3・社交界の洗礼
「シッ……黙ってついて来てください」
耳元で聞こえたのは護衛のマルセルの声。
私の背中が彼に密着すると、知らない香水の匂いがした。
不意に視界を塞がれた私は、慣れないハイヒールのせいでバランスを崩し、顔を覆っていた手が外れて一瞬前が見えた。
……あら、やっぱり。
ぼやけた視界の先にフェリクスの背中があり、彼の首には白くて華奢な腕が回されていた。
自宅の庭園で兄と恋人とのこういう場面を何度も見た事がある。
だから彼の背中を見た瞬間、それが頭をよぎった。
きっとここは、本来なら誰も立ち入らない場所なのだろう。
現にこの回廊を歩いているのは私だけだったし、密会するには適している。
正直一人になれるならどこでも良かったのだけど、私の記念すべき社交界デビューの日に、婚約者のキスシーンを見る羽目になるなんてあんまりだと思う。
私なんてまだ誰ともした事がないというのに。
いくら許可を出したと言っても、今日くらい自重してほしかった。
先程親切に化粧室の場所を教えてくれた男性は、フェリクスが他の女性と一緒に居るのを知っていたのだろう。きっと腹いせにここへ来させたに違いない。
ダンスもテラスへの誘いも断られたのがそんなに癪に障ったのだろうか。なんて陰険な男だ。
というか……婚約者が他の女性とキスしていた事より、マルセルにもたれかかった時に彼の服から女性の移り香りがふわりと香った事の方が不快だった。
そりゃマルセルも香水臭くて苦手だと言うはずだ。
それから私はぐりんと方向転換させられ、肩を抱かれたまま来た道を戻り、先ほど出てきたドアの前まで連れて来られた。
マルセルの様子を見ると、なぜかものすごく怒っている。
もしかして、フェリクスの浮気現場に乱入しに行ったと思われている? わざわざ自ら傷つきになんて行かないわよ。みじめになるだけだもの。
「リタお嬢様、なぜ一人でこんな人気のない所に来たんですか? もしや……」
「違うから」
「……?」
「化粧室に行こうとしていたの」
まあ、それはダンスを断る口実であって、本当に行きたい訳じゃないのだけど。
それを聞いたマルセルは、私がトイレを我慢していると思ったのか瞬時に表情が変わり、本気で焦り始めた。
「え? あっ……化粧室はこっちじゃ……。すみません、先に教えておくべきでした。俺が案内します。もう少し我慢出来ますか?」
また子ども扱いして……。
「大丈夫。ダンスの申し込みが途切れないものだから、男性が近寄れない場所に逃げ込みたかっただけ」
それに、私に対する好奇の目を避けたかったから、とは言わずにおく。
「なるほど、奥様のアドバイスを実行されたのですね」
コクリと頷くと、マルセルは眉を下げて笑った。
「皆あなたに興味津々でしたから……。俺の見た感じだと、あと二十人はチャンスを窺ってましたね」
「冗談でしょ、それは勘弁してほしいわ……」
もう顔も名前も覚えていないけど、皆さん曲の途中でも構わず割り込んできたから、多分さっきの時点で二十人前後の人と踊ったと思う。
何人か私の耳に息が掛かるほど顔を近づけてきて、何やら甘く囁いてくるのがすごく不快だった。
思い出してブルッと身震いする。
心底うんざりという顔をしてみせると、マルセルはおどけた表情を浮かべ、恭しく私に腕を差し出してきた。
「ではリタお嬢様。会場に戻って冷たいお飲み物でもいかがですか?」
「……私の事、女よけに使うつもりでしょ?」
差し出された腕を無視して半目で睨みつける。
するとマルセルは胡散臭い笑みを浮かべて頷いた。
「はい、是非お願いします」
こういうところが好き。
「え? 何ですか?」
心の中で呟いたつもりが、声に出ていたらしい。私は慌てて取り繕う。
「あ、ねえ。喉を潤したら私と一曲踊ってくれる?」
私からの誘いにマルセルは目を瞬き、次の瞬間ボッと耳まで赤くなった。
意外な反応が返ってきてこっちまで頬が熱くなる。
子どもの頃からダンスレッスンに付き合ってくれていたから、今さら照れるなんて思わなかったのだ。
だけどマルセルは複雑な表情を浮かべて私から目を逸らした。
「俺はダンスのパートナーに相応しくありませんよ」
彼はずっと、自分が父親のわからぬ婚外子である事を気にしているのだ。
昔は祖父の隠し子疑惑もあったが、実際はうちより権力のあるどなたかの御落胤だという話。
つまり辺境伯、侯爵、公爵、王族のどれか。祖父の交友関係を考えると、他国の貴族という線も考えられる。
だけどいくら高貴な血を引いていても、認知されなくては意味がない。今のところオーフェルヴェーク家が後見をしている青年でしかないので、彼の立場は非常に弱い。
「どうして? 私と踊るのが嫌?」
「いやいや、まさか!」
マルセルは慌てて答える。
「ふふ、決まりね。さーて、冷えたシャンパンでも飲もうかな。喉がカラカラ」
「アルコールはダメですよ。言っておきますけど、俺も今日は飲んでません」
「嘘!? じゃあバーで何を飲んでいたの?」
「炭酸水と葡萄ジュースです」
私はまさかの答えに目をパチクリさせ、やや呆れ気味に呟く。
「あれワインじゃなかったの……真面目ね……」
「当然です」
結構グビグビ飲んでいたから、てっきりワインだと思っていた。
私は夏に、我が家で開かれたパーティーの席で初めてワインを飲んで酔っ払い、かなりの醜態をさらしている。
もしかして、マルセルは私にアルコールを飲ませない為の監視役なのだろうか? グラス一杯なら平気なのに。
「俺は遊びに来たのではなく、ご家族からお嬢様の事を頼まれて来ているのですよ」
「……わかってるわよ」
父は領主として何かと忙しく、体力が戻った母は昨年から職場復帰して月の半分近くを王都で過ごしている。
ちなみに、結婚前の母の職業は王妃様の護衛騎士だ。
現在は国王たっての希望により、幼い王女の傍に置く女性騎士の育成に従事している。
そんな多忙な二人だが、嬉しい事に今日はスケジュールを調整して私を送り出してくれたのだ。
母からは「決して粗相の無いように」と何度も念を押され、父も若干不安を感じているようだった。
フェリクスの前ではおしとやかにふるまうと約束したのだから、信用してほしいものだ。
それにしても、今日の一連の出来事のせいで、ここは酷く居心地の悪い場所として心に刻まれてしまった。
早く領地に帰りたい。
「あの……お嬢様。一応確認しますが、誰かに化粧室の場所を尋ねましたか?」
「ああ、ダンスを断ったら向こうから教えてくれたの。それがどうかした?」
「誰だったのか覚えていますか?」
「う、うん。名前は聞いていないけど、顔を見ればわかると思う」
大広間に戻ると、先ほど私に化粧室の場所を教えてくれた男性が扉近くで数人の美しい女性とシャンパン片手に談笑していた。
そしてこちらに気づいた彼は、勝ち誇ったように私に向けてグラスを高く掲げ、ニヤリと笑う。
ムカつく~! やっぱりあそこにフェリクスがいるとわかっていて行かせたのね!! 女性に人気があるようだけど、性格は最っ低!!
私に嘘を教えたのはあの人だと伝える前に、マルセルはシャンパングラスを掲げた男性に気づいてスタスタとそちらへ歩いて行く。
私は慌てて彼の背中を追いかけた。
え、ちょっと待って。何をする気?
マルセルは表情に出さないようにしてるけど、目で人が殺せそうなくらい怒っている。
シャンパン男はマルセルに気づくと、まるで親しい友人のように声を掛けてきた。
「やあマルセル、君も来ていたとは知らなかったよ。こっちで一緒に飲まないか?」
わー……鈍感。この殺気がわからないのかしら? 髪が逆立ちそうなくらい空気がピリピリしているのに。
「ダリウス様、お久しぶりです。先ほどリタ様に化粧室の場所を教えてくださったそうで、感謝申し上げます」
そう言ってマルセルが微笑むと、そこに居た女性達の頬がバラ色に染まり、目がキラキラと輝きだした。
もう彼女達はそこのシャンパン男……もとい、ダリウスなど眼中にない。
ダリウスの顔が引き攣る。
マルセルは礼儀正しくお礼を言っているだけなのに、ダリウスは明らかに縮み上がっていた。
それはそうだ。彼は自分が何をしたのかわかっているのだから。
「いや、そんな大げさな……。君……彼女の家に仕えているんだっけ?」
何を今さら。あのドアから二人で戻って来たのに、私しか目に入っていなかったのだろうか?
ダリウスはチラチラと傍にいる女性達の顔色を窺う。
しかしどうやら、お姉さま達は彼と同類ではなかったらしい。
彼の態度に同調して私を嘲笑する事は無く、マルセルの言葉の違和感に気づいてきっちりそれを指摘してくれた。
「あら? でも今お二人はその扉からいらっしゃいませんでした?」
「それは変ね。化粧室なら向こうの大扉の方ですのに」
「ダリウス様、嘘を教えるなんて酷いですわ。今日は一段と冷えますのに、リタ様がお風邪を召したらどうなさるおつもりですの?」
「ハハ……困ったな、親切にしたつもりがこんな風に責められるなんて。どうやら私の勘違いだったみた――」
ダリウスが気取って言い訳しようとしたところで、タイミングよく近くの扉が開き、フェリクスが先ほどの女性を連れて戻って来た。
すると場の空気が凍りつき、周囲の人達が一斉に私の反応に注目する。
当のフェリクスはそのまま女性と別れ、足早にバーの方へと行ってしまった。注目される事に慣れているのか鈍いのか、周囲から向けられる視線をまったく気にする様子も無い。
これで完全に状況を察したお姉さま達は、ダリウスに軽蔑の眼差しを向ける。
「貴方ったら、社交界デビューしたばかりの女の子になんて酷い事を……。リタ様、大丈夫ですか?」
大丈夫かと聞かれても、これは一体どう返すのが正解なだろうのか。注目が集まりすぎて頭の中が真っ白である。
確かに見たくない現場に遭遇してしまったけれど、フェリクスの件は想定内だし、本当にトイレに行きたかった訳でもない。
とりあえずニッコリ笑ってみせた。
フェリクスが女性と密会していた件については、気づいていないふうを装う。だって一緒にあの扉から入って来ただけでは、浮気していた証拠にはならないもの。
「勘違いは誰にでもある事ですし、マルセルが気づいてすぐに迎えに来てくれましたので、どうぞご心配なく」
「まあ、何て慈悲深いお嬢様なのかしら……。私達が化粧室へご案内致しますわ。さあ、参りましょう」
人々の注目を浴びる中、お姉さま達は気を利かせて私をここから連れ出してくれた。
そして化粧室で私を慰め、去って行った。
何て気持ちの良い人達なのだろうかと感心しながら化粧室を出ると、出入り口から少し離れた所でマルセルが待っていた。
「リタ様、ダンスはもう十分楽しんだでしょうし、ちょっと早いですが家に帰りますか?」
「あなたと踊ってから帰る」
ちょっとふてくされて言ってみる。
折角二人とも正装しているのだし、嫌な記憶を払拭する為にマルセルと踊りたいのだ。
「だってこのままじゃデビュタントの思い出が悲しいものになってしまうもの」
マルセルは眉を下げ、困ったように微笑む。
「しかし今会場に戻れば、あなたが好奇の目に晒されてしまいます。俺と踊りたいなら、帰ってからいくらでもお相手しますよ」
今戻ればどうなるかくらい想像がつく。
噂通り浮気に寛容な娘なのか、それとも無様に取り乱して泣いて目を腫らしているのか、私の様子を確認しに人が寄って来るだろう。
どっちにしても噂の種にされる。
だからってしたい事も出来ずに尻尾を巻いて逃げるのも腹立たしい。
悔しくて唇を噛む私を見て、マルセルは優しく頭を撫でる。
「そんなに噛んでは唇が可哀そうです。フェリクス様に帰ると伝えて来ますので、そこの部屋で待っていてください。休憩場所として開放されている部屋です」
そう言ってマルセルは踵を返し、フェリクスのもとへと向かった。
キスシーンを目撃した後で一緒に帰るのは凄く気まずいけれど、フェリクスの馬車で来た私には、他に帰る手立てが無いのだ。
マルセルの馬に二人乗りして帰るのも悪くはないが、夜会用ドレスに毛皮のポンチョだけではさすがに凍える。
彼の背中を見送り、深い溜息を吐く。
出だしは良かったけど、華々しい社交界デビューとはいかなったな……。
そして私が休憩室に入ろうとした時、入れ違いで部屋を出ようとしていたご令嬢がドレスの裾を踏み、勢いよくコケた。
「きゃっ……!」
「――!?」
令嬢が床に手を着く寸前、私は片手でヒョイと彼女を持ち上げ、ストンと床に降ろした。瞬く間の出来事。
そして何事も無かったように、私は空いている椅子に座る。
休憩室にいた数名の男女は、お喋りに夢中で何があったか気づいていない。
咄嗟に手が出てしまったけれど、人に見られていなければセーフ。それに人助けならOKだと自分に言い訳する。
盛大にコケたご令嬢は呆気に取られて何が起きたのか理解出来なかったようだが、しばらくしてクルリと振り返り、長いスカートを引きずって私の方へ歩いて来た。
栗色の巻き毛に深緑のつぶらな瞳、大きな丸眼鏡をかけた垢ぬけない少女だ。
よく見るとドレスは借り物なのか、色やデザインが彼女の雰囲気に合っておらず、しかもサイズが大きい。
だからさっき裾を踏んだのだろう。
「あの……私、ダンスリーブ家のポリーと申します。転びそうになったところを助けていただき、ありがとうございました」
ダンスリーブと言えば裕福な子爵家だったはず。
なのにサイズの合わないドレスなのはなぜだろう、と内心思いながら、軽く微笑む。
「いえ、怪我をしなくて良かったです」
「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「私はリタ・テレーゼ・オーフェルヴェークと申します」
私が名乗ると、ポリーは明らかに動揺した。
そして気まずそうに目を伏せてボソボソと独り言を呟く。
「この方がフェリクス様の婚約者でカシミール様の妹……?」
「あの……?」
「あ! いえ。あの、えっと、ごめんなさい!」
「え?」
ポリーは突然私に頭を下げると、スカートをたくし上げて走って部屋から出て行った。
「……今何に謝ったの?」
それから少ししてマルセルが私のもとへ戻って来たが、フェリクスは一緒ではなかった。
今度は誰と一緒だったのやら。まだ帰らないと言われたらしい。
私達は彼の馬車で帰る許可をもらい、タウンハウスへと帰ったのだった。