした。
おれがさらわれてからのことも聞いた。おれもどうしていたのか話した。
今は西村家でしあわせに暮らしていると話すと、早瀬さんはとてもとても喜んでくれた。
社長さんも兄さんもいろいろ話をしてくれた。
「厨房見せるの忘れてた!」と兄さんが思い出し、もう休憩時間終わってるからと遠慮したのに連れて行かれた。
「せっかくだからここに座って見ろ」と椅子まで用意されて、料理が作られる様子を特等席で見せてもらった。
「聡くんの仕事ぶりを見られるなんて。うれしいわ」なんてばあちゃんが喜ぶものだから、兄さんはものすごく張り切ってた。
料理人さん達の活気に、立ち昇る湯気に、香りに、記憶が刺激される。
懐かしい。いつもこうやって見ていた。
おれもこんなの作ってみたかった。
でもおかあちゃんに「お仕事の邪魔しちゃダメよ」って止められた。
だからいつも決められた場所に座って、じっと見てた。
「なっちゃん。ほら」
早瀬さんが小皿を差し出してくれた。
「味見」
あの頃のように笑ってくれて、懐かしくてうれしくて、笑顔がこぼれた。
「ウン。おいしい。合格!」
あの頃のように指でマルを作って言うと、早瀬さんも覚えてくれていたようで涙をこぼして笑ってくれた。
「なっちゃん」
不意に社長さんが声をかけてきた。
「今の、何が入ってるか、わかるか?」
なんでそんなこと聞いてくるのかわからなかったけど、感じたままに答えた。
社長さんはニヤリと笑って「正解」と言った。
そのまま社長さんは別の場所で何かをして、また戻ってきた。
手に小皿を持って。
「じゃあ、これは?」
味見をして、感じたままに答える。
「正解」
社長さん、楽しそう。
おれ、遊ばれてる?
「なっちゃんは料理できるのか?」
「ばあちゃんに教わっているところです」
「なっちゃんはセンスがあるわよー。
この四月から始めたんだけど、煮物はもう任せられるわ」
「ほう」
ばあちゃんの説明に、社長さんが感心したような声をあげる。
「包丁は?」
「ほぼ完璧ね」
「じゃあ」と引っ張られ、なぜか厨房の片隅で包丁と大根を持たされた。
「桂剥き。できる?」
「やってごらんなさい。なっちゃん」
ばあちゃんにすすめられたなら、やる。
おれが上手にできたらそれは、教えてくれたばあちゃんがすごいってことになるもんね。
スルスルスルッと剥くと、社長さんは「なるほど」とつぶやいた。
「じゃあこれ、ツマにして」
言われるままに細く細く切る。
「ふーむ。上手だね」
「ばあちゃんに教えてもらいました!」
ムフー! と胸を張って答えた。
兄さんもウンウンて自慢げだ。
「じゃあ次はこのきゅうりをこんなふうにしてみて」
「次。これをこうして……」
気がついたら何故か野菜の下ごしらえをしていた。
なんで? おれ、素人なんだけど。いいの?
ばあちゃんが喜んでたからまあいいか。
時間になって部屋に案内された。
美しい器に盛られた料理の数々にびっくりする。
見た目も綺麗。味も美味しい。
すごいなぁ!
料理を全部いただいて、お茶をいただいていたら、社長さんと兄さんが挨拶に来てくれた。
「村井くん。聡くん。今日はありがとう。とっても美味しかったわ」
喜ぶばあちゃんに、社長さんも兄さんもうれしそうだ。
「ところでなっちゃんは将来どうするんだい?」
社長さんがそんなことを聞いてきた。
「まだ決めていません」と正直に答えると、社長さんは思いがけないことを言った。
「もし君が料理の道を望むなら、ウチで修業したらいいよ」
「――料理の道――?」
ぽろり。
目からウロコが落ちた。
料理の道。
考えたこともなかった。
料理はおじいちゃんとおにいちゃんがやることで、おれは邪魔しちゃいけないと思ってた。
「それ、子供の頃の話だろう?」
兄さんのツッコミ。
あれ? おれ、声に出てた?
「出てる」
「大丈夫かナツ」
トモがコソリと耳打ちしてくれたけど、呆然としたままうなずくしかできない。
「料理の道」
「おじいちゃんや、おにいちゃんみたいな?」
「おれも、しても、いいの?」
浮かんだ言葉が脳みそを通らずに口から出ていく。
「おれも、料理人に、なっていいの?」
「君さえ望むなら」
「そのかわり修業は厳しいぞ」
社長さんと兄さんがニヤリと笑う。
じいちゃんとばあちゃんはニコニコ笑ってる。
トモはやれやれって感じで肩をすくめた。
「まあ、選択肢のひとつではあるんじゃないか?」
料理人。
進路説明会の職業紹介に、そういえばあった気がする。
おれ、おじいちゃんやおにいちゃんみたいになれるの?
あの空間に、おれも立ってもいいの?
「君さえ望むなら」
何かを望むなんて、許されないと思ってた。
今がとてもしあわせで、将来のことなんて考えられなかった。
でも。
でも。
なんだろう。身体が震える。
なんとか首を動かしてばあちゃんを見ると、ばあちゃんはうれしそうに笑ってくれた。
「『やりたいこと』が見つかって、よかったわね。なっちゃん」
こわれた人形みたいにコクコクうなずくおれに、みんなが笑ってくれた。
それからすぐ、おにいちゃんから連絡があった。
「なっちゃん! 料理人になりたいんだって!?」
なんでも、社長さんと兄さん、早瀬さんの三人それぞれからおにいちゃんに連絡があり、それぞれから叱られたらしい。
「なんでなっちゃんのこと黙ってた!?」って。
春におれが能の家から出られたときに、おれのためにいろいろしてくれた人のところに挨拶にまわった。
でもそれは全部じゃなかったらしい。
おにいちゃんもオミさんも知らないところで、たくさんの人がおれのことを心配してくれていたと聞いて、うれしくてなんだか気恥ずかしい気持ちになった。
春のあの頃はマスコミがわあわあしてて、だからおれが西村家にいることも、転校することも「ナイショにしててください」ってお願いしてた。
だから、挨拶した人は知ってるけれど、それ以外の人には情報がもれなかった。
おにいちゃんはずいぶん怒られたらしい。
「ゴメンね」ってあやまったら「いいよいいよ」って笑ってた。
「それよりもなっちゃん! 料理人の修業するならおれのところに来な! おれが色々教えてやるよ!」
「それもいいなぁ」
おにいちゃんといろんな話をしているうちに、ますます料理人をやってみたくなった。
おにいちゃんに話を聞いた。
どんな進路をとったのか。どうやって決めたのか。よかったこと。大変だったこと。色々。色々。
兄さんも話を聞かせてくれた。
西村の家を出て今の料亭に就職したこと。
高校には行っていないこと。
今の料亭のこと。他のお店のこと。和食だけでなく、洋食も中華も料理人であること。色々。色々。
何故か社長さんや早瀬さんも西村家に来てくれて、いろんな話をしてくれた。
時々台所で料理の基礎も教えてくれた。
「なっちゃんは筋がいいでしょう」とばあちゃんが自慢げにしてくれるのがうれしかった。
あとでオミさんが教えてくれたところによると。
『仕出しなかむら』のことを知っている人は多くて、おれのことを知っていて心配してくれていた人もたくさんいた。
その人達に、元々おじいちゃんの友達だった社長さんがおれのことを話した。
「『なかむら』の孫が料理人を目指している」 「ウチで修業させる」
おにいちゃんが教えてくれたところによると「京都和食界が騒然とした」そうだ。
「なっちゃんはおれが面倒見ます!」と「闘った」おにいちゃんをはじめ、あちこちの人が「ウチが面倒見る」と名乗り出てくれたらしい。
その中には昔『なかむら』で働いていて、おれのちいさい頃のことを知っている人もいた。
「本人に決めさせよう」という常識的な結論が出るまでに、おにいちゃん曰く「掴みかかる寸前の大喧嘩」があちこちでおこったらしい。
なんで?
「それだけなっちゃんが愛されていたのねぇ」
おっとりとばあちゃんが言う。
そうかな。それなら、うれしいな。
そうして、学校が終わってからや休みの日に、あちこちのお店にお邪魔させてもらった。
いろんな話を聞かせてもらったり、修業の真似事をさせてもらったり。
料理の話も進路の話も勉強になるし参考になるけれど、昔の話――おじいちゃんやお店の話を聞かせてもらえるのがうれしかった。
おじいちゃんも、おじいちゃんのお店も、たくさんの人に愛されていたってわかって、うれしかった。
「目と舌で覚えることも大事だよ」と、あちこちで料理をごちそうになった。
その店その店で味も趣向も違っておもしろかった。
ばあちゃんからお茶も習う。
お茶だけでなく、掛け軸やお茶碗、季節の花のことも教わる。
「和食の料理人さんになるなら知っておいたほうがいいわ」といろんなことを教えてくれる。
おにいちゃん曰く、その間も「『なっちゃん争奪戦』が繰り広げられていた」らしく「おれは闘う! 闘うよなっちゃん!!」と、時々意味のわからない連絡があった。
そうやって、いろんな人からいろんな話を聞いた。
そうして、決めた。
料理人を目指すことを。
「高校には行かない。料理人になる」
そう「決めた」と報告すると、いろんな人がさらにいろんな話をしてくれた。
「高校だけは行ったほうがいい」という人が多かった。
でも「中卒でもいいぞ」という人もいた。
オミさんもタカさんもハルも、中卒で修業に入る利点不利点を説明してくれた。
これまでの安倍家の仕事で、おれには「大学の学費まで一括で払えるだけの貯金がある」ことも説明された。
高霊力保持者で退魔の実積のあるおれは、今からでも退魔師として安倍家に就職できる資格のあることも。
「なっちゃんが後悔しないように、しっかり考えるんだよ」と、おれに決めさせてくれた。
「どんな選択肢を選んでも、大なり小なり後悔はする。
それでも、悩んで悩んで決めたことならば諦めもつく。
いつか後悔したときに『あのときあれだけ考えたんだから』と納得するために、今、しっかり考えろ」
ハルもそんなふうにアドバイスしてくれた。
だから、それからもいっぱいいっぱい考えた。
料理人以外の道も考えた。
じいちゃんばあちゃんも、兄さん姉さん達もたくさん相談に乗ってくれた。
いっぱいいっぱい話をして、いっぱいいっぱい考えて。
そうして、決めた。
「高校には行かない」「料理人になる」
じいちゃんもばあちゃんもトモも「おれが決めたなら」と喜んでくれた。
学校の先生達も、いっぱい相談していたこともあり、認めてくれた。
じゃあどこに就職しようか、と話をしていた中学三年生の春のある日。
西村家に、社長さんが来た。
『根幹の火継』で晃が「ナツもなんかしてる」「忙しそう」といっていたのは、こういうことでした。