第2章 直樹(3)
「あーーーっ!!」
分かっている。暴力がいけないのは分かっている。直樹は爆発しそうな自分を感じていた。
マウスをカチカチと連打する。貧乏揺すりが止まらない。自分の部屋に戻った直樹は必死に怒りを抑えようとした。
風船が破裂してしまう。何かのゲームみたいに爆弾をポイッと隣の人に渡せたらいいのに。
そこに掃除機のキュウィーンという耳障りな音が聞こえてきた。母親が割れた茶碗を片付けているのだ。
「あぁ、もうっ!」
直樹はやり切れなくなり、ベッドに飛び乗り布団をかぶった。
直樹は一度だけ、母親に暴力を振るったことがある。
あれは10年くらい前。直樹の引きこもりが一番ひどかった頃だった。
季節は秋から冬へ移り変わろうとしていた。ビュービューとガラス窓が揺れるほど風の強い日だった。
ブッブーと呼び鈴が鳴った。
部屋で漫画を読んでいた直樹は耳をすませた。
築30年ほどになるマンションの2階。アパートのように周りの部屋の声が丸聞こえなんていうことはないが、古さ故か、ある程度の音は響いてくる。
宅配便か何かかと思ったら来客だった。
話し声までは聞こえないが母親がリビングへ招き入れる雰囲気を感じた。母親は明るくて社交的なほうだとは思うが、家を行き来するような友達はいなかったはずだ。
いったい誰だろう。どうやら、それなりの年齢の女性っぽいが、親戚などにこの場所を教えていたのだろうか。
耳をそばだててみるが、話が弾んでいる感じはしない。主に母親がしゃべっているのだろう。時々「うん、うん、うん、うん」とか「そう、そう、そう、そう」とか、しつこいくらい繰り返す女性の相づちが聞こえた。クセなのだろうが、こんな風に頷かれたら、逆に話しづらいんじゃないだろうか。
そう思っていると、突然、部屋をノックされた。
大丈夫。鍵はかけてある。一体、誰なんだ。直樹は返事をしなかった。
「直樹さーん、聞こえていますかー? 初めましてー。就労支援センターから来た関口、関口房江と申しますー」
は? 支援センターって何だよ。
「お母さん、節子さんにね、相談されてやって来ましたー」
母ちゃん、何、相談なんかしてんだよ。
「直樹さーん、直接お話ししたいんで、よかったらドア開けてくれませんかー?」
ばかじゃないか。いきなり見ず知らずの奴が来て、すぐに部屋に入れるなんてするかよ。
「寝てはいないですよねー? 起きていたら返事だけでもしてくださーい」
返事をするもんかとも思ったが寝ていると思われるのもシャクなので、机に置いてあったマンガ本をドアに投げつけた。
バシッ!
「……」
よし、静かになった(笑)。
母親が「すいません、すいません」と謝った。女性とボソボソと話している。
「直樹さーん、このまま話をさせてもらいますねー」
勝手にしろ。
「お母さんはねー、本当に直樹さんのこと、心配してるんですよー」
それは分かっている。母親は普段は明るく振る舞っているが、直樹を気遣っているのは伝わってくる。でも、どうにもならないんだ。
「直樹さーん、今、お仕事してないんでしょー? 1日中ゲームばっかりしてちゃ駄目ですよー」
いや、仕事をしたい気持ちはある。でも、出来ないんだ。その気持ちが分かるか?
「昼夜逆転の生活は体に悪いですよー。外に出ましょー」
だんだんムカついてきた。そんなこと、俺だって分かっている。当たり前のことしか言えないのか、コイツ。
「まずは、生活を整えるのが大事なんですー。朝起きて、夜寝る。これが人間の基本ですからー」
その基本が出来ていない俺は人間じゃないのか。
「体を動かすとスッキリしますよー。手軽にできるラジオ体操とかいいですよー。外に出てみませんかー」
一方的に話す女性の声は止まらない。
「引きこもってしまう気持ち、分かりますー。お仕事って何でも大変ですもんねー」
一体何が分かるというのか。さっきから言っているのは上っ面なことだけだな。心がこもっていない。まるで台詞が決められているようだ。スタッフ用の台本でもあるのか?
もし何とかセンターにマニュアルがあるとしたら、そんなもの今すぐ破り捨てたほうがいい。あらかじめ決められた言葉では、どんなドアも開くことはできない。「開けゴマ」なんて便利な呪文、本当はないのだから。
これ以上、聞いていられない。直樹はヘッドフォンをつけ、お気に入りの『回帰線』をかける。周りの音が聞こえなくなるくらい、ボリュームを大きくした。憧れの尾崎豊も自由を求めてあがいていた。
そう、俺は誰からも支配されたくないんだ。
アルバムを2回聞き終わって、ヘッドフォンを外してみた。ドアの外は静かだった。
ったく。何なんだよ。直樹はベッドに仰向けになった。そのまま寝てしまったようだ。コンコンコン。ノックの音で目が覚めた。
「直樹、晩ご飯できてるよ? 食べる?」
時間は夜9時を過ぎていた。腹はペコペコだ。お腹と背中がくっついちゃいそうだ。
母親の顔を見るのは気まずかったが、これこそ背に腹はかえられない。
そっとドアを開けると、目の前に母親が立っていた。
母ちゃん、こんなに小さかったか……?
「直樹、さっきはごめんね。お母さんが悪かったわ」
「ほんとだよ。一体、誰だったんだよ」
「この地域に就労支援センターっていうのがあってね。ちょっと相談してみたらね。あの人、関口さんっていうんだけど、すごく話を聞いてくれてね」
「へー。相談したの? 母ちゃんから? 俺のこと隠したがってるのに?」
関口という女性への嫌悪感が残っていたのか、意地悪な気持ちが湧いてきて皮肉をぶつけてしまった。
「だって、引きこもりをどうにかしたかったから。本当に直樹が心配で」
「そんなの分かってるよ!」
思わず語尾が強くなってしまった。
「だからお母さん、恥を忍んで……」
「は? 恥って何だよ、恥って」
ガッ! 頭を掴んで投げつけた。
ドンッ! 母親は壁に頭を打ち、床に倒れ込んだ。
「痛たたたた……」
「恥だと思ってんだな、俺のこと!」
腹を蹴りつける。
「うぅっ……。ごめ、んなさ、い……」
泣きながら母親が頭を下げる。いや、謝ってほしい訳じゃない。
「ふざけるな!」
もう一度、腹を蹴りつける。
「さっきの奴だって、あんなのポンコツだよ。ありきたりなことしか言ってないのに、えらそーにしやがって。あんなんで解決しようなんて甘いんだよ」
声が震えた。なぜだか涙が溢れてきた。
「俺だって。俺だって……。うっ」
直樹は部屋に戻ってドアに鍵をかけた。ベッドにダイブする。枕に顔を埋め、声を殺して泣いた。
扉の向こうからは、母親のうめき声と鼻をすする音がいつまでも聞こえた。
母親はあの時のことが忘れられないのだろう。直樹が語気を強めるとビクッとして黙り込むようになった。直樹の沸点を超えないように耐えているのだ。眉毛をハの字に、口をヘの字にして。それが余計に直樹をイラつかせる。だがこれ以上、母親を傷つけたくはないから、直樹は我慢することを覚えた。
暴力はいけない。分かっているから、モノに当たることが増えた。
先ほど投げつけて割ってしまった茶碗は、母親と栃木の日光へ旅行にいった時に益子で買ったものだったのに。 誕生日プレゼントでもらったマグカップも、お酒好きの母親にあげたウイスキーも。
大切にしているものなのに、大切にしているからこそ、壊してしまう。
近頃は、引きこもりが長期化して親が80代、子どもが50代となり、生活が困窮してしまうという「8050問題」が取り沙汰されている。
2019年5月に起こった神奈川県川崎市の登戸児童殺傷事件、続く6月に起こった元農林水産省事務次官による長男刺殺事件。これをきっかけに「8050問題」が注目されるようになった。
国の調査では40~64歳の中高年の引きこもりは全国で61万人もいるという。そんなに多いのかと驚くが、直樹も他人事ではない。
直樹は40代、母親は70代だが、「7040問題」も原因の根本は同じ。そう遠くない将来、共倒れになってしまう可能性は否定できない。
母親への罪悪感や、年齢を重ねる焦りもある。しかし…。
直樹は、自分の「居場所」はこの部屋にしかないと感じていた。