第1章 真由美(4)
次の日、出社すると全国の学校が臨時休校になるというニュースで持ちきりだった。
「子どもの安全が第一なのは分かるけど、急に言われてもな」
「上の娘が小学校卒業なんだけど、卒業式ってどうなるんだろう」
「ウチは夫婦共働きだから本当どうしよう。まだお留守番できないし、実家のお母さんに来てもらえるかな」
困惑の雰囲気が漂っている。普段、あまり親の顔を見せない人たちが一様に子どもたちの心配をしている。真由美はいつも以上に疎外感を感じた。
いきなりの休校に驚きはしたが、真由美は子どもがいないどころか結婚すらしていないので、自分には関係ないと思っていた。逆に、子どもは休みがいっぱいあって羨ましいなとさえ思ったほど。
先日出されたスポーツやイベントの自粛要請も、休日はあまり出歩かないインドア派の真由美は、いつもの生活とさほど変わらないと気にしていなかった。
しかし、新型コロナウイルスは突然、真由美の目の前にやってきた。
『新型コロナウイルスに関する対応について』という件名の社内メールを見て固まった。
『荘司商事株式会社は、新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため、2020年2月3月1日から本社・支店に勤務する会社員は原則、在宅勤務とします。派遣社員は原則、自宅待機とします。本体制に係る詳細は以下の通りです。』
心臓がバクバクしている。「自宅待機」の文字から視線が外せない。動かない頭で必死に考える。
社員は在宅勤務、自宅で仕事するってことだよね。つまり給料はもらえる。派遣社員は自宅待機、待つって言っても実質休みだよね。つまり給料なし…?
いやいやいやいや。意味が分からない。
「せいてんのへきれき」ってこういうことなんだ。漢字で書けないけど。
営業部の石橋彰部長がフロアにいる全員を集めた。社員の在宅の説明を始める。仕事の割り振りやテレビ会議の方法、衛生管理など細かく指示していたが、真由美の耳には全く入ってこなかった。そもそも関係がないので聞いていても意味はないのだが。
そして、石橋の最後の言葉にハッとした。
「自宅待機となる派遣社員の方たちは、それぞれの派遣会社から連絡がくると思いますので、指示に従ってください」
ナインプ派遣会社の内田大輔の顔を思い浮かべた。いつも親身になって話を聞いてくれる。何か質問すると的確に答えてくれる。信頼できる人だ。
石橋の話が終わると、まるで待っていたかのように内田から電話が掛かってきた。そっと廊下に出る。
「お疲れさまです。体調はいかがですか?」
普段なら内田の気遣いにさすがと思う所だが、真由美は我慢できずに尋ねた。
「自宅待機って休みってことですよね。給料なくなっちゃうんですけど、どうしたらいいんですか」
内田はきちんと説明してくれたが、メールに書いてある以上の情報は出てこなかった。
「しばらくは有給休暇でしのいで欲しいという方針です」
絶望的だった。荘司商事で働きだしてから6カ月経っていないので付与されていないのだ。
「まだ有休ないんですけど……」
「あぁ、失礼しました。それは……。どうしようもないですね。私どもも何かしら出来ないか考えておりますが、こんな状況ですので……」
頼もしいと思っていた内田が弱々しい声で弁解した。結局、何の解決策もないのだ。
「あと、これも申し上げにくいのですが、先日4月から6月の雇用契約を結びましたが、荘司商事さんのほうから一旦保留にさせてほしいと言われてしまいまして……」
トドメを刺された。
まさか朝出社した時は今日で最後になるとは思ってもいなかった。頼まれていた案件はなかったため、残りの時間はパソコンのデータ処理や机の清掃をして過ごした。
まだ契約解除が決定した訳ではない。だが、一度契約したものを覆すのだから、おそらく終了となるだろう。
終業時間になった。社員はみな在宅勤務の準備で慌ただしそうだ。
真由美はいつもの「お先に失礼します」の代わりに「ありがとうございました」と言ってみた。最後のあいさつとして。
返ってきたのは「お疲れさまでした」という、普段と変わらない返事だった。
この先の生活どうしよう。
ずっと考えているのに全く答えが見つからない。手掛かりすらない。
真っ暗闇だ。例えるなら、信州旅行で行った善光寺のお戒壇巡り。上下左右が真っ暗で、闇しか見えない。あの時、死後の世界とはこういうものかと感じた。
待って。極楽浄土へのお迎えは、まだ早すぎる。
引っ越ししたばかりで貯金と言える貯金はない。2月20日に1月分の給与振込を確認した時、残高は25万円ちょっと。月末で家賃6万円を支払い、20万円を切った。3月に振り込まれる給料は、2月は実働日数が少ないため手取り15万円くらいだろう。持って1カ月だ。
夕ご飯は今日も近江牛のすき焼きにした。当選した牛肉は800gもあったので小分けにして冷凍しておいたのだ。味を変えるためトマトをたっぷり入れて洋風すき焼きにしてみた。
「トマトの酸味でさっぱり~。近江牛の甘みを引き立てているわ」
例え自分の立場が不安定でも、おいしいものはおいしい。すき焼きを食べたら体にも心にもパワーをもらえた気がした。
よし、アルバイトをしよう。
新型コロナが早めに終息すれば派遣の契約も継続する可能性があるから、長期ではなくなるべく短期でできるものがいい。
さっそく、インターネットやフリーペーパーなどで様々なアルバイトを探した。しかし、新型コロナの影響なのか、求人募集が少ない気がした。介護施設のスタッフやマンションの清掃員などはあるが、いずれも長期だ。過去に様々な仕事を経験している真由美でも、単発の仕事となるとなかなか難しい。
「はぁ。やんなっちゃうなぁ」
カフェオレをひと口飲み、真由美はため息をついた。1日かけて思いつく求人サイトをあらかた検索したが、コレというものが見つからない。
気分転換にTwitterを開いた。相変わらずタイムラインは新型コロナのネタで溢れている。ドラッグストアでのマスクの奪い合いとか、トイレットペーパーを買い占める客を非難するとか、気が滅入るものばかりだった。
TLを追うのに飽きて、真由美は「バイト」で検索してみた。「新しいバイト、使えねー」とか「こんなブラックバイト、辞めてやる」などなど。Twitterは文句のはけ口になっていた。
「働くってどんな形でも大変だよね」
カフェオレを飲もうとカップに手を伸ばした時、「おっ」と目を引く文字が目に入った。
[荷物を運ぶだけの簡単なお仕事!
慣れれば1日で10万円稼げます!]
「1日で10万円! まさか」
そんなウマい話があるわけないと思いながらも、クリック。
[初心者歓迎! 誰でも稼げるようになります。
荷物を運ぶ仕事とは、バイクを使わないバイク便のようなものです。
A地点で荷物を受け取ってB地点へ届けるだけです。
履歴書不要。面接なし。簡単なアンケートはあります。
1日3時間程度。ただし日時が決まっていません。
急なお仕事に対応できる方、お願いします。
ただし、試用期間は1回3万円。
(株)リモーター 担当サカイ]
そうか。日時が決まっていないから高額なのか。3時間で3万円なら時給1万円。試用期間でも派遣の1日分の日給を軽く超える。鳥人ブブカのように、かるーく。
今は1日中ヒマだから呼ばれたらすぐに対応できる。怪しいなと思ったらお試しで辞めればいいし。とりあえず、お金を稼がないと。
真由美はほとんど悩まずに申し込みフォームに進んだ。アンケートは住所、氏名、年齢、性別、電話番号、メールアドレスと、本当に簡単なものだった。職歴や志望動機など全くない。真由美にとって懸賞に応募するよりもラクだった。