第1章 真由美(3)
「ハケンさん、ハケンさん」
ハケンという名前ではないので、とりあえず無視する。
「ハケンさん、ちょっといい?」
声をかけてきたのは隣の課の岡本浩二だ。おそらく50歳を過ぎているのに平社員。いわゆる窓際族だ。もう死語か、最近は社内ニートと言うらしい。
「何でしょうか、岡本さん」
机の真横に立たれ一方的に話し始めたので、仕方なく返事をする。
「今日さ、ウチのハケンさんが生理痛がなんたらで急に休んじゃって」
さすが窓際。デリカシーのカの字もない。
「簡単な資料作りなんだけど、ちょっと急ぎでお願いできないかな」
簡単だと言うなら自分でやれ。心の中で毒づいているのを隠しながら、真由美は微笑みながら言った。
「作業としてできることはできますが、担当外ですので課長に許可を取って頂けますか」
ただ、もう16時30分を過ぎている。簡単な資料といっても30分くらいはかかるだろう。残業になるかもしれない。
「今から佐藤さんに頼むと確実に残業になっちゃうから、山本さんにお願いしてください。派遣はタダじゃないんですから、基本は定時に帰さないとダメですよ」
冬でも日焼けしていることで有名な課長の香川恵一の声が聞こえてきた。気を遣って少しボリュームを抑えているようだが、普段から声が大きいから丸聞こえだ。
「ちょっと、山本。岡本さんの資料作り手伝ってやってくれ」
山本は「はーい。分かりました」とよく通る声で答えたあと、分かりやすくため息をついた。
「すみません。よろしくお願いします」
自分の仕事でもないのに真由美は謝った。残業代をケチる会社のほうに文句言えという言葉を飲み込んで。
派遣社員の中には定時で帰ることを良しとする人もいるだろう。真由美はできれば残業をして少しでも稼ぎたかった。
荘司商事の募集の条件に「30時間以内の残業あり」とあったので、1日9450円プラスアルファで考えていた。
マックス月30時間残業すれば、1350円×30時間で4万500円。これなら額面で25万円、手取りで20万円くらいになると。
絵に描いたような、見事な取らぬ狸の皮算用だった。
この会社というより、この営業部には「派遣には残業をさせてはならぬ」という暗黙のルールがあるようだ。
会社の業績とか景気とか細かいことは知らない。ただ、派遣社員にかかる人件費は部署ごとになっていて、営業部はあまり余裕がないらしいのだ。
結局、残業することはなく、17時になったので机を片付けてパソコンの電源を落とす。
「お疲れさまでした。お先に失礼しまーす」
真由美が申し訳なさそうに言うと、社員はみな「お疲れさまでした」と返してくれた。パソコンに目を向けたまま。
地下鉄の駅まで歩きながら、真由美は心の中で「石の上にも3年まで」と繰り返していた。本来の意味は、つらくても辛抱していればいつかは成し遂げられることの例えだ。しかし真由美は「まで」と強調することで我慢するのは3年だけなんだと言い聞かせていた。
同じ会社で働くのは長くて3年、短くても3年。
2018年10月に施行された労働者派遣法により、派遣社員は同一の派遣先で継続して3年以上働くことはできなくなった。その後、派遣先で直接雇用されるか、別の派遣先へ行くなどしなければならない。
これは不安定な有期雇用を減らし「安定した働き方をするため」の法改正だった。しかし雇う企業側は3年ごとに派遣社員を交代すれば問題はない。
つまり派遣社員は3年ごとに〝転職〟を強いられる。いったいどこが「安定」なのだろう。
企業が社員を必要とするなら中途採用で募集するし、派遣だとしても紹介予定派遣を選択するだろう。3年間派遣社員で済むような仕事なら、わざわざ社員にして人件費を増やすなんてありえない。
真由美は法改正に憤りながら、直接雇用への淡い期待はしないよう、派遣期間は3年だけだと誓ったのだ。
考え事をしながら歩いたら、あっという間に地下鉄の駅に着いた。ホームに電車が入ってくる。この生温かい地下鉄特有のにおいは苦手だ。
そもそも派遣社員が「交通費なし」っていうのが全く理解できない。自宅から荘司商事まで乗り換えなしで行けるから楽だけど、私鉄と地下鉄を使うから1カ月の定期代は1万6000円にもなる。自腹だ。1日半分、ただ働きだ。大手の派遣会社などは交通費を支給する所もあるらしいが、その分マージンは高いはずだ。
2020年4月から「同一労働同一賃金」が導入されても、格差なんて縮まらないだろう。同じ仕事をさせなければ高い賃金を払わなくて済むのだから。
帰りの電車内は、混んではいるが人に触れない程度の密度。適度な騒がしさに安心する。朝の満員電車は見ず知らずの人と密着するほど混雑しているのに、ほとんど会話が聞こえない。異様だと思う。真由美は上京して何十年も経つが朝の電車には全く慣れない。
真由美はスマホを取り出した。スーパーのチラシが一覧できるアプリを開く。帰りの電車で夕ご飯のメニューを立てるのが習慣なのだ。
コレが食べたいという自分の欲求より、冷蔵庫にはナニがあってアレを使い切らないとならないという感じで考える。チラシのお買い得の商品を中心に、いかに節約できるかを大事にしている。
自分でもケチだなーと思う。でもお金は無限にある訳じゃないから、きちんと考えて使わないと。
今日は豚肉と白菜が安いから、中華風の豚バラ白菜にしよう。
帰宅してスーパーで買った食材を冷蔵庫に入れていると、ピンポーンとチャイムが鳴った。宅配便だった。通販を頼んだ記憶はないけど何だろう。
差出人は「株式会社関東漬物」。
「やったー! 当たったぁー!!」
真由美はぴょんと小さく飛び跳ねた。漬物の会社が主催する、高級和牛のプレゼントキャンペーンに応募していたのだ。なんと、近江牛すき焼き用肉が800g! 箱を開けると、サシが細かく入った牛肉がキレイにならんでいる。
「うわぁ、美味しそう!」
夕ご飯のメニュー変更だ。
「すき焼きなんて、久しぶり~」
テンションが上がって独り言も大きくなった。
これだから懸賞はやめられない。節約好きの真由美にとって、唯一とも言える趣味だ。なんとなく応募して初めてイオンドライヤーが当選して以来、10年以上続いている。
普通、趣味ってお金のかかるものだけど、ハガキ1枚で高級食材や電化製品なんかがもらえるなんて、素晴らしすぎない?
がんばって応募してもハズレることのほうが多いが、その分、当選した時の喜びは大きい。
長年ケーマーをしていると「懸賞の当て方のコツ」が分かってくる。
どうせ懸賞なんて当たらないっていう人は、自動車とか現金100万円とか競争率の高い賞品に応募していたりする。これは本当に運でしかない。
まず競争率の低いキャンペーンを選択すること。そのためには、当選人数に対してどの程度応募があるか、どの程度の告知をしているかなど、情報収集が大事になる。
もう一つのコツはコメントを書くことだ。そんなこと、と思われるかもしれないが、懸賞の達人ガンちゃんも勧めていた。懸賞を始めた頃に試してみたら、次々と当選するようになった。
ただ「賞品が欲しい」と書いてもダメ。一瞬で目を引くような、ひねったひと言を絞りだすのだ。
この高級和牛のキャンペーンにも「いよいよオリンピックイヤー。日本一の牛肉で金メダル級の料理を作ります!」と2020年を意識したコメントを書いた。
「金メダル級のすき焼き、できましたー!」
玉子にくぐらせたレア気味の近江牛をほおばる。牛肉のうま味と脂の甘みで口が満たされる。
「はぁー! なんも言えねぇー」
水泳の北島康介選手の名言を真似してみる。あれは2008年の北京五輪か。私も藤原さんのこと笑えないな。
それにしても、高級和牛のすき焼きは笑っちゃうほどおいしい。久しぶりの贅沢だ。嫌なことがあっても、おいしいものを食べれば幸せになれる。
――速報です。安部晋三首相は2月27日、首相官邸で開かれた新型コロナウイルス感染症対策本部の会合で、私立を含め全国全ての小中学校、高校、特別支援学校に、3月2日から春休みまで臨時休校とするよう要請すると表明しました。政府はこの1、2週間が感染拡大防止の「正念場」とみており、この取り組みを強化して子どもたちへの感染拡大を防ぐため、全国的な休校に踏み切りました。――