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明日の天気は  作者: アライ
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第2章 直樹(4)


 どうして、引きこもりなんて状態になってしまったのか。


 地元の町立の小学校、中学校を卒業し、直樹は工業高校の建築科へ進んだ。学生時代は、引きこもりの原因になりがちないじめを受けたり、不登校になることもなかった。クラスではお調子者キャラだった。趣味はヲタク系だったけど、女子に気持ち悪がられることもなかったはずだ、と思う……。


 勉強は好きではなかったが建築を極めたい、建築士になりたいと思い、関東地方にある私立の工業大学へ推薦で進学した。


 卒業する頃は超がつく就職氷河期だったから、ゼネコン目指してアクセク就職活動をするより、地元に戻って個人の設計事務所で働こうと思った。


 すると、コネというほどのものではなく祖父母が家のリフォームを依頼したという薄~い縁で、あっさりと中村設計事務所に就職が決まった。


 社長の中村正造が興した事務所で、従業員は副社長でもある息子、清一だけ。それでも直樹は「早く仕事が覚えられる」「独立も夢じゃない」と希望に満ちていた。


 だが……。中村設計事務所での日々は、今思い出しても胃液が逆流しそうなくらい、辛く苦しいものだった。



 初めは副社長に仕事を教わるように指示を受けた。しかし副社長は「はぁ、面倒くさいな」と言ってほとんど何も教えてはくれなかった。


 それでも見様見真似で資料作りをしてみたが、社長には「直樹くん、何回言ったら分かるの? はい、もう一回」と何度も資料を作り直させられた。


 最初のうちは「まだ慣れていないからミスが多いんだ、早く仕事を覚えないと」と思って頑張った。外出先で怒鳴られても間違えた自分が悪いんだ、深夜まで残業になっても仕事が遅いせいだと思って踏ん張った。


 しだいに、何もなくても「お前見てるとイライラするんだよ」と副社長に嫌がられるようになった。社長にも特に理由もなく、理不尽な叱られ方をするようになった。

 3人だけの事務所。逃げ場はどこにもなかった。


 ある時、役所に提出する書類に不備があり、受け付けられないと突き返されたことがあった。会社の実印を押すところを個人名の印鑑を押していたのだ。


 事務所に戻った直樹はミスを指摘すると、社長は烈火のごとく怒りだした。

「私は社長だぞ! 私がつくった事務所なんだから私が一番偉いんだ! 私が言うことは絶対だ!」

 訳が分からない。社長は自分の間違いを認めず、直樹を3時間も叱り続けた。怒りを通り越して気力が抜けた。

 もう、いいや。それからは耐える日々だった。



「お前さぁ、発達障害なんじゃないの?」

仕事中に突然、副社長がニヤニヤしながら話しかけてきた。

「は? 何ですか、いきなり。違いますよ」


 ちょうど「発達障害支援法」が施行された頃だったが、発達障害は一般的にはあまり認知はされていなかった。

 直樹も単語は聞いたことはあったが、どんなものなのかまでは知らなかった。しかし、副社長の侮蔑を含んだ言い方に、心にザラザラしたものが残った。

 障害という言葉が気にかかり、家に帰ってすぐにパソコンで調べた。


 『生まれつき脳の機能の発達が通常と違うこと』


 ショックだった。症状のチェック項目を見てみると、思い当たることがいくつかあった。


 「忘れ物が多い」「整理整頓ができない」「思いつきで行動してしまう」「注意力がなくミスが多い」「落ち着きがなくソワソワしている」「空気が読めない」


 そうか、俺は発達障害だったのか。いくつか症状の種類があるなかでも注意欠陥多動性障害、ADHDというようだ。


 衝撃を受けたのは間違いない。でも、今まで感じていた生きづらさの原因が分かってホッとした。障害なんだから仕方ないと思うことで気持ちがラクになった。


 発達障害を指摘された次の日、直樹は仕事を休んだ。電話に出た副社長に「てめぇ、甘えてんじゃねぇぞ」と脅されたが、体調が悪いのはウソではなかった。ベッドから起き上がれないほど体が重かった。

 それまでは多少の風邪くらいなら無理して出社していたが、もう自分の身体にムチ打つ気力はなかった。

 だって、俺は発達障害なんだから……。


 その後2日休み3日目に出社すると案の定、社長の叱責が待っていた。割り切ってやっていこうと思っていたが、2時間もツバを浴びながら怒号を聞いていたら、さすがに気が狂う。解放された直後、直樹はトイレで戻してしまった。


 そこからは出社と欠勤を繰り返した。

 心配した母親は病院へ行くことを何度も勧めてきたが、結局、行かなかった。いや、行けなかった。


 発達障害と通達されるのも、うつ病と診断されるのも、怖かったのだ。


 上手くいかなくても発達障害だから仕方ないとラクになれる一方で、発達障害の烙印を押されたら一生背負って生きていかなくてはならない。


 頭痛や吐き気、倦怠感など体調が優れないのはうつ病の症状だと感じていたが、事務所を辞めさえすれば治まると思っていた。

 しかし、自分から仕事を辞める勇気は、直樹にはなかった。



 それは、年末が間近に迫った日の朝だった。外は寒いのに事務所の中はクラクラするほど暖房がきつかった。


そこに社長が気色悪いくらい猫なで声を出して直樹に話しかけてきた。久しぶりに見た社長の顔には薄っぺらい笑顔が張り付いていた。


「直樹くーん、あんまり元気じゃなさそうだね~」

「はい」とも言えず、直樹は「いや、まぁ……」と曖昧に答えた。


「ねぇ、そんなんじゃ、もう働けないでしょー?」

 社長は直樹の肩に手を置いた。これは肩たたき、つまり退職なのか。ふと副社長の方を見ると、喉元の所で親指を横に引いて「クビ」のジェスチャーをした。


「実はねぇ、4月から新卒の子に来てもらうことになったんだよ。直樹くんも大変そうだからさ」


 全くショックはなかった。むしろ、これで辞められるんだという安堵の気持ちだった。3月末までとのことだったが、クビを宣告された翌日から休み、そのまま退社した。


 5年も耐えたんだ。少し休ませてくれ。


 昼夜逆転の生活が始まった。まとまった休みがとれたら旅行や買物に行きたいと思っていたのに、いざ時間ができると外出すること自体が億劫で仕方なかった。無職だと友人に会う気にもならなかった。


 再就職はしばらく「しない」つもりだったが、やがて「できない」に変わっていった。

 一度、穴に入ってしまうと、中は真っ暗で出口が見当たらなかった。



 直樹の退職に前後して、両親が離婚した。

 父親が若い女を妊娠させてしまい、母親が身を引いた形だ。


 直樹より少し年上、30代半ばくらいの女性が60歳を過ぎたおじさんを相手にするのか、そもそも父親の年齢で子どもができるのか、退職金目当てで騙されているんじゃないか。


 直樹は色々と突っ込みたいことばかりだったが、静観した。そして、母親の決断を受け入れた。30歳手前で直樹は母親と2人暮らしになった。



 母親は長年、地元の総合病院で看護師をしていた。看護師長まで務めあげ、定年後も70歳までパートで病院を手伝っていた。


 そのため、国民年金はおそらく満額、厚生年金もそれなりの額をもらっているのだろう。合わせれば直樹が事務所で働いていた頃の1月分の給料を超えるのではないか。

 母親は「年金勝ち組」だった。よく「きちんと支払っていて良かった」と言っている。


 しかも、看護師を引退してからは、近所の農家で収穫や出荷の手伝いをしている。繁忙期と閑散期で差はあるが、月に数万円は稼いでいるだろう。


 マンションの家賃も光熱費も食費も、母親が支払っている。直樹は生活の全てを母親に依存していた。母親がいなければ、直樹は生きてはいけない。


 これ以上、母親に迷惑を掛けたくはない。直樹は真剣に将来のことを考えていた。でも……。どうにかしなければともがけばもがくほど、出口がどこにあるのか分からなくなる。


 だからこそ、母親は大切にしなければと思っている。もしもこの先、介護が必要になっても、俺が必ず面倒を見ると決めている。




 母親を怒鳴ってしまった翌朝、直樹は〝最終兵器〟を出そうと決めた。

 あの「直樹も早く穴から出られるといいね」の言葉は指のささくれのように、まだ直樹の心に留まっているが、それよりなにより母親に謝らなければならない。


 引き出しの中からクリアファイルを出した。

『プロ野球 巨人VS横浜DeNA 2020年3月20日(金)』


 開幕戦のチケットだ。しかも3月20日は母親の80歳の誕生日!

 例年だと3月の最終週に始まるプロ野球は、東京オリンピック・パラリンピックとの兼ね合いで今年は早めに開幕するのだ。野球好きの母親に、これ以上の贈り物はないだろう。


 本当は誕生日の朝にサプライズでプレゼントするつもりだったのだが、今ある〝武器〟はこれしかない。


「母ちゃん、おはよー」

 ためらいながらも台所に立っている母親に挨拶した。一瞬、身体をビクつかせたように見えたが、すぐに振り向いて笑顔を見せた。

「おはよう、直樹」


「母ちゃん、あのさ、昨日は、ご、ごめんな」

「もういいよ。お母さんも直樹を傷付けるようなこと言ってごめんね」


「それでさ、これ。お詫びってわけじゃないんだけど」

 チケットの入った封筒をおずおずと差し出す。


「なに、これ?」と言いながら母親がチケットを取り出して見る。

「これって……?」

「ほんとはさ、当日サプライズで渡したかったんだけど……」

「開幕戦のチケット!? お母さんの誕生日の! うわっ、1列目って一番前ってこと?」


 信じられないという表情で直樹を見る。小さな目で分かりづらいが、瞳が輝いている。照れくさくて目をそらす。


「そう、1塁側のベンチ上の最前列。取るの、大変だったんだよ」

 ただでさえ人気球団なのに開幕戦ともなれば競争率はベラボーに高い。直樹は球団のチケット販売サービスはもちろん、いくつかのプレイガイドに申し込みをしてやっと手に入れた。


「すごい! 直樹、やるじゃん! ベンチだと選手が目の前にくるよね、すごいわぁー」

「今まで、外野席とか指定席でも上のほうでしか観たことなかったもんね」

「ありがとう! お母さん、嬉しいよ」

「うん、ほんと楽しみだね」


 この笑顔を大切にしたい。まるで恋人に言うセリフみたいだな。かなりのマザコン発言だが、世の中の男というものは程度の差こそあれ誰もがマザコンだろう。




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